「あ、あの、その、わたし、」
恥ずかしい。顔が熱い。きっと頭に血が上っているんだろう。涙まで出てきた。知らない世界に飛ばされたときより、自分の父親が魔族だと知らされたときより、なにより今、一番頭が混乱している。
「ちがうの、あの、ちがう、ごめんなさい、」
有り得ない。有り得ない有り得ない有り得ない。もう16歳だ、何年ぶりだ、いやそういう問題ではなくて。
「殿下、落ち着いてください」
溢れる涙も熱い。なのに視界はぼやけてくれなくて、それでも頭が正常に働かない。
「大丈夫、珍しいことじゃないです」
「いやっ!」
宥めるために肩に触れられて、もうわけがわからなくてそれすら振り払う。自分を隠す盾が欲しい。手に取れるのは毛布くらいで、けれど現状を考えればそれを抱えることはできない。変なところで冷静だ。ズボンが冷たい。シーツも冷たい。下着も、冷たい。まあつまりそういうことだ。高校一年生にもなって、以下略。さっきは何年ぶりだと考えたが、正直自分の記憶にないのだ。ついでにゆーちゃんがやらかしているところも記憶にない。
「ごめん、わたし、みないで、」
「とりあえず風呂にいきましょうか」
「こんらっ、みないで、わたし、ちがうの、」
「大丈夫です。とにかくさっぱりしてきてください」
いつの間にとってきたのか、バスタオルを頭からかけられた。視界が遮られて、ほんの少しだけ落ち着く。立ち上がると、外気に晒されて冷たさが増した。また頬が燃えるように熱くなって、もう何も考えたくなくて風呂場に駆け込んだ。服のまま浴場に入って、濡れているズボンや下着を脱いだ。自分の体を洗ってから、今度はそちらを洗う。なんて情けない格好だろうか。目頭が圧迫されて、涙が頬を伝っていく。泣きながら洗濯をして、絞るころには少し冷静になった。シーツはともかく、あの高そうなマットレスはどうやって洗えばいいのか。
浴場を出ると、着替えが用意してあった。いつものセーラー服だ。それに着替えてから重たい足を引きずって部屋に戻ると、既にベッドメイキングが終わっていた。なにこれイリュージョン?
ベッドの前で立ちすくんでいると、ノックの音が聞こえた。
「殿下、入ってもいいですか?」
「あ、えと、どうぞ……」
睫毛に残った水滴のせいで、少し視界が悪い。手の甲でこする。少し押したせいか、また少し涙が出た。
「ああ、こすっちゃダメです」
白い塊をたくさん乗せたトレイを片手に、コンラートが慌てて近づいてくる。
「あの、これ、」
ベッドが、という前に白い塊のひとつで顔を拭かれた。
「ちょっと失礼しますね」
白い塊は濡れたタオルのようで、優しく瞼の辺りを押さえた。ひんやりして心地よい。と、思ったら、今度は少し熱めのタオルを当てられた。
「腫れたら大変ですからね」
一度タオルを外したときに、ベッドに座るように促される。座ればすぐに冷たいタオルだ。
「あのね、コンラート、その、ベッドは、」
「ああ、すみません。『俺が紅茶をこぼしてしまった』のでメイド達に頼んで洗ってもらっています」
「コンラート……」
温かいタオルに交換される。じわりと、何かまた水滴が溢れてきた気がしたけれど、すぐにタオルに吸い込まれてしまう。
「ありがとね、この恩は一生忘れないからね」
「少し落ち着いたようですね」
「ごめん。情けないとこ見せた」
「そんなことありませんよ」
その柔らかい声音からは、本心が読み取れない。喉の奥からこみ上げてくるものを無理やり押し返して、なんとか涙を引っ込めようとする。頭の中がほんの少しだけ冷えてきたせいか、一つの可能性がちらつき始める。
「あの、わたし、病気なのかな」
言葉が震えないように慎重に喋ったけれど、やっぱり最後は尻すぼみだ。唇を噛み締めてなんとかこらえた。
「たぶん、違うと思います。大きなストレスを抱えるとこういうことが起こるのではないかと」
「ストレス?」
「ええ。軍にいればそこまで珍しいことでもありません。体調が優れなかったりしても起こるようですが」
「そっか……」
あまり心配しなくてよいということだろうか。
タオルが外されて、しばらく待っても何も来ないので目を開ける。コンラートがなんだか眩しいものを見るような顔をしていた。
「頭を撫でてもいいですか?」
「どうぞ?」
なんでそんなことを聞いたのか分からない。彼にしては慎重な手つきで頭を触ると、そっと動かし始めた。なんだかずいぶん優しい動きで、一時だけこの騒動を忘れられた気がした。
「自惚れてもいいのなら、」
「うん?」
「ストレスの原因に、俺の離反の件もあるんじゃないですか?」
「……」
