▼しのぶもぢずり 忘れ物癖というのは本当に厄介だと思う ちょっと天然くらいなら可愛いものだけど、忘れ物癖のある女なんてただの間抜けだと隣の席の男子に嘲笑われるのだから 「はぁ、えーと…確かこの辺の席に…」 もう既に生徒達が下校し始めている放課後 テスト前と言う事もあって部活もなく、校内はいつもの放課後よりずっと静かになっている そんな中、私は音楽の授業の時に忘れた課題の楽譜を取りに一人で音楽室に来ていた 人気のない音楽室は何だか少し不気味だけど、逆に誰も居なくて良かったと思う だって、常ならばこの音楽室は放課後になるとあの毛利君が取り仕切る吹奏楽部によって占拠されてしまう 普通に忘れ物をしたと毛利君に知られるだけでも「相変わらずの愚図だな」とか何とか罵られるのが目に見えるのに、あの吹奏楽部の中に入っていくなんて想像もしたくない 何故ならあの吹奏楽部員達は部長である毛利君の事を「元就様」と呼び、毛利君は部員達の事を「捨て駒」と呼んでいるのだとかいう噂がある それ何て言うプレイですかって感じだけど、毛利君なら普通にやりそうで困る とにかくそんな異質空間を体験せずに済んで良かったと心の底から思う 「あ、これこれ!良かった…」 使っていた机の中を覗いたところ、私の名前が書かれた楽譜が間抜けにぽつんと残っていた それを手に持って満足していた私の視界に、ふと大きなグランドピアノが映った 「いいなぁ大きいピアノ…ちょっとくらい弾いてもいいかな…?」 実は小さい頃に少しピアノを習っていたことがある私にとって、大きな黒塗りのグランドピアノはちょっとした憧れの存在だった キョロキョロと辺りを見回して誰もいない事を確認してから、そっとピアノの蓋を開けて椅子に座った 「何弾こうかな?あ、この楽譜の曲とかいいかも」 丁度さっき取り戻したばかりの課題の楽譜 歌の課題の楽譜だけれど、ちゃんとピアノの旋律も書かれている そんなに難しそうじゃないしこれでいいか、そう思って一度軽く深呼吸してから鍵盤に触れた 恐る恐る楽譜を見ながら弾き始めれば、一音一音が静かな音楽室に響く 指の動きが鈍くて少しぎこちないけれど、自分の指先からこの美しい音が奏でられているのだと思うと何だか嬉しくなって、いつの間にか鍵盤を弾く事に夢中になっていた 「…誰かと思えば、下手クソなピアノの犯人は貴様だったか」 「っ!?えぇ、あ!も、毛利君…!!」 楽譜と鍵盤に注がれていた全神経は、第三者の言葉であっけなく崩れ落ち、慌てた指先からは不協和音が響いた 教室の後ろのドアから入ってきたらしい毛利君は、眉間に皺を寄せながら私の方にツカツカと歩み寄ってきて、ピアノの前に座る私をしげしげと遠慮も無く眺めた 「貴様、音楽に心得があったのか」 「いや…昔ちょっとピアノを習ってただけなんだけど」 「成る程、通りで幼子も目を丸くするような騒音だと思うたわ」 「さすがに騒音は酷くないですか」 「我の耳に適わぬ音は全て騒音よ」 頂きました、毛利様の「我基準」 彼の世界は何もかもが彼の定規で測られていると思う、というか絶対そうだ フン、と鼻で笑う毛利君に対して私は恥ずかしいのと怖いのとで、早くもピアノなんか弾くんじゃなかったと心の中で激しく後悔し始めていた 確かにドM集団…じゃなかった吹奏楽部を率いる毛利君からしてみれば、何年もブランクがある私が弾くピアノなんて騒音でしかなかっただろう 私だって自分が上手いと思って弾いてた訳じゃない、ただ自分の指で音を奏でる事が楽しかっただけなのに 「どの辺りまで弾けるのだ」 「え?あぁ… 最後にやったのはブルグミュラーの本だったかなぁ」 「25の練習曲か」 「そうそう、確か「天使の声」って曲が好きでいっつもそればっかり弾いてた」 「では、弾いてみよ」 「え?」 「聞こえなかったのか、弾いてみよと言っている」 「さっきは私のピアノを騒音だって言った癖に」という非難もこめて、座っている私を見下ろす毛利君を見上げてみれば、彼は腕を組んでじっと私が弾くのを無言で待っている いやいやいや 何コレ?公開処刑ですか? 私は某SM部員達と違って罵られて燃えるような性癖は持ってないんですけど どうしよう、コレって逃げるべきかな? そう思ってもう一度毛利君を窺い見れば「早うしろ」と急かされてしまった もはやこれでは逃げるという選択肢はなく、フルボッコ覚悟で挑む以外に私に残された道はない もういい、こうなりゃヤケだ!