顔をしかめながら扉を開けると、予想もしなかった人が椅子に座っていた。彼は一瞬でそのことに気がついたらしく、いつもは綺麗に結ばれている薄い唇がポカンと離れて、おまけにただでさえ大きな目がさらに大きくなった。
「あ、ども」
軽く頭を下げてから回れ右をした。まずい。こんなところで掴まったら何を言われるかわからな、
「待ちなさい。こっちに来なさい」
「……」
「ほら、早く」
聞こえないふりをしようとしたもののいつもの反射で足を止めてしまった後では言い訳のしようもない。それにこの格好でうろついたところで別の人に見つかるのがオチだろう。しかたなく、もう一度回れ右をして室内に足を踏み入れた。
ここに座れと、彼がさっきまで落ち着けていた椅子を軽く叩かれる。恐る恐るそこに近づくと、その間に奥の棚から箱を抱えて戻ってきた。
「まったくもう、子供じゃないんだから逃げたりしないの」
「はい。すみません……」
「見せてごらん」
椅子に座って下衣の裾をたくし上げる。後で繕わなければならない。ああ、もう、余計な仕事を増やしてしまった。
「これは痛そうだ」
そう、痛いのだ。仲良く並んだ膝小僧は、これまた仲良く擦り傷を作っている。下手な転び方をしたせいか、予想以上に傷は深く、ずきずきと脈打つ度に痛みを主張してくる。
手桶で湿らせた布巾を、彼の白い手が緩く絞る。今にも水が滴りそうなそれを私の膝に近づけて、そっと押し付けた。
「っ、」
「我慢しなさい。ちゃんと洗わないと化膿してしまうから」
「だってジャーファルさん、いきなり、いって!」
「こら。女の子がはしたない」
何を言っても窘められるようだ。とはいえ無意識に出る言葉まではどうにもできない。口を開く代わりに目をきつく閉じることで痛みを分散させることにした。
「なんだってこんな傷を作ったんだい?」
「えっ、」
また傷口に水がかかった。染みる。染みるけれど、堪えた。どうやら今ので終わりだったらしく、脚に流れた水を乾いた布で拭いてくれているようだ。目を開けようかとも思ったが、すぐに薬瓶の開く音がしたのでやめた。これまたこの消毒液がよく染みるのだ。
「頼まれた、資料、取りにいってて、」
その資料がなかなかの重量で片手では抱えきれなかったのだ。しかも何気なく本棚に収まってはいたけれど、私の給金の三か月分は軽く飛んでいきそうな代物だ。いつか治るだろう傷とその資料とでは優先させるべきは明らかで、つまづいた私は手をつくこともしないまま甘んじてこの膝小僧の勲章を受け入れた。いつか治るとは言っても、やっぱり痛かった。
刺激に耐えながら途切れ途切れに話している間、ジャーファルさんがどんな顔をしていたのかは知らない。
「わっ」
目を開けたのは、冷たい風を感じたからだ。
「少し乾かさないとね」
ふうふうと、口を軽く尖らせて息を吹きかける姿に、なぜだか目頭が熱くなった。ありもしない痛みのせいにして、また目をきつく閉じる。
「最後に軟膏を塗って布を留めたら終わりだからね。もう染みないよ」
「はい。ジャーファルさんにこんなことさせてすみません」
「あのね、」
そっと手に触れられて、思わず目を開ける。膝をついたジャーファルさんの、長い睫毛がその瞳を隠してしまって、よく見えない。少し焼けた私の手と比べると、ジャーファルさんの手は雪のようだと言ってもおおげさでないくらい白かった。でも、その手は温かい。
「物を大切にするのはいいことだよ。でもね、君の体は替えが効かないんだ」
「いえ、でも、」
私の体は私にとって大切だけれど、でもそれは、抱えてきた資料に比べればなんの価値もない。損なわれても私ひとりが困るだけで、もともと望まれて誕生したものでもないのだ。
「こんな怪我を見たら、みんな心配するよ。君自身を卑下することは、君を好いてくれている人達も卑下することになる。もっと自分を大切にしなさい」
「でも、」
長い睫毛が持ち上がって、黒耀の瞳が露になる。その輝きを見た途端に、どうしてか視界が霞んでいった。せっかく収まった熱が水滴になって溢れてきているようで、綺麗な白い手に落ちて跳ねた。
「もうここに一人、いるよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
落ちた滴を拭き取ろうとして掴まれているほうとは反対の袖を伸ばしたものの、そっちも優しく押さえつけられてしまって、もうどうしようもなくなった。止まらない熱が、次から次へと零れていく。
「ここではもう、一人じゃないんだ」
「はい」
頷く度に滴が落ちていく。相変わらずジャーファルさんの顔は見えなかったけれど、きっと笑ってくれているんだと思う。どんな薬よりも、彼が一番に違いないのだ。