まさかそんなストレートに聞いてくるとは思わなかった。どう答えようか迷っているうちに、頭を撫でる感触が、止まって、消えた。目を開く。
「こんなことを聞く資格があるのかも分かりませんが」
項垂れた彼の眉間には、グウェンみたいに皺が寄っていた。見上げているせいで、少し唇を噛んでいることも分かってしまう。
茶化して誤魔化そうとも思った。もしくは、有利みたいに照れ笑いで許そうかとも。でも、この機会を逃してしまったら、触れることのできない何かになってしまうんじゃないだろうか。もしかしたら、それで全く問題ないのかもしれない。もしかしたら、時間が解決してくれるのかもしれない。けれど、自分が傷ついていることに気づいてしまったら、彼が傷ついていることに気づいてしまったら、深呼吸をする間もなく言葉が飛び出していた。
「そうだよ。コンラートのせいだよ」
立ち上がる。背の高い彼と向き合うために、少しだけ顎を上げる。いま、私はどんな顔をしているのか。それは彼しか知らない。逆もまた然り、だ。
「ありきたりなことしか言えないけど、すごく心配したよ。絶対生きてるって信じていたかったけど、やっぱり本当はもうダメかもって思ってる部分もあった」
有利は決してコンラートの死を認めようとしなかった。頑ななまでにそれを貫いていた。本当は言葉にしなかっただけで、私と同じ気持ちだったかもしれない。けれど、お互いどうしてもその部分には触れられなかった。触れたら現実になりそうで怖かった。だから、信じきれない自分を責めたりもした。
「そう考える自分が嫌だった。その名残りかな、まだ夢に見るよ。血だらけのコンラートを見捨てる夢」
見捨てた結果、目を覚まさないパターンや、血だらけの彼にどうして?と詰め寄られるパターン。バリエーションは某アイス屋のフレーバーレベルで存在する。
「コンラートを、っていうより、コンラートを諦めた自分が許せないの」
言葉にして、腑に落ちた。そう、自分で自分を許せないのだ。普段はそのことを忘れているくせに、悪夢で目覚めた夜中に限って思い出してしまう。その結果がおね……コレというのもなんとも間抜けな話ではあるけれど。
混乱の名残か、ふいに笑いが込みあげてきて俯く。俯いたらまた水滴が落ちてきて、慌ててぬぐった。
「あなたは、あなたは何も悪くない!悪いのは全部俺でしょう!?」
肩を掴まれて顔を上げる。目が合うと、ハッとしたような顔で手を引っ込めた。すみません、と謝る声が聞こえる。
「俺の無責任な行動の結果です。あなたが自分を責める必要なんてない」
「分かってるでしょ?本当の原因はコンラートじゃなくて私自身なの」
「……」
答えがないのが答えだ。
「俺が、」
斜めに顔を背けられる。
「俺が死んでいたほうが楽でしたか」
「っ、」
せっかく冷静になりかけていたのに、まるで瞬間湯沸かし器だ。血は争えない。言葉よりも先に右腕を伸ばして彼の襟首を掴む。引き寄せるのに失敗しかけて、慌てて左手も伸ばした。ぐっと顔を近づけて、睨みつける。
「殿下、」
「もう二度とこの世界には来ない」
「……忘れてください」
「もしコンラートがそんなことになったら、誰が私を許してくれるの?」
「……そんなに自惚れても、いいんでしょうか」
両手を離す。折角アイロンをかけたであろうシャツをしわくちゃにしてしまった。俯いて、コンラートの鎖骨に軽く頭突きをして、そのまま背中に腕を回す。
「全てを信じきれる人間なんていません。俺は、ここにいます。ここが帰る場所です。だからあなたはもう、ご自分を責めないで下さい」
言葉に合わせて胸が動いている。そう、彼はここにいる。
「俺はあなたを許します」
耳元で、私にしか聞こえない声で、囁いた。そうだよ。許して欲しかった。欲しいのは、この言葉だった。胸のつかえが取れたようで、また涙が溢れてきた。きっとさっきの涙よりも綺麗な粒だろう。
「コンラート」
「はい」
ぐりぐりと頭を押しつけて、確認する。
「ありがとう」
腕に力を込めた。温かい音が胸から背中から伝わってくる。もう大丈夫。彼はここにいるんだから。
「俺は、どうですか?」
「……もうしないか?」
「はい、決して二度と」
「うん。私はあなたを許します」
一呼吸置いて、抱きしめられた。これまでの中で、一番キツくて一番長かった。仕方がないから私も、しわくちゃにしたシャツに涙を吸い込ませ続けた。
腕がゆるんで、見上げると、もういつもの彼だった。グウェンのような皺の寄った眉間も、ヴォルフのように噛み締めた唇もなく、ゆーちゃんと私が一番好きな顔をしていた。
「少し、腫れてしまいましたね」
中指で、瞼をそっと撫でられる。冷えた指先が心地よかった。