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―…

粉塵舞い上がる戦場
散らばる死体と何処かしらから聞こえる呻き声
この空間には最早何も存在しない
目の前の戦に勝ったとて、誉めて下さる秀吉様はもう何処にも居られない

家康を目指して戦を始めて、早くも二月が経とうとしていた
次の戦に勝てば家康はもう目前、このままの流れでいけば決戦の地は関ヶ原になるだろう


「石田様!佐和山城より急使が参っております」

「佐和山から…?何の用だ、通せ」

「はっ!」


戦の後の荒野に組まれた陣で、全身に散った敵の血水を拭っていると思わぬ知らせが届いた
佐和山は、秀吉様から与えられた私の居城であるが、実質秀吉様の元で仕事をすることが多かった私にとっては疎遠なものだった
今さらこんな戦場に急使を送ってくるとは一体何があったというのか
目通りを許可して間も無く連れて来られた使いは、鎮痛の面持ちで言葉を発した


「昨夜未明…奥方様が、急死なされました…」

「何だと…?」

「長い間肺を患っておられました故、それが原因かと思われます
薬師始め一同力を尽くしましたが、力及ばず…
今後の事は三成様の許可が下りれば城の者達で葬儀を仕りますが…」


半ば泣いている様な震えた声で言上を告げる使いは、恐らく城仕えの者なのだろう
心底なまえが身罷った事を嘆いているように見えるその様は、まるでなまえの身内の様だ
それに比べ、当の私は頭の中が錯乱して悲しむどころではなかった

肺を患っていた、と聞いて真っ先に思い浮かんだのは他の何でもない最後になまえに会った時…なまえを突き放した時の事だ
あの咳はやはり病のものだったか、と納得する反面で「長い間」というのは一体いつからを指すのかが気になった
あの時よりずっと前からなまえは肺を病んでいたのだろうか
だとしたら何故私にそれを言わなかった

……否、言えなかったのか


「…後の事は貴様達に任せる」

「承りました」

「だが、」

「はい、何でしょう」

「…あれは、最後に何か言っていたか」


直ぐにでも城に戻りたいという気持ちが有り有りと伝わってくる程にどこか急ぎ気味で私に背を向けようとした使いの足を止めさせてでも、それだけは聞いておきたかった

ほとんど夫婦らしい事もせずに、ただ夫に蔑ろにされたまま死ぬ女の心情など分かったものではない
だが、一つだけ分かるのはなまえが幸せではなかったという事だ
籠に閉じ込められて捨てられた鳥のように生きたなまえは、一体最期に何を思い何と言ったのか
それが私への恨み辛みだろうと呪詛の言だろうと何ら不思議ではない

使いの男は私を振り返ると、従者の態度と言うよりは一人の人間としてはっきり意志の籠もった目で私を見据えた


「奥方様は、いつも三成様を案じておられました
戦に向かう兵にも「三成様を頼みます」とお声を掛けられ、祈祷も毎日しておられました
そして最期に、悔やんでおられました
例えそこが戦場であろうと、三成様のお側に居たかった、と
それが最期の言葉でした」

「……」

「…では、私は失礼致します」


去って行く使いの背を茫然と見つめながら、先ほど伝えられた妻の最期を想像してみようとした
だが、どうにも上手く想像出来ない
なまえは、私を恨みはしなかったのか?


幼少の頃に出会い、長くは無かったが同じ時を過ごす中で特別な感情を抱いた
数年後に巡ってきた機会でも、自ら望んでなまえを娶った
それまでは決して私達の関係はおかしくなかった筈だ
少なくとも恨まれているのではと考えねばならぬ程に狂ってはいなかった

城に戻ることも、会話をする事も少なかったが、なまえがそこに居るだけでいいと思っていたのだ
今は構っていられないが、秀吉様の手で日の本が平定されれば少しはその心の余暇も許されるかとどこかで考えていた

私は決して、なまえを不幸にしたかった訳ではない
ただ、今がその時ではなかっただけだ

だが、結果は結果だ
最期まで表向きだけでも夫を気遣う妻で居たなまえに比べ、狂気に駆られた私は何も出来なかった
今さら気付いても遅い
そうだ、嘆いたところでなまえはもうこの世には居ない
秀吉様と同じ様に、私を一人置いて去っていってしまったのだ


「三成、先に来ていた急使は何だった」

「なまえが城で死んだと知らせに来ただけだ」

「何と、それは真か」

「あぁ」

「…」


刑部は何も言わず私の反応を見定めている
もしや私が妻の死を悼み家康への憎しみを忘れるとでも思っているのか
馬鹿馬鹿しい
この胸に渦巻くのは妻の死で揺らぐ程の軽い憎悪ではない
そもそも、家康さえ裏切らなければこの妻を突き放すこの狂気に駆られる事も無かったのだから
失ったものを嘆いていられるほど私に余裕など存在しないのだ


「行くぞ、刑部」

「…ぬしは真に難儀な男よの」


乾ききった大地を踏みしめて次の戦場へと足を進める
これ以外に私に道は無い

例え憎悪取り巻くこの胸に一寸の棘が刺さったような痛みを覚えても、それを気にしている暇など無い
ただ、使いが言ったなまえの最期の言葉だけが暫く頭の中で響き続ける

「三成様のお側に居たかった」

その声も戦場の怒号の中で消えいくまでに時間は掛らなかった






…―

そしてその一寸の棘が、死後の毒の抜けた魂に残り、悔恨の念を湧き上がらせる
生は巡り、再びなまえと出会えた瞬間でさえその棘は鋭利さを失ってはいなかった

まるで生まれ変わって尚、許さないと言わんばかりにその棘は深く心に刺さり続けた