そう思ってもう一度鍵盤に指を置いて、うろ覚えの曲を必死に思い出しながら一生懸命弾いた お気に入りの曲だったからか何なのか、最初こそ自分でも「ヒイイイィイイ」ってなるくらいぎこちないリズムだったけれど、思い出す内に楽しくなってきて短い練習曲はあっと言う間に終わってしまった あとは終始何も言わずにじっと私の横で聴いていた毛利君の精神的虐待に耐えればそれで終わるはず 「やはり聴けたものではないな」 「だから言ったでしょ…昔の話だって、」 「だが、」 「?」 「少しの工夫で変わる範囲だ」 どういう意味?と問おうとして横に立っていた毛利君を見上げると、其処にはもう毛利君はいなくて 不思議に思ってキョロキョロと左右を見回していると、突然背中に何かが触れた 「も、毛利君!?」 「背筋を伸ばせ、そのような姿勢では正しく指に力が入らん」 いつの間にか私の背後に回っていたらしい毛利君は、私の背中に手を添えて姿勢を正させると、驚く私の事など気にも留めずそのまま後ろからすっと腕を伸ばして鍵盤の上に私の手を置いた 「手の平はもっと丸くしろ、初心者はそうした方が弾き易い」 「もも、毛利君、ち、近いっ…!」 「椅子を前に引きすぎだ、ピアノと腹の間は拳ひとつ程の空間を作れ」 「…〜っ!!」 私の背中には毛利君の身体がぴったりと密着していて、伸ばされた手は私の指を適切な形に変えようとそっと触れてくる 一々細かく説明する毛利君の声は、必然的に私の耳元で発されることとなり、赤いハチマキで有名な真田君じゃないけれど「破廉恥でござらぁああああ」と叫びたくなるような状況に陥ってしまった 何コレ一体どういうこと あの鬼畜毛利君が、私にピアノを教えてるよ! しかも私別に吹奏楽部員とかじゃないのに…アレかな、あまりにも下手すぎて毛利君の指導心に熱をいれちゃったとか? どっちにしろこの状況はヤバイよ だって、私の心臓が煩すぎてもう毛利君の声が全然聞こえない 「……これで少しはマトモに弾けるようになる」 「そ、そうですか… っていうか毛利君、いつも吹奏楽部でこんな風に教えてるの…?」 一通り修正し終わったらしく、やっと毛利君が私の背中から離れてくれた 何だかこの数分にも満たない時間でグラウンドを10周したんじゃないかと思うくらい精神的に疲れてしまった それにしても、もしかして吹奏楽部の人達は日常的に毛利君にこんな風教えてもらっているのだろうか だとしたらほんの少し、ほんの少しだけ、Mに目覚めてしまう気も分からなくはない 未だ煩い心臓を抑えながら、少し気になった事を聞けば、毛利君は少し目を丸くして「馬鹿な」と呟いた 「我が駒にここまでしてやる訳がなかろう」 「え、じゃあどうして…」 「…さぁな、気紛れだ」 つい、と顔を背けて私から離れた毛利君の横顔は、少し長めの茶色い髪に隠されてよく見えない なんだ、じゃあやっぱり吹奏楽部の人達は真性のMだったのか そんな事を考えていると、毛利君は既に用済みとばかりに音楽室から出て行こうとドアに向かって歩き始めていた その後姿を黙って見ていると、毛利君はドアに手を掛けたところでピタリと止まり、くるりと私の方を振り返った 「…悪くは無かった」 「え?何て?」 「忘れ癖も大概にしておけ、と言ったのだ」 「うっ…わ、分かってる!」 最初の言葉は小さくてよく聞こえなかった 聞き返して帰ってきた言葉はいつも通り棘棘しい毛利様のお言葉だった 「ではな」と言ってそのまま涼しい風を纏って音楽室から出て行った毛利君を恨めしく睨んで、ふと毛利君は一体何をしに音楽室へ来たんだろうと疑問に思った でもそれより何より不思議なのは、私に密着していた時の毛利君 一体何を考えてあんな事をしたんだろう ひとつだけ確かなのは、吹奏楽部員が真性のドMだということだけだった しのぶもぢずり 何を、しているのか 人気のない廊下を早足で歩きながら自分自身に問うた 音楽室に部活の課題演奏曲の楽譜を取りに行こうと思っていた筈だった だが、今それは我が手元に無い 音楽室には予想外の女が居た 拙い演奏で奏でられるピアノは決して上手のものでは無かったが、隣の席のあの女があれ程楽しそうな顔をするところは、本を読んでいる時以外に知らなかった あまりの拙さに思わず手を出して教えてしまったが、よくよく考えればあれも正気であったとは思えない 他人にあそこまで近づく事すらどうかと言うのに、あまつさえあの女の髪から香る匂いだとか、触れた手指の滑らかさだとかに反応して高まる鼓動を必死に抑えつける己がそこにはいたのだ 「我とした事が…っ」 己の軽挙に己で驚いてそのまま本来の目的を忘れて出てきてしまうとは… こんな己自身をどう扱っていいのかすら今の我には解らなかった 一つだけ確かな事 あの女は、我にとって厄介極まりない存在であると言う事だ |