自分が不安定になっているのがよく分かった。寝不足のせいか、体調のせいか、原因はよく分からない。もしかしたら地球とこちらとの間の、時差ボケのようなものかもしれない。とにかく、なんだかだるくて、ちょっとしたことでもイライラしてしまうのだ。

「あーあ」

普段なら声に出さないようなため息も、うっかり漏れてしまう。

「どうしました?」

「あ、ごめん、なんでもないの」

窓辺で体の向きを変えて、こちらの手元を覗き込んでくる。ページの端をなぞって、小さく笑う。

「進んでいませんね」

「英語どころか日本語だって危ういのに、第二外国語までやってられないよ」

「少し休憩しますか?」

ちらりと手元のBaby-Gを見る。知らない国にあちこち連れて行かれても拗ねもせずグレもせず、健気にいつも働いている。本当に偉い。偉いぞ。とはいえ数字は20しか増えていない。

「流石にまだ早いなあ」

小学校の授業だって40分以上はある。文字が読めなくて困るのは自分だし、トラブルにも遭いやすい。学ぶ必要性は分かっているが、どうにも難解だ。

「英語よりだいぶ複雑だよね?」

「どうでしょうね……地球でいうと、ドイツ語に似ているかもしれません」

「しゅ、シュトーレン!バームクーヘン!」

知っているドイツ語なんてこのくらいだ。たまらず叫ぶと、今度は珍しく声をあげて笑った。

「すみません、陛下もまったく同じ反応をしてたもので」

「こんなとこでシンクロしなくていいんだよ」

開いているのは幼児向けの絵本だけれど、日本語の辞書がないのだからどうしようもない。初めて他言語に触れた人はどうやって勉強していたのだろう。

「口頭で確認していくしかないですから、あまり焦らなくてもいいと思いますよ」

「そうかなあ」

「そんな勉強熱心な殿下には申し訳ないんですが、」

「な、なに」

「今日はこれからダンスのレッスンがあります」

机に伏せっていた顔をくるりと動かして、違う違う、反対側だ。コンラートの顔をまじまじと見る。

「ダンスの?」

「レッスンがあります」

二回も言うな。



「あ、ごめん!」

「いちいち謝らなくていいと言っただろう」

「だって悪いし……」

「足を踏まれる度に謝られてたらキリがない」

「すみません」

私だって慣れない靴で足が痛いのだけど、完全にとばっちりを食らっているヴォルフラムの前ではとても言えない。短気な彼のことだからもっと怒るかと思っていたけれど、意外に辛抱強い。

「まったくおまえたちときたら、ダンスの一つも踊れないのだからな!」

「庶民の家ではダンスなんて習わないんだよー」

後ろから有利の声がしたと思ったら、背中同士でぶつかる。

「あ、わりぃ」

「ご両親はお上手でしたよ」

その有利のパートナー役が、学ランの腕の下でくるりと回転する。女役も完ぺきに踊れるらしいコンラートは、腰を屈めて少し辛そうだ。
そんなことに気を取られていると、やはりまた革靴の柔らかい感触。

「あ、ごめ、いや、今のは、」

「余所見をするな!」

「すみません」

男役なら華麗に踊れるヴォルフラムは、私のパートナー役だ。なぜこんな踵の高い靴を履いて慣れないダンスの練習なんぞをしているかと言えば、有利がどこぞの貴族のパーティーに招待されたからだ。新米魔王を招待してくれるなんてありがたい話だけれど、なぜ私まで。

