国主であり城主である有利に比べたら比較的自由の利く私は、城下をぶらつくことが多い。心配性なギュンターやコンラートのことだから護衛を付けてくれていると思うけれど、その気配を感じたことはない。あくまで一人で行動させてくれるということらしく、なんともありがたいことだ。
何を買うでもなく気ままに店を見てまわるのは楽しい。あまりお金を使いたくないから、品物を見て誰にあげたら喜んでくれそうだとか似合いそうだとか、自分で考えるだけで満足して終わりにする。「殿下」という大層な身分のわりにはあまり眞魔国の皆さまには貢献できていないので、物語のお姫様のように店ごと買い上げるなんて真似は一生かかってもできそうにない。この話をコンラートの前でポロリとこぼしたら、「そんなことはありませんよ」といつもの笑顔であれこれ諭された。このまま肯定され続けたらものすごく我が儘になってしまいそうだ。
考え事をしていたら、いつのまにか人気のないところに来てしまった。(たぶん)護衛の皆さんがいらっしゃるとは言え、自分から危なさそうなところに踏み込むのもいかがなものか。回れ右をして帰ろうとしたとき、微かに話し声が聞こえてきた。低く威圧的な声が複数と、弱々しく震えた声がひとつ。これは、地球でもおなじみどころかムラケンがやられてたやつ、
「カツアゲだ」
認識した途端、体は動き出す。少し走って角を曲がればほら、やっぱり。
「ちょっと、君たち何やってんの!」
全員私と同じくらいの見た目だから、80歳前後だろうか。柄の悪そうなのが二人、気弱そうな少年を威圧していた。こちらに気がついた彼らは剣呑な目で私を上から下まで眺めた。
「なんだよ、俺たちはちょっとコイツから金を借りようとしてたんだよ」
「なんか文句あんのか?」
あまりにもベタなセリフに乾いた笑いが零れた。どこの世界にもこういう輩はいるらしい。
「文句も何もそれ犯罪だから。いや、この国の法律がどうなってるか知らないけど魔王自身は許さないと思うよ」
許せなくて、そしてこの地に流されたんだから。
わざとらしく舌打ちしてから、二人がこちらに寄ってくる。目の前まで来られて、思っていたよりも上背があることに気がついた。けれどここで動揺して見せれば、それこそこちらがいいカモだ。睨み付けつつ、彼らの後方を見れば気弱君が走り去っていくのが分かった。なにもここまで有利の時と同じパターンにしなくてもいいだろうに、神様、いや、眞王様は何を考えているのか。
「調子に乗ってると女だからって容赦しないぞ」
「悪いことを悪いと言っただけだよ」
「はあ?」
男の腕が伸びてきて、胸ぐらを掴もうとした。歯を食いしばって、来るかもしれない衝撃に備える。けれど、何故かぎょっとしたようにたじろいで、二人揃って慌てて駆け出して行った。
なんだったんだ一体。疑問は残るが、ともあれ何事もなくてよかった。正直、腕力に訴えられたら無事な見込みはない。知らずに詰めていた息を吐き出すと、自分の想像以上に緊張していたことが分かった。
今日はもう帰ろう。来た道を引き返そうと振り向くと、今度は私がぎょっとする番だった。
「正義感が強いのはあなたの誇るべきところですが、俺の心臓にはあまり良くないですね」
「コンラート……」
見知った軍服を来た彼が、腕組みをして路地を塞ぐように立っていた。長い足でこちらに近付く。
「お怪我はありませんか?」
「ない、です」
ああ、彼らが突然逃げ出したのは、きっと私の後ろのコンラートを見たからだ。さぞ怖い顔で、もしかしたら剣をちらつかせていたかもしれない。
表情はにこやかだが、こういうときは何を考えているか分からない。きっとゆーちゃんには分かるんだろう。そのことが少しだけ気にかかる。
「もう今日は帰ります」
「そうしてくださると嬉しいですね」
