大きく足を踏み出して、その歩幅のまま闇の中を走る。月のない夜で、星の光も弱い。自分の荒い呼吸音が耳障りだった。冷たい空気のせいですぐに肺が痛くなる。走りながら、一度だけ俯いて唾を飲み込んで、また顔を上げる。後ろを振り返る余裕はない。冷たい空気が顔や剥き出しの手足にピシピシと爪を立てながら流れていく。

もうこれ以上は走れない。でも足を止めれば、掴まってしまう。待て、とか、止まれ、とか、そんな言葉が聞こえた気がしたけれどその言葉に甘えてしまえば自分はどうなってしまうのだろうか。そんなことを考えたのがいけなかったのか、もう限界だったのか。精一杯動かし続けていた足がもつれて、次の瞬間には乾いたアスファルトに胸と顎を擦り付けていた。

「はあっ、はあっ」

起き上がろうと何度ももがいてみたが、腕に力が入らずその度にみっともなくべしゃりと潰れてしまう。
足音がすぐ近くまで近づいて、止まる。呼吸はなおも荒いまま、そして、自分以外の呼吸で、自分の名前を呼ばれた。

「っ、ん、」

「大丈夫ですか」

「っ!」

パーン、と鼓膜を震わす小気味いい音が響いた。
その音と衝撃で目が覚める。
ジワリと手の平がしびれた様に震えて、次いで呆然としたように見開かれた彼の茶色の瞳と視線が重なる。

「え?なに?私が殴ったの!?なんで!?ドメスティックバイオレンス!?」

ガッと目を見開いて体を起こそうとすると、そっと肩を押さえつけられた。彼はすぐにいつもの、とまではいかないまでも落ち着いた表情に戻って、笑った。

「うなされていましたよ」

「うわあああ、ごめん、ほんとに、あの、」

「いえ、起こしに来たのが俺でよかった。ギュンターだったら卒倒してますよ。ショックで」

「ああ、それはそうかも。ってそうじゃなくて!」

わざわざ悪夢から救い出してくれた相手を寝起きとはいえ思い切り引っ叩いたわけで、これはドメスティックなバイオレンスにほかならないのではないだろうか。こっちの手の平の痺れがいまだにほんのり残っているあたり、彼の頬はもっと痛いはず。それなのに怒るどころか笑顔でこっちの心配とはどれだけ器が大きいのか。やはりギャグセンスだけが弱点の人間(魔族?)は違う。

「ほんとにごめんね。まだ痛いでしょ?氷もらってくるよ」

今度こそ起き上がってベッドを抜け出そうとすると、片手で制しながら、ところで、と言った。

「どんなひどい夢を見ていたんです?ひどい汗ですよ」

言われてみれば額や背中にじんわりと汗をかいていた。差し出されたハンカチ――こんな時間でもアイロンがぴしっとかけられている――をありがたく受け取って、思い出せる限りで説明する。彼にはなぜ自分がはたかれたか知る権利があるだろう。

「というわけで、寝ぼけてコンラッドのことをその追っかけてきた人だと思っちゃったのね」

「追いかけられる夢、ですか」

彼は顎に手をあてながらほんの少しだけ首を傾げた。その間にまじまじと姿を見る。上はシンプルな白いシャツ、下はいつもの軍服にブーツだ。一体彼はいつ寝ているのだろう。

「なにかストレスでも?それとも地球でなにかありましたか?」

「うーん、とくに思いあたる節はないけど……」

「ならいいんですが」

「じゃなくて!ほんとにごめん!大丈夫?もう痛くない?」

頬に手を伸ばしかけて、やっぱり触らないほうがいい気がしてそっと引っ込める。

「ええ。少し驚いただけです。そんなに痛くありませんでしたよ」

「はああ、いやいや、ほんとに面目ない。痛くなってきたら言ってね、その、氷ぐらいなら取ってくるから」

「ええ、じゃあその時はお願いします」

そのときはいつもの爽やかな(ヨザック曰く胡散くさい)スマイルを見せて、しばらく他愛もない話をしてから彼は礼儀正しく退室した。淑女の部屋に夜更けに入り浸るのは外聞が悪いので、なんて冗談を言いながら。
問題は翌朝だ。珍しく朝食前に本日の予定を伝えにきていたギュンターを横目に、いつも通り有利と焼きたてふわふわのパンを頬張っていたときだった。

「遅くなってすみません」

「おお、コンラッド、珍しいね。寝坊?ってどーしたんだそのほっぺ?」

有利の声を聞いて思わずむせた。むせながら彼のほうを見ると、昨日自分が叩いたと思われる右頬に白いガーゼを貼っていたのだ。

「いえ、これは、」

「あああああ!コンラッドごめん!やっぱ腫れてるじゃん!」

立ち上がって彼に近づく。落ち着きのない犬みたいに彼の周りをうろうろしていると、後ろで有利までもが近づいてきて、兄妹そろって彼の前でわたわたと動き回る始末だ。

「ごめんね、ごめんね、やっぱ痛かったよね」

「事情はよく分かんないけど俺からもごめんな!痛い?痛い?」

「ああもう二人そろって。大丈夫です。俺は痛くないといっているのに城の者たちが心配して貼ってくれたんですよ。そんなに心配しないでください」

「あのー……」

それまで妙に静かだったギュンターがおずおずと手を上げた。はいそこギュンター君!と有利が指差すといつもならすぐに顔を赤める彼が、珍しく白いような青いような顔で口を開いた。

