▼welcome rain

手に持った少し大きな黒の傘
これを私に持たせてくれた人は傘の色とは正反対の肌の色も髪の色も白い人だった
その人のことは、本当は前から知っていた


大学に入学して直ぐに出来た友人達とはいつも同じテラスで昼食を摂っている
そしてそのテラスの一角、人ごみから少し離れた角の席でいつも一人で難しそうな資料を読みふけっているのが、彼だった


「ねぇ、あの人けっこう格好良くない?」

友人の一人が小声でそう言ったのは5月の半ばだった

「あ、私も思ってた
でもあの人さ、しょっちゅうなまえの事見てるんだよね、知ってた?」

「え?そうなの?知らなかった」

「やっぱり!なまえってそう言うの鈍いよね
もしかしたらなまえに気があるのかもしれないのに」

「えー?まさかそんな事ないと思うよ」

からかうような口調の友人に少し困りながら、チラ、と話題の彼の方を見れば不意に目が合った
私も驚いたけれど、彼も驚いたのか一瞬目を丸くしてバッと逸らされてしまった
この時は偶然だろうと思っただけだったけれど、それから暫く同じ様な事が何度も続いた


「やっぱりなまえに気があるんだよ!」と力説する友人とは裏腹に、私は恐らくそうではないと何となくだけれど確信をもっていた
何度か視線を合わせて気付いたけれど、彼の私を見る目は好きな人とか気になる人を見るような甘いものではなかった

そこに在るのは目が合った瞬間、思わず逸らしたくなってしまう程の深淵の闇
何かに縋るような、酷く悲しい目
どうして彼が私にそんな目を向けてくるのかなんて全く分からない
彼ほど容姿に特徴のある人物なら一度会えば忘れないだろうし、彼から私に何か話しかけてくる気配がないのだから、私から「どうしてそんな目で私を見るのですか?」なんて訊く事もできない


そんな日々が暫く続いた6月
その「彼」に傘を借りた
正確に言えば「持たされた」という事になるけれど
突然現れて、突然去っていった彼の名は石田三成というらしい
実は今までずっと年上だと思っていたから、彼が1年だと言ったときには内心「え」と思った
随分ぶっきらぼうだったけれど、テラスで目が合うこと以外関わりの無い私に1本しか無い傘をくれるなんて、彼は冷淡そうな外見よりも随分優しい人なんだと思った



「理工学部、理工学部の棟は…と」


入学してまだ2ヶ月の広大な敷地にある大学は、私にとって迷路のようなものだ

今日、火曜日は友人も私も昼からの講義がないのでテラスには行かないけど、傘を返さなければいけない私は午前の講義が終わってからいつものようにテラスに向かった
けれど、いつもの場所に石田君は居なかった
もしかして石田君も火曜日は午前の講義だけなのかな、と思い帰ろうかと思ったけれど、今日たまたま見たニュースでは明日の天気は午後から雨だった
晴れている今日の内に返しておかなければ、と思い直し昨日聞いた「理工学部」というキーワードを元に石田君の所在を探す事にした


「あ、あった!」


案内板を頼りに辿り着いたのは真っ白な壁の、主に理工学部が使う研究室が並ぶ棟
たとえ今日石田君に会えなくても、誰かに頼んで傘を研究室に置いておいて貰えばいい、水曜日はいつもテラスにいるから石田君も学校に来るだろうし

そう思って研究棟へ踏み込んでみたはいいものの、中は想像以上の広さと部屋数だった
ドア横に所属する学生と担当教諭の名前が書いた札があるから、探せない事はないだろうけど、確かうちの理工学部は学生数がかなり多い
しかもこの研究棟は私の記憶が正しければ5階まである
これは想像以上に厳しい作業になるかもしれないなぁ、と軽く溜息を零しながらひとつひとつの部屋の札を丁寧に確認していった


「え、と…ここも違う、次は3階かぁ」


2階を回った時点で既に体力はかなり削られてしまっていた
もし石田君の研究室が5階だったらどうしよう、と思いながら階段へ足をかけると、ひらりと足下に何かが落ちてきた


「5月研究報告…?」

「なまえ…」


落ちてきた紙を拾い上げたのとほぼ同時に、頭上の踊り場から名前を呼ばれた
見上げると、そこには目を丸くして立ち尽くす探し人である石田君の姿があった


「な、何故貴様がここに…」

「あ、あの、昨日借りた傘を返そうと思って…このプリントも石田君の?」

「そうだ
…まさかわざわざその為だけに来たのか」

「うん、明日雨らしいからその前に返しておかなきゃと思って」


踊り場から、私の居る所まで階段を降りてきた石田君は訝しげに私を見た後、何故か少し気まずそうに斜め下に視線を向けた
もしかしてここまで来たのが迷惑だったのかな、と不安になる


