「もうこれいらなーい」
ばしゃりと、音がした。頭から滴り落ちる温い黒い液体、これすなわちコーヒーである。今このときまで拭いていたアイスの上にコーヒーが上書きされた。床は汚れる一方だ。ひそひそと辺りから囁き声が聞こえる。
「お会計おねがーい」
呼ばれて早足で近寄ってきた店員が、私を見てぴたりと動きを止める。ぽかんとしたその顔を見て、止めていた思考を再開して、代わりに続けていた床拭きをやめる。
き に す る な。
口パクとアイコンタクトでそう伝えると、彼は慌てたように接客を再開する。コーヒーフロートと化した雑巾は、まるで私のようだった。
翌日、仕事が終わってエプロンを畳みながら自分にしか分からないように小さく息を吐いた。窓にはぺたぺたと雨粒が張り付いては剥がれていった。
「昨日、大丈夫だった?」
会計を引き受けた店員、つまり山崎退が歩み寄ってくる。彼はふにゃりと困ったように口端を歪めた。
「‥‥‥平気、」
「そ、そっか」
「なわけねーだろ地味」
「ちょ、地味を悪口みたいに言うな」
「みたいじゃないです、悪口です」
「‥‥‥、君、あのお客さんに何かしたの?」
実を言うと、全く心当たりがない。アイスクリームとブラックコーヒーを注文されて、届けて、彼女が一口食べて、スプーンが床に落ちて、それを拾うためにしゃがんで、べちょりとアイスが落ちて、私の頭に落ちて、それを拭いて、彼女はコーヒーを飲んで、そしてコーヒーは落下した。私に。
「じゃあ君、何も悪くないじゃないか」
彼が青い傘をばさりと広げる。雨粒が撥ねる。私は傘を持っていない。
「そうだよ」
災難だったねえ、と人事のように、実際人事だけれど、そう言った山崎は、その青い傘を私のほうに少し傾けた。こういう気遣いは、とても私にはできない。羨ましいと、思ってやらなくもなくもない。無言で見上げる。彼はへにゃりと笑って、行こうか、と歩き出す。私の歩幅に合わせて。
「ザキさん」
「なあに?」
「付き合ってもらえませんか?」
「どこ行くの!?」
少し速歩きをすれば、彼の歩幅は慌てたように広がった。交際の申し込みだと勘違いしないあたり、非常に好ましい。
「復讐するんです」
「え?あのお客さんに?」
「違う」
コーヒーフロートに。
「じゃあ俺はクリームソーダに復讐しようかな」
さらっと言った山崎に、突然腹が立った。地味にいい男である。山崎のくせに。
「奢られます」
「ありが‥‥‥え?」
「奢られます」
「え?」
しばらく歩いてから、そういえばこれは、相合い傘だということに気がついた。