「あの、それは殿下がコンラートを叩いたのですか?なにかの間違いではなく?」

「え?うん、そうなの。昨日の夜に私が。間違いなく私が思いっきり。ううう、ほんとに申し訳なくて」

なんと言えばいいのか、と言い切る前に彼が直立したまま後ろに倒れた。綺麗な放物線を描いて。そういえばもうすぐ期末テストだけど二次関数も出るんだっけ?教えてムラケンくーん!

「にゃんだー、おまえはー」

ベッドのほうから声がした。よだれを口の端にくっつけたまま、美少年台無しの半目をぱちぱちと動かしながらほんの少しだけ起き上がる。

「ヴォルフ、おはよう」

「コンラートに求婚したのか。まったく、おまえらはどうしてそう自分の激情に身を任せたがるんだ」

「……」

「……」

「……」

言うだけ言ってまたベッドインしたヴォルフは自分がどれだけのことを発言してくれやがったのか知らないだろう。ああ、視界の端で血だまりに倒れるギュンターが蠢いた。

「あの、陛下、これは事故なんです」

「いいんだよコンラッド。たとえあんたが俺の妹とどういうことになっていたって、いいんだよ」

「ああっ、ゆーちゃん!現実逃避はヤメテー!先人の知恵を貸してー!」

有利の肩を掴んでがくがく揺すっていると、後ろから控えめな咳払いが聞こえた。

「あの、殿下。あんまり揺すると陛下の首がとれてしまいます」

「うん?ああ、そっか」

「それから、求婚の件ですが、取り消せばいいのでは」

「ああ、そうだよー」

それまで「星がー」とか「川で鯉が手を振っているー」とか要領を得ないことばかり言っていた有利が思いついた、とばかりに手の平を合わせた。まったくゆーちゃんたら、ライオンズファンのくせにベイスターズやカープのことばっかり言っても仕方ないのに。

「俺のときは勘違いしたまま絶対取り消さないって言ったからややこしくなったんだよ。今回は不慮の事故なんだろ?だったら取り消せばノープロブレムなんじゃないの?」

「そのとおりでございます陛下っ!」

ばね仕掛けでも付いているのか、灰色の髪といろいろな汁を撒き散らしながら起き上がったギュンターがそっと私の手を握る、いや、むしろ包み込む。

「ああっ、汁が……」

「さあさあ殿下、取り消して下さいませ!今ならわたくし達しかおりませんし、内々にこの問題を終わらせることができます」

ギュンターの言うとおりだ。昨晩のあれは完璧に他意のない事故だったし、一晩経ってもその事実は変わらない。この場にはいつもの面々しかいないし、今ここで解決できる些細な笑い話だ。そう、些細な話だ。今ここで、私が「間違いだった、取り消す」と言いさえすれば。

「昨日の一件は、」

有利はいつだって肝心な場面で頭に血が上って、それで落ち込んでいる。私はたいていそれを慰めたりからかったりする側で、彼みたいにトルコ行進曲なんてあだ名を付けられたりしていないし、監督を殴ってチームをクビになったりもしていない。けれど、血というのは争えないもので、端から見たらそうでなくても頭の中では有利と同じくらい賑やかな脳内だったりするのだ。

「……間違いじゃない。取り消さない」

「……え?」

ギュンターが表情はそのままに、白目を剥いた。そっと手を外す。

「絶対に、取り消さない!」

かくして、白目一名、顎が外れそうなほど口を開いているカミクロ一名、まだ夢の中を彷徨っている天使一名、そして、怖くて表情を確認できなかった一名をその場に残して、私は出せる限りの全速力で王の私室から逃げ出した。



「おまえもユーリも髪が黒いからすぐに分かるな」

隣に素早く座る様子はやはり軍人と言うべきか、身のこなしに無駄がない。それでも華やかに見えるのは育ちのせいか見た目のせいか。とりあえず育ちも見た目もごくごく普通の自分としてはそれなりに羨ましく感じるときもある。

「おはようヴォルフ」

「もう昼過ぎだぞ」

「朝はちゃんと挨拶してないもん」

「朝といえば、」

聞いたぞ、と言いながら籠を差し出す。取っ手が付いていて、膝の上に収まる程度の小ぶりなものだ。マドラスチェックの布巾をめくるとカラフルなサンドイッチが詰まっていた。予想外の嬉しい手土産に思わず声が出る。

