▼われならなくに

人の癖と言う物は中々治らないもので
気をつけよう気をつけようと思いながらも、肝心な時にその気持ちが薄らいでしまう


「しまった…!」


机の中をいくら探ってもお目当ての物は出てこない
記憶を辿ってみても、鞄に歴史の教科書を入れた記憶がないのだから忘れた事に違いないのだろうけど

チラ、と隣の席の元就君を窺うと、元就君はいつも通りの涼しい横顔で難しそうな本を読んでいた
けれどもう恐れることなんてない
だって今や彼は私の彼氏であり、呼び方だって元就君の方から「苗字でなく名で呼べ」と言ってくれたくらいなんだから


「元就君、お願いがあるんだけど」

「何ぞ、言うてみよ」

「歴史の教科書忘れちゃって…だからまた机寄せて見せてもらってもいいかな?」


恐る恐る尋ねた私に対して、元就君は静かに本を閉じて私へ向き直った
その顔にいつも通りの冷ややかな笑みが湛えられていることが私の不安を一気に確信のものに変えた


「貴様はつくづく学ばぬ女だ
我に物を頼むならばそれ相応の頼み方がる筈であろう?」

「なっ…!」


元就君はとても楽しそう&意地悪な笑顔でいつものようにそう言い放った
まさか、少なからずとも彼女に対してその態度はないと思ってたのに…!!

ぎり、と奥歯を噛み締めて東京タワーのてっぺんにいるくらいの勢いで私を見下す元就君を一睨みしてから、一度大きく息を吐いた


「すみません大変申し訳ないのですが、この愚か者がまた教科書を忘れてしまいましたので、毛利様の御慈悲で教科書を見せて頂けないでしょうか」

「フン、最初からそう言えば良いものを」


悔しいかな既に言いなれてしまったこの遜りまくりのご挨拶
そして変わらぬ元就君の涼しい笑み

そっと私の方に寄せられた教科書にだけ、僅かな優しさを感じながら机を引っ付ける
本当にどうして私はこんな偏屈女王様が好きなんだろう
やっぱり真性のドMなんだろうか…いやでもあの吹奏楽部員達と同じにはされたくないなぁ

悶々とそんな事を考えながらチラリと元就君の方を窺うと、意外にも毛利君はじっと私を見ていたらしくバッチリと視線がかち合った


「な、何?私何か粗相でもした?」

「…いや、愚かな貴様の為に次の策を考えていたまでよ」

「?次の策?」


意味の分からない言葉に首を傾げる私とは逆に、元就君は真剣な顔で「籤に細工を施すか…」「捨て駒を使うか…」「いざとなれば脅迫…」とか何とかぶつぶつ呟いている
というか脅迫ってなんですか脅迫って


「そ、そう言えば元就君、私が薦めた本は読んだ?」

「あぁ、あの長子が死んだが為に愚かな選択をして後々の家系廃絶を招くキッカケを作った男の話か」

「うん間違ってはいないけど元就君は長曽我部さんに何か恨みでもあるのかな」


忌々しそうに、でもどこか嘲笑するような余裕も見せながら淡々と呟く元就君には只ならぬものを感じる
そう言えばうちの学園にいる長曽我部君は、命知らずな事に元就君とよく喧嘩をしているとか聞いた事がある
だからか、と一人納得する私に対して元就君は「まぁ話自体は中々興があって良かったのではないか」と誉め言葉なのか何なのかよく分からないコメントを呟いた