「なぜそんなにぎこちないんだ」

「普通の女子高生はこんなに他人と密着して踊ったりしないんだよ!」

「そこは反対回りだ!」

「失礼しました!」

何度目かの休憩で、椅子に座って足を投げ出す。慣れない靴から解放してやれば、じんじんと鈍い痛みがリズムを刻む。

「女子は大変だなあ」

まるで他人事のような有利はと言えば、ここ数日でだいぶダンスに慣れたようだ。というか、私がいないところでデビューも済ませているらしい。

「明日、私も行かなきゃダメ?」

「だって二人で来てください、って言われてんだぞ。なるべく行ったほうがいいだろ」

「行ったら踊らなきゃいけないでしょ?しかも見ず知らずの人と?」

「それは俺も同じだっての」

「そーだけど」

そうなんだけど、そうなんだけどもやもやするのだ。
それをどうにも言葉にできないまま、結局その後の練習でも上手く踊れなかった。

自室のベッドに腰掛けて、靴を脱ぐ。うらめしい気分で眺めるものの、どうにも嫌いにはなれない。だってやっぱり可愛いのだ。可愛くて、なんだか大人になった気分で、憧れで、自分にはまだ早いような。だから足が痛むのだと、そう思う。地球にいるだけだったら、しばらくは縁のないはずだったもの。
痛む踵と爪先は、その違和感の証なのだろうか。
喉がきゅっと締まって、鼻の奥がツンとした。泣くようなことなんて何もないはずなのに。
歯を食いしばって、涙を堪える。泣いた跡が残ればどうしたと聞かれるし、心配かけたくないし、こんなつまらない理由で泣くやつだと思われたくない。

こんな時こそ運動だ。筋トレだ。ベッドから飛び降りて、いち、に、さん、し。

「おーい、夕飯だって、」

ガチャリと扉が開いて、有利が顔を出す。

「スカートでスクワットすんな!」

「ノックしてよ!」

「それは悪かった!」



夜中にぱかりと目が覚めた。何かと思ったら、少しだけ空いていた窓から吹き込む風の音だった。布団から抜け出して、窓辺に寄る。閉めようと思った窓を、開け放した。柔らかい空気が滑り込んでくる。想像していたよりも、暖かい風だった。窓を閉める。そして、重たい扉をそっと開く。頭だけ出して様子を窺う。廊下に人影はなく、小さな炎が揺らめくだけだ。長い廊下を歩いて、庭に出る。建物から少し離れると、暗闇を強く感じた。緩やかに風が吹いて、雲を散らす。見上げた空には、ほとんどまんまるの月が煌々と昇っていた。

裸足になって、夜風で冷えた地面を踏む。短く生え揃った草はさわさわと心地よく、その下の土は柔らかい。昼間のステップを思い出して、踊る。月明かりで出来た影と二人きりで、音楽は鼻歌で。自分でも驚くくらいに、自然と体が動いた。

一曲終えたところで、控えめな拍手が聞こえる。驚いて振り返ると、普段通りの軍服に身を包んだコンラートが立っていた。

「いつからそこに」

「三回目のターンあたりですかね」

「ほとんど最初じゃない!」

ということは鼻歌をまるまる一曲聞かれていたわけで、ひとりでくるくる踊っていたのを見られていたわけで、顔に熱が集まるのが分かる。恥ずかしくなって慌てて背を向けると、その肩にショールをかけられた。

「こんな薄着では風邪を引いてしまいますよ」

「今はとっても熱いんだよ……」

「とても上手でしたよ?」

そうじゃない、そうじゃないんだコンラート。赤くなっているだろうほっぺたを両手で押さえながら振り向く。

「俺とも一曲、踊っていただけませんか?」

差し出された手を、取る。

「足、踏んじゃうかも」

ふと足元を見ると、いつの間に脱いだのかコンラートも裸足になっていた。
二人して裸足なのがおかしくて、笑いがこみ上げてくる。

「へへ、なーんか変なの」

腰に回された手に少しだけ力が加わる。体が触れ合いそうで触れ合わなくて、でも体温は伝わる。
低い声で、コンラートが歌う。ステップを気にして足元を見ようと俯く。

「顔を上げてください、大丈夫」

「でも、わ!」

体を持ち上げられて、ぐるりと一周。驚いてコンラートの顔を見ると、彼にしては珍しく、悪戯が成功した子供のような顔で笑っていた。

「わかったよ」

こうなりゃヤケだと、感覚に任せて足を動かす。上手く誘導してくれているのか、ひとりで踊った時のように軽やかだった。
一曲終わって、一度も足を踏まなかったことにホッとする。