「まだ食べていないんだろう」

「ありがとう」

「おまえ、コンラートのことが好きだったのか。全然気がつかなかったぞ」

「うーん……」

まずは卵から。バターを混ぜてあるのか少し固めにできている。うん、美味しい。なんの卵かは分からないけど。なにせカエルを日常的に食べる国だし。それでも美味しいものは美味しいので二口目を頬張る。

「……違うのか?」

「うーん……」

「なんだ、はっきりしない奴だな。おまえもユーリ同様へなちょこなのか」

「へなひょほほっへひうはー」

「ああっ、もう、きちんと飲み込んでから話せ。一国の王女がはしたないぞ」

ビンに入ったミルク(たぶん牛)でパンを流しこむ。ほんのりフルーツの香りがして、こちらの世界にフルーツ牛乳の概念があったことに驚く。ふとビンのラベルを見ると、毒女印が彫られていた。おおかた、ゆーちゃんがアニシナさんにぽろりしたのだろう。

「よそではお淑やかにしますー」

「ふん、ユーリと一緒に落ち着きなく行動する奴がよく言う」

「ぐぬぬ」

「まあいい。なんにせよ、近々正式に婚約ということになるだろう」

「……え?」

「コンラートは前魔王である母上の息子だし、先の大戦では英雄扱いだ。現魔王の妹だか姉だかであるおまえと十分釣り合うから反対の声もほとんどないだろう。それに、だ」

「うん?」

「立場的には魔王に次ぐ地位のおまえからの求婚だ。断るなんて不敬なこと、周りがさせるはずないだろう」

噛んでいたサンドイッチから急に味がしなくなった。沈黙の言い訳としてただひたすら咀嚼する。ヴォルフラムは立ち上がり、お尻を少しはたいて埃を払った。

「相談したいことがあったらいつでも言え。なにしろおまえら二人はへなちょこだからな」

太陽を背にした彼はきらきらと輝いていて、その自信たっぷりな表情に少しだけ気分が和らいで、いつまでも咀嚼を続けていた塊を飲み込む。

「うん、ありがとう」

礼を言えば、気が済んだのかきびきびとした足取りで城の中へ戻っていった。
あのときは頭に血が上ったまま行動してしまったけれど、改めて自分の立場を鑑みるとなんて軽率な行動をしたのかと情けなくなる。どんなに有利が飾らなくても、どんなに私に自覚がなくても、どんなに周りがフランクに接してくれても、それはこの守られた狭い環境だから許されていることであって、一歩でもはみ出ればヴォルフが言葉にしていた御伽噺の世界のほうが現実なのだ。



その日の晩餐は体調不良と言い張って辞退して、早々にあてがわれている私室に引きこもった。まず、コンラッドに会うことが気まずい、というか、気持ちの整理がついていない。そしてゆーちゃんと顔を合わせるのもなんだか気恥ずかしい。だって、言うなればプロポーズの場面を身内に見られるということだ。意外と肉食系のゆーちゃんには分からないかもしれないが、私は奥手なほうなのだ。双子だからと言って性格までそのままそっくりなわけではない。私はしょーちゃんのように頭脳特化型でもなければゆーちゃんのように脳味噌筋肉族でもない。そこらへんにいるごく一般的な女子高生である(と思っている)。恥ずかしいという気持ちは十分にあったし、それを隠して明るく振舞えるほど器用だとは到底思えなかった。

翌朝目が覚めると、昨日よりいくぶんスッキリした気分になっていた、ということはなく、むしろ自分がしでかしたことの重大さをひしひしと感じていた。枕に顔をうずめながら悶えていると、気を利かして早朝から待機してくれていたメイドさんが優しくなだめてくれた。なんでも、コンラート閣下対策だそうで、血盟城のメイド教育の水準の高さに驚くとともに、早朝勤務に付かせてしまって申し訳ないという気持ちがむくむくと湧いてきた。素直にそれらを伝えると、彼女いわく、「たまには頼りにしてください」とのことだ。もはや土下座でお礼をしたい気分である。

そういうできたメイドさん達の協力のおかげであの日から三日経った今でもなんとかコンラッドと顔を合わせずに済んでいた。弊害として、有利にも会っていない。
そろそろ何かしらしないといけないのは分かっている。この三日で少ない頭なりにいろいろ考えた。いつまでも逃げてばかりでは何も解決しない。足を止めて、廊下から中庭を眺める。小さくため息を着いたところで後ろから声をかけられた。

「おい」

「はい!」

突然のことに思わず大きな声で返事をしてから振り向くと、少したじろいだヴォルフラムがいた。

「突然大きな声を出すな」

「なんだヴォルフか」

「なんだとはなんだ」

「なにしてんの?」

一瞬何か言いたそうに眉をひそめてから、小さく息を吐き出した。そのしぐさが少しコンラッドに似ていて、やっぱり兄弟なんだと改めて納得する。

「母上がいらっしゃるというから迎えに行くところだ」

「ツェリ様が?」

愛の狩人・ツェリ様は現在も絶賛自由恋愛旅行中!だと思っていたけれど、珍しく血盟城に用でもあったのだろうか。そんな考えがまるっと表情に出ていたらしく、ヴォルフラムは今度こそ分かりやすく大きなため息をついた。