「なまえ、貴様どうせ今日の放課後も暇なのだろう」

「うん暇だけど、その言い方されると意地でも用事作りたくなるね」

「ならば我が作ってやろう
駅前の本屋に寄るから貴様も共に来い」

「本屋に?」

「あぁ
貴様は本については中々の目があると見た」

「また何かオススメの本でも紹介したらいいの?」

「そうだ、それとあまりに教養に欠ける貴様にも我が何か読ませてやろう
我の側に置いても遜色ない女になるように、今から躾けておかねばな」


ケロリと然も当然かの様にそう言う元就君に対して、私は憤慨していいものか恥ずかしがればいいのか、喜べばいいものかと複雑な気持ちになった

あまりに教養に欠けるという失礼な物言い
何か読ませてやろうという上から目線
側に置いても遜色ないように、って事は今は遜色あるんですかという不満

怒る理由はいくらでもあるはずなのに、それよりも何気に初めての放課後デートだなぁとか、何だかんだ言って側に置いてくれるんだなぁといった事が嬉しい
やっぱり私は自分でも気付かなかったけど少し変わっているのかも知れない
若しくは変えられてしまったのかもしれない
変えたのは勿論、隣の席の涼しい横顔の彼


「ねぇ元就君、元就君って歴史も詳しいよね?」

「それなりの知識は持っているが」

「百人一首とかは好き?」

「それは歴史というより古文学であろう
それがどうかしたか」

「百人一首の十四番」

「十四番?」


眉を顰めて不可解そうな顔をする元就君は、きっと百人一首の十四番を覚えていないんだろう

意味が分からないという顔をする元就君に、ニッと笑みを浮かべたと同時に始業を告げるチャイムが鳴り響いた
起立の声と重ねて小声で「それが一体どうした」と尋ねてくる元就君
ここで素直に答えを言っても構わないのだけど、それは何だか少し惜しい
いつも負けっぱなしなんだからちょっとくらい反抗したっていいよね?

着席の礼に従っていつもより近い元就君の隣の席に腰掛ける
元就君は返って来ない返事に苛々しているのか不機嫌そうに私を睨んでいる


「元就君、」

「何だ」

「す き」


机を付け合った近距離でも、聞こえるか聞こえないかの小声
むしろ二言目はほぼ口パク

面食らったような顔で目を丸くする元就君がおかしくて、笑いを堪えるように必死で机に伏せた

今頃元就君はどんな顔をしてるだろう
怒ってるかな、馬鹿馬鹿しいと思われたかな
そっと腕の隙間から覗いた元就君の表情に、今度は私が目を丸くする番だった

真っ赤な顔に、困惑に揺れる瞳

その表情に思わず胸がドキンと大きく高鳴った私は、もしかしたらSの素質もあるのかも知れないと、ちょっとだけ思った










われならなくに










「…これか」


本屋の一角、簡単に見つかった小倉百人一首に関する本
現代訳など載っていなくとも大体の意味は分かる
あの馬鹿が言っていた十四番の句を見つけるのに時間は掛らなかった

みちのくの
しのぶもぢずり
たれゆゑに
乱れそめにし
われならなくに


「…これは我への当て付けか?」


句の意味を把握すると共に込み上げてきたのは、歴史の授業中に囁くようにイタズラに呟かれた言葉
あんな単純な一言に己があそこまで混乱するとは思いもしなかった

少し離れた棚で熱心に本を選ぶなまえ
恐らくなまえは、我がどれ程その存在と一挙手一投足に振り回されているのかなど欠片も理解していないのだろう、あの馬鹿は
まぁ、それに関してはじっくりと心身ともに教え込んでいくつもりではある

不意に我を振り返ったなまえが、何か良い本を見つけたのか嬉しそうな顔で一冊の本を我に向かって見せてくる


「元就君、」


弾む声に呼ばれる己の名が、まるで違うもののように聞こえる
己の鼓動が弾むたびに、敗北にも似た遣る瀬無い、だが決して不快ではない不可思議な感覚に襲われる

それもこれも、全てそなたの所為ぞ

そう言ってやりたい気持ちを抑えて、相変わらず間抜けな笑顔で我を待つ女の方へとゆっくりと歩み寄った





みちのくの
しのぶもぢずり
たれゆゑに
乱れそめにし
われならなくに


一体誰の所為で私の心はこんなに乱れてしまうのか
私の所為ではない
きっと、すべて貴方の所為だ