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「…石田君が、居なくなったことの方が、ずっと、ずっと辛かった…」


目の前でぼろぼろと涙を零すなまえを見ながら思った
私は前世でなまえの涙を一度も見たことが無かった、と

そもそも過ごした時間が限られているが、それでもなまえは寂しいと泣き縋る事も、既に病を患っていた最後に会ったあの時でさえ、苦しいとも言わず涙を見せなかった
それは恐らくあの時代のなまえなりの気遣いだ
いくら戻ってくる頻度が極端に少ない私にでも、武家の女が夫の仕事に差し支えるような事をしたくは無かったのだろう

…尤も、最後は耐え切れなくなって私に縋っていたが
あの時振り返らなかった私はなまえの涙を見る事は無かった


今のなまえに会う事が辛くなった
その笑顔を見る度に、私の知らないなまえの一面を見る度に、己の愚かしさが棘となって心に突き刺さる

もし、私があの時なまえを振り払わず、その身の異常に気付いてそれなりの処置を取らせていれば少しはなまえも報われたかも知れない
もし、普段から己の妻の事を気にかけてやれていたのなら、病は軽いもので済んでいたかも知れない

当時の理由や状況はともあれ、私が犯した罪はあまりに大きかった
そしてなまえに会う度にその罪悪感は増大していった


だが、今のなまえの言葉で私は完全に己の過ちに気付いた
なまえは私の存在に苦しめられているのではない
ただ、私の側に居たいという些細な願いが叶えられない事に苦しんでいる
それは前世も今生も同じ
なまえは私の側に居るのが不幸なのではない、別離こそを恐れていたのだ
何故それに気付かなかったのか
今も昔も何も変わってなどいない、ただ私達はお互いを求め合っていたというのに


涙を零し続けるなまえに近づき、その頬を伝う温かい雫を拭ってやれば、濡れた瞳が驚きに少し見開かれた


「泣くな、私は女を泣き止ませる方法など知らん」

「だって、石田君が、」

「…私は、なまえの側に居ていいのか」

「いいのか、じゃなくて…
側に、居て…もう何処にも行かないで」


「行かないで」その言葉には酷く覚えがある
たった一度、前世でたった一度なまえが私に縋ったあの時に言った言葉
何も出来なかった私を必要として、懇願した時の言葉

もう何を考えるのも馬鹿馬鹿しいと思った
気付けば私は縋るようになまえを腕の中に閉じ込め、その存在を確かめるように何度もなまえの名を呼んだ

此処に居る
なまえが、此処に居る
それだけで良かった
幼い日に側で書を読んでいた頃に感じた安心感、それがあるだけで私は満たされたのだ
それを求めてなまえを娶り、失い、今生を得て尚なまえと出会う事を望んだ
心の底では求めていたのに、口にすることができなかった
前世の私は、心と言葉が余りに遠くにあった

そっと私の背に回されたなまえの細い腕が、酷く愛しいと思う
愛しいなんて感情を抱いたことなど無かったが、今この胸の内にある感情がそうでないと言うならば、私にとって愛情などどうでもいい
今、この瞬間なまえに対して抱く感情だけが真実を示していると感じる



咎など、罪など漱げる事は無い
私が犯した過ちは、確かにそこに存在する
だが、今の私は今の私だ
今を生きるなまえを、この手にある幸福を、二度と失わぬように生きるだけだ


「なまえ、」

「ん?」

「なまえ、私は…私は、なまえと共に生きて行く
ずっとそれを望んでいた…これからも、それを望む
今、ここから…」


やり直すことなど出来ない
だが、ここから再び始めることは出来る

私の言葉を無言ながらにふわりと笑って受け入れたなまえは、もう泣いてはいなかった


二人でここから始める
それが今を生きる己の存在価値であり、私の唯一無二の願い


心の棘は、然も在りもしなかったかの如く温もりに解けていった
もうあの痛みに苦しむ事はないだろう

ここに、なまえが笑っているのだから








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0からの出発