「おまえの求婚を聞きつけていらしたんだぞ」

「あー……ははは、そーなんだ」

話をすれば、微かにツェリ様の話し声が聞こえてきた。少し遅れてギュンターの子供を叱るような小言と、コンラッドの珍しく慌てたような声も聞こえてくる。
白状しよう。このとき、脳内BGMはトルコ行進曲でもなければ、大晦日に歌われることで有名な第九でもなかった。私の頭の中では、ホオジロザメのジローくんが背びれだけを見せて海を泳ぎまわる映像がうかんでいた。そう、ジョーズである。しかも自分がジローくんのつもりで。この三日間で考えたことが、頭の中を反芻する。

「ああん、殿下はどこかしら。早くお会いしていろいろお聞きしたいわ」

「ですから母上、あれは正式なものではなくですね、」

「殿下は今誰ともお会いになっておりませんっっっ」

廊下の角から、まずは今日も惜しみなく美脚を晒しているツェリ様が、次に少しだけうんざりした表情のコンラッドが、最後にハンカチを握り締めたギュンターが現れた。

「あら、噂をすれば殿下、それにヴォルフも!」

「ツェリ様、お久しぶりです」

一段と表情を華やかにした彼女の横でコンラッドがぎょっとした様な顔でこちらを見た。その彼にまっすぐ近寄って、目の前で立ち止まる。

「殿下、」

話しかけられる前に、悟られないようにそっと右手を伸ばす。そして、その左頬を叩いた。ぺちんと、間抜けな音が響いた。時間が止まった様に男性陣が固まる。

「あらあ、あらあら、まあ!」

「見ました?ツェリ様、見てくれました?」

「見ましたわ殿下!これで婚約成立ね!」

彼女が感嘆とともに両手を合わせた音によって、時間が動き出す。ギュンターが目から赤い涙を流し、ヴォルフラムが呆気に取られたように口を開閉させ、そしてもう一人の当事者であるコンラッドはこちらに腕を素早く伸ばした。たぶん、このときほど機敏に反応できたのは後にも先にもないだろう。その腕を避けて、廊下を全力疾走だ。後から聞いた話によると、コンラートが走った私を追ってくることができなかったのは喜びで興奮したツェリ様をなだめるのと、悲しみと怒りで興奮した王佐殿を転が、いや、落ち着かせるのに手間取ったからだそうだ。まさかそこまで予想通りに事が運ぶとは思っていなかった私は、とにかくコンラートに掴まらないように限界まで脱兎のごとく走った。ジョーズのジローくん側から人間側に、一気に形勢逆転である。

なんとかの一つ覚えとは言ったものだけれど、相変わらず駆け込んだ先は裏庭とも呼ぶべき空間だった。ただし、裏庭と言ってもそこは王の居城。さまざまな色が溢れている。食材調達の場にもなっているようで、花以外にもハーブやちょっとした野菜が植わっていて匂いも独特だ。中庭の、誰が見てもため息が出るような完成された庭も素敵だが、この雑多な感じも庶民の身としてはなかなか落ち着く空間だ。上半身を折るようにして呼吸を整える。しばらくそうしていると、息は荒いものの動けるようになったのでさらに奥に進んでいつものベンチに座り込む。背後と横を背の高いバラに囲まれていて、ベンチの正面に回りこまないと様子が分からないようになっている。かくれんぼにはうってつけだ。目の前にはハーブらしきものが密集して植えられていて、ひらひらと蝶が舞っている。
右手を目の前に掲げる。この間とは違って、痛みはない。感触もない。ただ、実感だけは痛いほど感じた。



それからどれくらい経っただろうか。かさりと、土を踏む音が聞こえた。コンラートかと思って身構えて腰を浮かす。そして、彼はバラの花の向こう側からひょこりと顔を出した。

「やっぱり殿下だ」

いたずらでもたくらんでいるかのような笑い方は相変わらずだ。

「ヨザック!」

「いやあ、殿下は髪が黒いから庭にいるとすーぐ分かりますねえ」

そういう彼の髪は熟した果実の色で、すぐ横に咲いているバラよりも鮮やかな色だ。両脇には松葉杖を抱えている。

「こんなところまで歩いて大丈夫なの?」

仕草で隣を進めると、遠慮なく腰掛ける。一時はどうなるかと思ったけれど、さすがプロフェッショナルアニシナさん。ヨザックは運動不足で少し痩せているものの、その顔色はすっかり健康な人のそれと同じだ。

「ええ。アニシナちゃんの、えーと、りはびり?ってやつから逃げてきたんです」

なんでも、少し前まではアニシナの研究室で魔動装置を使ってのリハビリを受けていたそうだが、かなり回復した今ではそれだけでは物足りないのだという。

「とは言っても、ちゃんと先生の言うことは聞いたほうがいいんじゃない?」

「だって殿下、その魔動装置、閣下が協力してくださってるんですよ?」

「ああ……」

おそらく今回は嫌々ではなく、自ら志願したのだと思う。ヨザックはグウェンダルにとっても大切な部下だ。その部下の回復に協力するのは非常に彼らしいといえる。そんな彼の悲鳴を聞きながらのリハビリは、さすがのヨザックでも心苦しかったのだろう。ある程度動けるなら、こうして自分で歩き回ったほうがよほど効率がいい。

