たまに誰かの前で思いきり泣きたくなるときがある。原因なんてわからない。ただ、心の中になにか澱のようなものが渦巻いて、それがまぶたのすき間から染みでようとする。
「なにをしている」
石造りの館は、いつでもひんやりと冷たい。足元から這い上る冷気が、そこに私を凍りつかせる。邪魔にならないように、見つからないようにと隅にうずくまっていたのに、どうしてこういう時にだけ彼は現れるのだろう。
「答えろ」
冷たさすらない、なにも含まない声が鞭打つように私に響く。
「なにも……していません」
「だったら早く部屋に戻れ」
「はい」
遠ざかる足音にすがりつきたくなる。それでも足は動かない。自分が氷の塊になったような気分のまま、足元に広がる夕日を見つめる。夕暮れの太陽は、氷を溶かすにはぬるすぎる。
そうして太陽が夜空に追い出されて廊下はもっと冷たくなって、こうしてこのままここにいたら本当に氷になれるのではないか。
しばらく経って、硬い足音と微かに揺らめくランプの灯りが近づいて、そして止まった。
「なにをしている」
「なにも……」
「部屋に戻れと言っただろう」
「はい」
「なぜまだここにいる」
「……」
「立て」
その一言で何かの呪縛が解けたように足がふわりと軽くなった。のろのろと立ち上がると知らないうちに痺れたらしい両足が少しだけ震えていた。寒いのかもしれない。それすらわからない。うす暗い廊下で彼と向き合うことができずにうつむくと、目元が冷たく濡れた。
「責めているわけではない。なぜだと聞いているだけだ」
言葉通り、叱責されているわけでも呆れられているわけでもない。ただ問われているだけだ。それだけなのに、ぽろぽろと涙が落ちてとまらない。
「なぜ泣いている」
「わかりません」
「わからないのか」
「はい」
「そうか」
落ち着いた声に顔を上げると珍しく困惑した表情の彼がいた。怖いもの知らずなことに、今ならなんでも言える気がした。
「胸を貸してください」
「……」
「嫌じゃないでしょう?」
彼が何かを好むことが少ないのと同様に彼が何かを拒むことも少ない。返事がないのは了承だと受け取って遠慮なくしがみつく。どうせ洗濯するのは私だ。
「なぜ泣いている」
「わかりません」
「そればかりだな」
「あなたもです」
「明日は雨だぞ」
「タンスの中に同じのたくさんあるでしょう」
「……」
一定の速度で脈打つ心臓は、彼がたしかに生き物である証だった。