「えー…」
さくっと割れた傷口からは、少ないながらも血が流れ続けていた。思わず漏らした声は、現状への抗議のような疑問のような、とにかく思考を止めるスイッチではあったようだ。
その場にへたりこんだまま、赤い面積が広がっていくのをただただ眺める。気づかない間に頭でも打ったのだろうか。
「おい!バカ女!いたら返事しろ!」
聞きなれた罵声がして、そちらに顔を向ける。
「はーい」
「そっちか!」
ガサゴソと藪をかき分ける音が近づいてきて、彼が姿を現した。短い髪に枯葉を絡ませ、頬には小さなかすり傷がいくつかある。彼でこれなら、斜面を転がり落ちてきた自分はさぞ見苦しいことだろう。
「何やってんだテメェ」
眉間の皺を深めながら、私の傍にしゃがみこむ。太ももの傷を確認してから、背嚢の口を開いて応急処置の用具袋を取り出した。
「傷はここだけか」
ガーゼで傷口を抑えられながら、睨まれる。今回ばかりは仕方ない。訓練中に道から転がり落ちるなんて迷惑過ぎる。憲兵を目指すジャンなら、尚のこと。
「多分そう」
「縫うほどじゃねえな」
その後もテキパキと処置をされ、包帯を巻かれる。
「クソったれ、傷だらけじゃねえか」
いつの間に絡まっていたのか、頭から小枝を抜かれる。それを後ろに放り投げたジャンは、散らばった私の荷物をひとつひとつ拾って背嚢にしまっていた。案外、まめなようだ。
「ジャン、ごめんね。成績、下がっちゃうね」
自分で発したはずなのに、他人の言葉のようだ。そもそも普段なら、どんなにキツイ訓練の最中でもバカ女と呼ばれた時点で罵り合いが始まるのだ。違和感を持たないほうがおかしい。
「おい……頭でも打ったか?吐き気は?傷は痛くねえのか?」
「打ってないと、思うんだけど」
どうしてこんなに頭が働いてくれない。さっさと立ち上がってこの斜面を上って訓練に戻るべきなのに。
「貧血か?」
「ああ、」
そうかもしれない。でもそれはまずい。訓練に戻れなくなる。
「いや、大丈夫、行こう」
「バカ、立つな」
言われたそばからふらついて、尻餅をついてしまう。
「いいから寝とけ」
乱暴に肩を押さえつけられて横たわる。横たわって空を見上げて、やっと情けなさがこみ上げてきた。顔を見られたくなくて腕で覆い隠す。
「手当てしてくれてありがと。休んだら追いかけるから先に戻って」
「なんだ、やっと正気になったか」
「うるさい。バカバカ言いやがって」
「事実だろうが。止血もしねえでぼーっとしやがって。実戦なら死んでるぞ」
「はいはいそうですね。憲兵を目指すキルシュタインさんはさっさと訓練に戻ってくださーい」
「あ?」
「私は憲兵なんて目指さないからゆっくり行っても問題ないの。余裕のないあんたはさっさと進みなよ」
「言われなくてもそうすらぁ」
背嚢を背負い直す音が聞こえて、腕のすき間から覗き見る。こちらに背を向けて、舌打ちを置き土産にジャンの姿は藪の中に消えていった。
一呼吸おいて、呻く。
「いってえ」
横たわったあたりから、傷口が脈打って、それに合わせて痛みが生まれていた。とにかく喋っていないと呻きを隠せなさそうで、ジャンはどうやら誤魔化されてくれたらしい。体を反転させて、地面と向き合う。背中を丸めてなんとか起き上がろうとして、失敗した。思った以上に、辛い。せめて道まで戻れれば、教官が拾ってくれるだろうか。
這っていくことを覚悟したとき、舌打ちが聞こえた。
「立体機動でもねえ訓練の一つや二つ、落としたところで痛くも痒くもねえんだよ」
バカ女。
一瞬見上げてすぐに俯く。こんな顔、見せられない。
「なん、で」
「わざわざ背嚢置いてきたんだ。大人しくおぶされよ」
返事もできず、ただ頷いた。なんとか意地で上半身を起こして、あとはされるがままだった。
「ごめん」
今度のは、紛れもない私の言葉だ。
戻ってきてくれて安心したなんて、絶対に言えない。安心して出そうになった涙なんて、絶対に見せられない。
「ったく、重てえんだよ」
「背嚢がね」
「おまえだろバカ」
「ジャンは乗り心地がいいね、さすが」
「どういう意味だ」
バカ、とまた言われた。この傷が治るまでは、甘んじて受け入れよう。
だってこんな馬面を、ちょっとかっこいいと思ってしまった私は大バカ野郎だから。