「それに」

「それに?」

「それにグリ江、殿下に会いたくなっちゃったんだもの」

そうして胸元に手をつっこんだかと思うと、一枚の紙切れを差し出してきた。あまり上等な紙ではない。折りたたんであるそれを開く。

「どうなってるんです?」

それは眞日の号外だった。もちろん内容はウェラー卿と私との電撃婚約についてだ。若干の誇張はあるものの、眞日のゴシップ記事にしては珍しく事実に近い。

「これには円満な婚約ってありますけど、どうやらそうじゃないみたいですね」

「えーと、なんでそれを?」

「もう一人の当事者に聞きました」

なるほど。考えてみれば今回の件でコンラートが相談しそうな相手といえばヨザックぐらいしかいない気がする。酒場で愚痴るウェラー卿。うん、容易に想像できる。でも今回は酒場ではなくヨザックの私室だろうか。

「事の顛末はだいたい存じあげてますけど、動機が分かりませんね」

初めて会ったときからヨザックはあまり遠慮がない。ほかにも理由はたくさんあるのだけれど、たぶん、有利共々そこが一番信頼できる部分だろう。彼は賢くて、強くて、リアリストで、いつも飄々としているけれど、根本に国への強い忠誠心がある。もちろん、人生経験の浅い世間知らずながきんちょの考えだけれど、そう思うのだ。だから、彼の前にいると私はついつい甘えてしまうのだ。

「別に隊長のこと、男として好きってわけじゃないんでしょう?聞きましたよ、ヴォルフラム閣下に頼んだ伝言のこと」

「……」

求婚を認めたその日、ヴォルフがお昼を届けてくれたときにコンラートへ伝言を頼んだ。
『もしも本当に好きな女性ができたらすぐに求婚でも婚約でも解消するから』という、なんとも身勝手なものだ。これでは人権派のゆーちゃんに怒られても反論はできない。

「コンラート、いなくなったでしょ」

もうずいぶんと前のことのように感じる。一度は目の前からいなくなった彼が大シマロンの軍人として現れたときは、嬉しいと同時に戸惑い、そして、悲しかった。どうして私たちの、いや、有利のそばに彼はいないのか。彼の主はただ一人、渋谷有利だけのはずだ。ほかの誰が裏切ろうとも、彼だけはずっとそばにいるのだと思っていた。結果として、彼の行為は裏切りではなかったけれど。それでも、有利は彼がいなくなってから帰国までの間、とてもよく耐えていたと思う。そんな有利がいたから、私も耐えられたし、耐えなければいけなかった。だって、有利よりもよっぽど他人なのだから。きっともう、彼が本当の意味で有利の側を離れることはないだろう。それは有利にも彼にも辛過ぎるし、そんな必要は微塵もない。でも、それでも、世界に「絶対」はない。

「なんでかなっていろいろ考えた。どうして大シマロンにいるんだろうって。どうして有利の側にいないんだろうって」

有利が本気で引き止めたら、彼はどこにもいかないだろう。でも、私は?私は何ができる?

彼の家族でもなければ、主でもない。恋人でもなければ、友達でもない。もちろん私にとって心を許せる人ではあるけれど、彼にとっては、私は何者なのだろうか。大切にしてもらってはいる。それは分かる。それでも、

「今の私にコンラートを引き止めることなんてできるのか、って」

そう考えたとき、「今」の私にできないなら変わればいいと思った。そして、あの朝、ふと思いついたのが、婚約者という関係だった。

「ずるいのは、分かってる。立場的にも性格的にも、コンラートから拒否することはないと思った」

彼はもうどこにもいかないだろう。それも分かっている。分かっているつもりだ。でも、

「枷は、多ければ多いほどいい」

彼をここに、眞魔国に、魔王に縛り付けておく枷だ。もうどこにも行って欲しくない、有利にあんな思いをさせたくない、有利を苦しめたくない、有利だけじゃない。周りのみんなも、彼自身も。

……違う。

本当は、私がもう二度とあんな気持ちになりたくない。

「もう嫌だよ。もう手離したくない。でも、違うの。もともとコンラートは私の物なんかじゃないし、私に止める権利も力もないの」

「だから、婚約者という堂々と引き止められる立場が欲しかった?」

「……うん。コンラートには、私の勝手な考えでひどいことしたってのも分かってる。分かってるけど、」

のどが詰まったようになって、そっと唾を飲み込む。ついでに大きく息を吐く。ヨザックのほうを横目でちらりと見ると、口角を片方だけ上げて、それはそれは愉快そうに話の続きを待っていた。