左手を差し出されて、右手で掴む。乾いた彼の手は温かくて、自分の手が汗ばんでいることを知った。緊張のせいか。それを気づかれたくなくて咄嗟に引き抜くも、反射神経で敵うはずもなく、しっかりと握り返される。
「エスコートさせてくれますか?」
返事を聞く前に歩き始めている。今回は自分が悪いことを自覚しているので、抗議する気にもならない。日は傾きはじめ、元々少なかった人通りは、もはや無いに等しい。角を曲がって川沿いに出ると、水面だけは太陽の光を反射して明るかった。
コンラートに手を引かれ、黙って歩く。いつもなら話したいこと、聞きたいことがどんどん出てくるのに、今日はさっぱりだ。
ああ、間抜けだなあ。
気ばかり急いて、実力が伴わない。それは今日のことばかりでなく、眞魔国での自分の立場にも当てはまる。「殿下」などと呼ばれてみても、有利と違って国や仲間のために何かしたことがあっただろうか。今日だってコンラートがいたからどうにかなっただけで、自分の力では何もできなかった。彼もさすがに呆れたかもしれない。何かするどころか、迷惑かけてばかりだ。
「私、なんで毎回呼ばれるのかな」
魔王のおまけとして眞王様がなんとなく呼んでいるのかも。ムラケンの口ぶりからするに、かなり気まぐれな人のようだったから。
言いながら、声が震えた。コンラートが立ち止まる。顔を見られたくなくて、うつむいた。
「俺にも理由は分かりません」
うつむいたのは失敗だった。重力に逆らいきれずに、足元に水滴が落ちた。明らかに泣いている声を聞かれたくなくて、返事もできない。顔も見られない。ただ、その声だけを聞いている。
「でも、あなたがここにいることが無意味だと感じたことは一度もない」
握られた手に少しだけ力がこもった。促されている気がして、言葉が零れた。
「うそ、だ」
「嘘じゃありません」
「だって、迷惑かけてばっかで、今日も何も、」
「あなたがいたからあの少年はお金を取られずに済みました」
「あれはコンラートが後ろにいたから」
「いいえ。俺が姿を見せる前に彼は逃げ出していました。間違いなく、彼は貴女が助けたんです」
いま彼は、どんな顔をしているんだろう。ふいに見たくなって、顔を上げる。けれど、もう彼は前を向いていた。手を引かれて歩き出す。あーあ、惜しいことしたな。
「コンラート」
「はい」
「……呼んだだけ」
「そうですか」
笑いを含んだ声は、少しだけ楽しそうだった。その声に安心して、一度は落ち着いていた瞼がまた熱くなる。
「コンラート、」
「はい」
「怖かったよ」
怖かった。彼らに殴られるかもしれないと思って、本当はすごく怖かった。緊張の糸が切れたらしく、涙が静かに落ちていく。
こうして私を掴んでいる手は温かくて、もう大丈夫だと、彼がいれば安心だと、そう言われている気がした。
「俺もです」
「え?」
「俺も怖かったです」
ゆっくりとしたペースで、夕日に向かって歩いていく。ずいぶんと傾いた日が、私達を照らしていた。光が強くて目がちかちかする。
「あなたが傷付くかもしれないと思って。でも、あそこで迷わず行動できるのがあなたや陛下だから」
立ち止まって、振り返る。
「あまり無茶はして欲しくありません。けれど、そのままでいて欲しいとも思う」
夕日を背にした彼の表情はよく見えなかった。でも、分かった。いま彼がどんな顔をしているのか、分かって、それが嬉しくて泣きながら笑った。
「我が儘ですみません」
「全然すまなそうじゃないね」
「そうですか?」
空いているほうの袖口で涙を拭う。握られた手をそっとほどいて、繋ぎ直す。ぎゅっと握ると、コンラートも指先にだけ力を込めた。
オレンジ色に縁取られた彼はいま、眩しそうに目を細めて笑っているに違いない。見なくても分かる。それは多分、彼も同じだと思う。
遠くで鐘が鳴って、静かに夜のはじまりを告げた。