「そんな傘一本わざわざこんな所まで返しになど来なくてよかったものを」

「そういう訳にはいかないよ
…でももしかして迷惑だった?」


私がそう尋ねると、石田君はまた目を丸くして如何にも「驚いた」と言わんばかりの顔をした後、軽く舌打ちをして半ば奪うように私の手から傘を取った


「迷惑だなどとは一言も言っていない」

「そう?それならいいんだけど
あと、これ昨日のお詫びとお礼にと思って…私のバイト先で作ってるクッキーなんだけど、貰ってくれる?」

「…」

「あ、もしかしてクッキーとか嫌いだった…?」


石田君は私が差し出したクッキーを受け取らずにまるで不思議なものを見るような目でまじまじと見ている
あまり何も考えずに私の一番好きな紅茶味のクッキーを持ってきたけれど、確かに甘いものが好きじゃない男の子って結構いるし、石田君も見た目からしてあまり甘いものとか食べそうにない
これは失敗だったかな、と思って差し出した手を引っ込めようとした

「あ、」

「…貰っておく」


さっと一瞬で手の上の袋を取り攫われ、気付けばクッキーは石田君の掌中にあった
さっきの反応から察するにあまりクッキーが好きそうには見えなかったけど…
もしかして気を使ってくれたんだろうか、雨降りに名も知らない女に傘を貸してくれるくらいだから、きっと石田君はすごく優しい人なんだろう

それにしては表情があまりにぶっきらぼうで不器用なひとだなぁと思って小さく笑うと、私を見る石田君の目がすうっと細められた


「…何故笑う?」

「あ、ごめんね
他意は無いんだけど…受け取って貰えて嬉しかったから」

「嬉しかっただと?」

「うん、石田君って優しい人だってよく言われない?」

「なっ…!」


明らかに動揺する石田君がまた面白くて、私はまた小さく笑った

ずっと名前も知らず、ただよく目が合う人という認識しかなかった
いつも一人で、酷く難しい顔をしていて、かち合う視線の先にある瞳は真っ暗で
だから本当はずっと彼の事が少し怖かった
だけど実際に話してみれば凄く良い人で安心したというのが本音だった


「三成君、ちょっといいかな…と、お取り込み中だったかな?」

「半兵衛様!」


先ほど石田君が降りてきた踊り場から声を掛けてきたのは、石田君と同じように色白で華奢なとても綺麗な男の人
研究室の方だろうか、石田君が様付けで呼んだからすごく偉い人なのかもしれない

見上げる私をその「半兵衛様」は一瞬驚いた目で見て、それからゆっくりと階段を降りてきた

「あ、私の用は済んだので…」

「そうかい?それなら良いんだけど、どうも僕は邪魔立てをしてしまったようだね」

「そんな、邪魔だなんて…
あ、それじゃあ石田君、私はこれで…その、傘本当にありがとう」

「…あぁ」

「それじゃあ、失礼します」


階下に下りてきた「半兵衛様」の来ている白衣には「竹中」という名札が付けられていた
察するに、やはり研究室の教授なんだろう
そもそも私は学部外生なんだから邪魔をしてはいけない、そう思って竹中さんに一礼して石田君にももう一度お礼を言って踵を返した


研究棟から外に出てみれば、すっかり空は雲に覆われていて今にも雨が降り出しそうになっていた
でも、今の私はそんなことよりもっと気がかりな事があった

最後に、踵を返す瞬間に見た石田君の、目
話している時は全然気にならなかったのに、あの最後の一瞬彼が私を見ていた目は、やはりいつもと同じ悲しい程に暗い目だった

ぽつり、降りだしてきた雨の雫が頬に滲んだ
あの目を見ていると、私もどうしようもないくらい悲しくなる
何故、あんな優しい人が、私を見る時はあんなに悲しい目をするんだろうか
どうしよう、私、石田君の事がすごく知りたい
でも、何故か知ってはいけないような気もする
どうして?


本格的に振り出した雨の中、石田君の居る研究棟を振り返ってみた
昨日の雨は、私達の間にあった沈黙と言う壁を壊していった
それが吉なのか凶なのか、今の私には何も分からなかった





welcome rain
それは、恵みの雨?