「伝言した以外の理由で婚約破棄をするつもりはないし、認めない」

本当にひどいことをしているという自覚がある。現代日本だったら名誉毀損で慰謝料をがっぽり取られてもおかしくない。でもここは眞魔国だ。私は魔王の妹だ。そういうひどいことをしてしまえる立場にある。つまるところ、口でなんだかんだと言っても、心で確かに悪いことをしていると自覚していても、それ以上に、もう二度と手放したくないという身勝手な気持ちがなにもかもに勝ってしまうのだ。これで満足か?と聞かれたならば、満面の笑みで親指を立てることができるだろう。まさか自分がこんなに非情な人間だとは思ってもみなかった。

「殿下もとんだ悪女ですね」

「あらそう?おほほほほ」

「ま、それぐらいしてもいいんじゃないですか?俺が言えた義理じゃないですが、散々心配かけたんだ。それぐらいじゃバチなんかとうてい当たりっこありません」

きょとんとして、ヨザックの顔をまじまじと見つめる。皮肉のひとつでも言われるかと思ったけれど、彼の笑みは共犯者のそれだった。

「いいお灸になると思いますよ。それに隊長といえば、これまで散々女を泣かせてきた極悪人ですからね。たまにはこうやってやきもきするのもいいんじゃないですか」

「そーなんだ。散々泣かせてきてるんだ」

もてるだろうとは思っていたが、それは初耳だ。あんなに紳士っぽい顔をして、いや、実際に紳士的なのだけれど、あんな爽やかスマイルを浮かべておきながら意外とひどい男らしい。

「ええそりゃあもう。でも、殿下はそれでいいんですか?」

「うん?」

「あなたに好きな人ができたとき、婚約者がいるなんてよくないんじゃありませんか」

「ああ……」

言われてはたと気づく。そうか、コンラートのことばかり考えていたけれど、私にも同じことが当てはまるのか。

「まあそこらへんは大丈夫かな。好きな人とかいたことないし」

有利は結構肉食系だから、好きな女の子ができては一喜一憂している場面を何回も見たことがある。その反対に、私自身はあまりそういう経験がない。もちろん、かっこいい先輩がいればかっこいいと思うし、テレビでイケメンが紹介されていれば母親といっしょにキャーキャー騒ぐこともある。顔の良い男性に優しくされれば胸が高鳴ったりもする。けれど、記憶にある中で恋といえるほどの感情を持ったことはない。

「へー。これまた陛下とは対象的ですね」

「まあ、私が素敵な男性と恋に落ちる前にコンラートが素敵な女性と恋に落ちるでしょう」

ここだと男性の可能性もありえるけれど、とにかく、そういうことになったらきちんとコンラートのほうから婚約破棄をしてもらうつもりだ。男性側なら婚約していた過去があってもそうそうマイナスにはならないだろう。
声に出してみると、気持ちの整理がついた。もう決めたんだから、振り返らない。コンラートにひどい奴だと罵られても甘んじて受けよう。そんなことは当たり前だ。それでも、私の意志は変わらない。まるでヒーロー物の悪役だ。下手したらゆーちゃん(殿バージョン)に成敗されてしまいそうだ。

「……なにその顔」

「いえ、なにも」

「うそ、なんかよくないこと考えてるでしょ」

視線を感じてみれば、ヨザックが先ほどとはまた違う笑顔を浮かべていた。今度は完全に他人事を面白がるものだ。こういう顔の彼はたいてい意地悪なことが多い。
問いただそうとしたとき、微かに悲鳴と怒声らしきものが聞こえてきて口を噤む。
この、悲鳴にも関わらず重低音なボイスはグウェンダルだ。とすれば、もうひとつの声はアニシナさんだろうか。

「あー、俺そろそろいきますね。閣下が喰われちまう」

「う、うん。気をつけてね」

お互いぎこちなく手を振り合う。私もそろそろ部屋に戻ろう。そう思って立ち上がって歩き出す。意識して息を吸うと、甘くて優しい花の香りが抜けていった。

「殿下」

呼び止められて振り向く。松葉杖をついたヨザックが少し離れたとこに立っていた。

「なあに?」

「幸運をお祈りします」

ひらりと手を振って、今度こそ彼は歩きだした。去り際のウィンクはご愛嬌だ。ヨザックも、彼の親友として、元部下として、なにかもっと言いたいことがあったのかもしれない。きっとコンラートの今の気持ちもなにかしら知っているのだろう。でも、彼自身の気持ちは何ひとつ伝えてこなかった。それは今の私にはとてもありがたいことだった。