「なんか自信付いたかも」

前髪をそっと梳かれて、ショールをかけ直された。

「短い時間でしたけど、ステップもよく覚えてらっしゃいます。この調子なら大丈夫ですよ」

にこりと微笑まれると、本当に大丈夫な気がしてくる。

「ありがとう、コンラート」

「では、そろそろ部屋に戻りましょうか。明日は少し早起きしなくちゃいけませんから」

部屋まで送ってくれたコンラートにもう一度お礼を言ってから、布団に潜り込む。目を閉じると、明るい月の光とそれを背に微笑むコンラート、柔らかい歌声が頭の中にぼんやりと広がる。ステップを思い出しているうちに、気がついたら眠っていた。



「うわー、これ映画とかで見たことある」

眼下に広がるのはきらびやかな室内、人々のさざめき、そして優雅な音楽を奏でる楽団の皆さん。
隣には黒いタキシードと、さらにその隣には青いタキシード。背後には白い軍服。

「いっつも黒だねえ」

「そういうお前はいつも違う色でいいよな!」

「コンラートのは式典とかでたまに着てるよね?」

「聞けよ!」

隣で喋り続ける有利にはせめてもの八つ当たりだ。少しだけ首を回してコンラートの全身をさっと眺める。

「俺は招待客じゃないので」

小さく微笑んだコンラートが、私と有利の背中にそっと触れる。

「さあ、皆さんお待ちかねですよ。ゆっくり階段を降りてください」

2人でちらりと視線を交わして、有利が一歩踏み出した。シャンデリアの明かりが直接顔に当たる。会場中の視線がいっせいに集まったみたいに感じた。
差し出された手を小さく握る。その手が珍しく冷たくて、緊張しているのが自分だけではないと分かって、なんだかホッとした。
私達のほんの少し後をヴォルフラムが歩く。コンラートの気配はしないから、後から来るのだろうか。大勢の人の視線で、もはや笑うしかない。隣の有利をちらりと盗み見れば、何か別のことを考えている顔だ。さすが魔王は場数が違うらしい。

最後の段差を踏み越えて、きらびやかな空間に立ち竦む。有利の手がそっと離れていった。足先が冷たい気がする。

「ヴォルフラムは場慣れもしてますし、訓練も受けています。思い切り頼ってやってください」

いつの間に追いついたのか、耳元より少し上でコンラートが囁く。それに小さく頷いて、無理矢理口角を上げる。
はじめのダンスは主賓とホストのペアだと決まっているそうだ。有利はこの館の奥様と、私はヴォルフラムと。
白い手を差し出した彼が、優雅に微笑む。

「万が一足を踏んだとしても、何もなかったかのように踊れ。いいな。おまえにみっともない真似はさせない」

「は、はい」

強気な瞳で、私にしか聞こえないくらいの小さな声なのに自信に溢れている。こういう時のプリンスはすこぶる頼もしい。
まとまりのなかったメロディが、聞いたような曲調になる。

宣言通り、ヴォルフラムは私に足を踏まれても痛がる素ぶりも怪訝な顔もしなかった。三度中三度とも。むしろ王子様スマイルを深めただけで、若い娘さんの視線を集めていた。

「ヴォルフ、ありがとう」

なんとか踊りきった後にこっそりとお礼を言うと、素っ気ない言葉が返ってきた。

「なにがだ」

男前過ぎる。ヴォルフラムじゃなければ惚れているところだ。

次にその城の次男坊と踊ることになった。三度目のターンまでに五回足を踏んで、七回目についに小さな呻き声を聞いた。

「ご、ごめんなさい」

「い、いえ、とても新鮮な気持ちで踊れました」

社交辞令が余計に痛々しく感じる。
一曲踊り終わるまでずいぶん長く感じた。上手く笑えただろうか。顔が熱い気がして、相手が立ち去るのを待ってから頬に触れる。感じたのは手の冷たさだけだった。
壁際までなるべくゆっくり見えるように歩く。スカートがふんわりしているので寄りかかることはできない。足が痛いけれど、こんなところで靴は脱げない。
一人で会場を眺める。中央に何人か集まって、今度はテンポの速い曲を踊るようだ。まあるく散らばって、ぐるぐると進む。有利はなんだかんだとエスコートしたりされたり、上手に踊っている。ヴォルフラムはどこかの紳士と楽しそうに話し込んでいる。こんな風なのは自分だけで、情けなくて涙が出そうだ。
俯いて、瞬きをする。