「ただいまー」

与えられている部屋があまりにも広すぎて、ついつい家に帰ってきたかのように挨拶してしまう。夕飯にするにはまだ早い。けれどとくにすることもない。なんとなく手持ち無沙汰になってしまったので風呂に入ることにした。有利の魔王専用風呂ほどではないけれど、この部屋にもそれなりに大きいお風呂がついている。女性が三人で入っても全員が十分に足を伸ばすことができる浴槽だ。有利に負けず劣らず風呂好きな身としては、とてもありがたい。魔王の妹というだけでこんなに優遇してもらってよいかは甚だ疑問であるけれど、好意は受け取っておくに限る。セーラー服を模して作られた衣装を脱衣所の籠に入れる。
髪と体を洗って――もちろん自分で――浴槽に足を少しだけ浸ける。うん、ちょうど良い温度だ。またまたメイドさん達に感謝だ。そのまま肩まで沈めて、足を伸ばす。縁に頭を乗せると天井のガラス製の壁画が見える。もうずいぶん前から見慣れた景色だ。知らずに詰めていた息を吐き出すと、それに合わせて体から力が抜けるのが分かる。風呂はいい。人間が生み出した文化の、おっとなんでもない。
そうして意味もなく深呼吸を繰り返しているとだんだんと汗ばんできた。体勢を変えようと体をひねったとき、外から話し声と物音が聞こえてきた。なにかあったのだろうか。風呂から上がって様子をうかがおうかと考えたとき、静かになって、そして脱衣所のドアが開く音がした。メイドさんだろうか。いや、曇りガラスの向こうに見える姿は男性のものだ。そう、服の色から察するに、

「殿下、いらっしゃいますね?」

ノックとともに聞き慣れた声がした。

「ふおっ!?いや、入ってます!」

いや、ここはトイレじゃない。トイレじゃないけどつい反射で答えてしまった。予想に違わず声の主はコンラートだった。なぜ彼がここに!?コンラート閣下対策はどうしたのメイドさん!?

「不躾な真似をしてすみません。でも貴女がなかなか会ってくださらないのが悪いんですよ」

彼にしては珍しく愛想のない声だった。

「お、怒ってマスカ」

本人のいないところでは散々大口を叩いたくせに、いざとなるとこんなふうだ。気が強いけど小心者。ただ、有利よりはそれを隠すのがほんのちょっと上手いというだけだ。

「……さあ、どうでしょうね」

その沈黙が怖い。彼は有利には激甘だが、私にはヴォルフほどではないにしろ、まあそれなりに怒るべきところは怒ってくる。それでも勝利と違って口うるさく感じないのはなぜだろうか。

「あ、あの、」

「もう三日です、殿下。そろそろ話をさせてくれてもいいんじゃないんですか」

「その、」

「それに、俺はともかく陛下とも全然お会いになってませんね?」

「はい……」

「心配していましたよ」

そういえば、有利の側にはコンラートがいる可能性が高いからと、有利にも会わないように意識していた。当然朝食や夕飯も同じで、この三日間は私室で摂っていたので、もう三日も一緒に食事をしていない。

「今夜の夕食は、陛下と食べてくださいますね?」

有無を言わさぬ声音に小さな声で肯定の返事をする。

「もちろん俺は席を外します。ですがその後は、俺と会ってください。いいですね?」

口調こそ丁寧なものの、断る権利はなさそうだ。この問いかけにも小声で返事をすると、コンラートは少しだけ安心したように息を吐いた。きっと今、節目がちに安堵の表情を浮かべているのだろう。

「ありがとうございます。では、失礼」

軍靴の音とともに、ガラスに映る影がだんだん小さくなっていく。扉が閉まって完全に姿が見えなくなったところで、大きく息を吐いた。もっと怒られるかと思っていた。もしかしたら、後回しにされているだけかもしれないけれど。
それにしても、まさか風呂場まで来るとは意外だった。それほどに彼が焦れていたのか、それとも有利が私を恋しがっていたのか、判別できないのが悔しいところだ。いつだって彼にとっては有利が一番で、それは仕方のないことだろう。分かりきっていることなのに、そのことを再認識してはなんとも言えない気分になる自分がいた。



有利やヴォルフと一緒の食事は思っていたよりも楽しかった。宣言通り彼の姿はなく、なんだか悪いことをしてしまったかもしれない。とはいえ、今回の件について何も聞かれないのをいいことに、デザートに加え食後のお茶のおかわりまでしてしまった。そのせいで少しお腹が苦しい。夜風に当たろうと思い中庭をうろついてみたものの、すぐにベンチに腰掛ける。食休みも大切だ。まだ夜は浅くて、星明りも弱々しい。俯いて髪留めを外すと、視界が狭くなって無性に安心した。

「こんばんは。ご機嫌いかがですか、殿下」

「こんばんは、コンラート。そっちこそご機嫌は……いいわけないか」

正面に立っているんだろう。磨かれた軍靴の先はすぐそこだ。

「お隣、よろしいですか」

「どうぞ」

シャワー、はないからお風呂にでも入ってきたのか、彼が隣に座るときにほんの少しだけ花の香りがした。

「ヴォルフからの伝言を聞きました。一体何がしたいんですか?」

口調は普段通りだけど、言葉にトゲがある。こんな物言いをされるのは珍しい。それだけ怒っているということだろうか。逆の立場だったらと考えたら、それも当たり前のことかもしれない。

「あなたが俺のことを恋愛という形で慕ってくれているなら理解もできるし、当然快く受け入れます。でも、そうじゃないんでしょう?何か別の理由があるのなら、きちんと話して、そしてこの婚約を破棄してください。あなたのためになりません」

俯いていても、隣の体温は確かに伝わってくる。夜風が遮られて、ほんの少し暖かくなった。まったく、この人はどこまで自覚があって行動しているんだろう。

「殿下、」

「コンラートのこと、もう信じきれない。また勝手に出て行くかもしれない。だから婚約。他に聞きたいことは?」

自分でも驚くほどに頑なな声だった。

「ちょ、ちょっと待ってください。確かに裏切ったこの身を信じてくれとは言えません、けど、どうしてそれが婚約に繋がるんですか」

「コンラートはゆーちゃんの言うことしか聞かない。そしたら私が取れる手段なんて限られてるでしょう」

姿が見えないとこんなに喋りやすくなるとは思わなかった。それとも、もう既にヨザックの前で開き直ったからかもしれない。そう、信じられないんだから仕方ない。分かりやすい形で繋ぎとめておかなければ安心できないのだ。
黙ったままコンラートが立ち上がって、風が起こった。足音とともに視界の端から軍靴が消えていった。やっと顔を上げて、遠ざかる背中を眺める。
この期に及んで、私は逃げた。ああ言ってしまえば彼が何もできなくなると知っていて、口に出した。

いよいよ本当に怒らせてしまった。もう愛想を尽かされただろうか。これまでのような関係ではいられなくなったのかもしれない。きっと笑いかけてもくれるだろうし、さっきみたいに風上に座ってくれたりもするだろう。でもそれは、これまでとは違ってただの「義務」だ。
そう考えたら、急に胸が苦しくなった。体を折り曲げて、きつく目を閉じる。
だって、彼の気持ちを踏みにじってる。今までくれた優しさも、強さも、信頼も、全部。最低だ。分かっていたつもりなのに、傷つくなんて自分勝手も反吐が出る。これから先も繰り返していくに違いない。そうやって繰り返す度に、コンラートを失っていくんだろう。
でも、ダメだ。バッドエンドだって分かっているのに、つまらない関係性に縋ってしまう。

「殿下、どうしました?」

ハッとして体を起こす。上着を持った彼が心配そうに立っていた。そう、いつもと何一つ変わらず。

「もしかしてご気分が優れませんか?」

聞きながら、上着を肩に羽織らせてくれる。

「だい、じょうぶ。具合が悪いわけじゃないよ」

「なら良かった」

俯いていたので、どんな顔でそのセリフを言ったのかは知らない。

「もう、こういうの、してくれなくていい。私にそんな資格ないから」

彼を信じられない自分に、その優しさを受け取る資格はない。今、彼を裏切っているのは私のほうだ。
沈黙が痛くて、誤魔化すように手を強く握り直す。

「それを決めるのはあなたじゃない。俺だ」

剣ダコのある見慣れた指が伸びてきて、そっと私の手を包み込んだ。少し視線をずらせば、正面に跪いた彼と目があった。薄茶の瞳に、銀の虹彩。右の眉には、切り傷がひとつ。初めて会った時と、何も変わらない。

「俺が心配したいから、勝手に心配しているだけです。あなたにどうこう言われる筋合いはありません」

コンラートは、これまでと同じように笑ってくれていた。

「……私、コンラートの気持ちを無視してる」

「俺と婚約することであなたが安心するのなら、そうします。でも求婚するぐらいなら、『浮気したら許さない』くらいは言って欲しいですね。そうでないと婚約者のしがいがありません」

「ちょっと待ってよ、私との婚約なんてホントは嫌でしょ?」

「嫌だなんて言ってません。理由が知りたかっただけです」

好きでもないのにどうして婚約なんかしたがるのかと、そういうことだろうか。

「でも、コンラートだって私のことそういう風に好きなわけじゃないでしょう?」

「俺も母に似て、あまり形にはこだわらないタイプです」

微妙に噛み合ってない気がする。いや、たぶん分かっていて噛み合わせてない。
歪んだ一方的な関係性だったはずが、そっち側からがんがん押し返されているようで、言葉に詰まった。思わず額に手を当てる。

「それに……俺もあなたの立場だったら、同じことをするかもしれません」

目が伏せられて、銀の星が隠れる。
ああ、不安なのは、私だけじゃないんだ。
空いていた左手を、私の右手を包んでいる彼の左手にそっと重ねる。

「ちゃんとコンラートのことを信じきれるようになったら、婚約解消するから」

「はい。ゆっくりでいいです。殿下にはその権利があります」

「それまでずっと、ここで待っててくれる?」

「もちろんです」

逃げ回っていたこの数日が、馬鹿みたいだ。あんなにごちゃごちゃ考える必要はなかったのだ。信じきれないなら、そう言えばよかった。だって相手はコンラートだ。いつだって頑固で、自分勝手で、そして身内にはとことん甘い。こうやって素直に甘やかされれば良かった。
それでも、この不安が自分だけのものではないと気づけた。

見上げた空には、深い闇の中で、確かに瞬く星があった。





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