「少し風に当たりませんか」

隣から聞こえた声に、小さく頷いた。
コンラートの後についてバルコニーに出る。見上げた空には、まあるい月。その周りを雲がぐるりと囲んでいて、まるで見えないドームに覆われているみたいだった。

「やっぱりダメだったみたい」

気にしてないように言ったつもりが、自分でも笑えるくらいにへこたれた声だった。
へへっ、と漏れた笑いも震えている。
コンラートは口を挟まず、私の言葉を待っているようだった。
欄干に肘をついて、広い庭園を見下ろす。

「何度も踏んづけちゃった。イケメンだったのに、悪いことしたな」

夜風は少しだけ冷たい。普段は出さない肩が出ているせいだろうか。
目元に指先を当てるとじんわりと冷たくなって、慌てて離す。見れば手袋に薄っすらとした黒い染みが出来ていた。アイメイクの何かしらが落ちたのだろうか。

「こ、コンラート!だいじょぶかな、パンダになってないかな」

振り返って顔を指差す。驚いたような顔をして、それから柔らかく目を細めた。硬い指先が、そっと私の目元をなぞった。

「大丈夫、いつも通り可愛らしいままですよ」

わざとそういう言い方をしてくれているのに気がついてしまって、茶化し返そうとするのに、喉から出たのは情けない悲鳴だった。

「私だけこんな中途半端で、」

ごめんね、というのは逃げだ。そう言えばコンラートは私が知らない、私が欲しい言葉で慰めてくれる。

「殿下」

静かに差し出されたハンカチは、真っ白で、真っ直ぐだ。アイロンは自分でかけているのだろうか。

「だめだよ、今日はお化粧してもらってあるから汚しちゃう」

「あなたにならどんなに汚されてもかまいませんよ」

思わず顔を上げると、真剣な表情とぶつかる。かと思えば、すぐに口元が可笑しそうに緩んだ。

「……よくそんなセリフが、さらっと、」

笑いが込み上げてきて、そして、こらえ損ねた嗚咽が漏れる。
肩を抱かれて二人で会場に背を向けた。コンラートの手の平が、小さな子を落ち着かせるようにゆったりと私を叩く。

「あんなに練習したのに、ゆーちゃんはちゃんとできてるのに、私はいつもこんなで、でもこういうとこに来るぐらいしかできないから、帰るまで我慢もできないし、」

涙と一緒に泣き言がぽろぽろ溢れる。
コンラートは何も言わない。ただただ寄り添ってくれている。
会場から流れる音楽が、曲調を変える。

「踊ってみますか」

「……やったことないよ」

「大丈夫、なんとなく揺れていればいいんです」

腰に手を回されて、向かい合わせになる。

「失礼」

指先でそっと目元を拭われる。それから、言った通りにしようとして、上手くできなくて、結局コンラートに体を預けた。

「もういいや、まかせた」

視線をずらして、広間を盗み見る。踊る人、話す人、軽食をつまむ人。きらびやかな明かりの下で、思い思いでいるようで、きっとそうではないんだろう。色々なしがらみがあって、その上で笑顔を見せているのだ。

「殿下」

「ん?」

「ゆっくりでいいんです」

にこりと、いつもの顔で笑う。コンラートもきっと、きっと。

「うん」

いつか踊れるようになった時、私はどんな顔で笑うんだろう。こんな風に笑えるだろうか。
月夜のダンスは少しだけ苦くて、少しだけ甘かった。









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