▼feign ignorance 花が、咲いていた 大学内の敷地の一角に庭園がある そこに複数の花が咲いていたが、どうやらそこに先日なまえが言っていた蘭は無いようだった 今日はいつもなまえが居るテラスには向かわず研究室で昼休みを過ごす事にした 理由は自分でもよく分からない ただ、この罪悪感を抱えたままなまえに会うことはどうしても出来ないと感じたからだ 一昨日、外出をした方が良いというなまえの提案に乗る形で植物園に二人で出掛けた 心のどこかではまだなまえに拒絶される事を恐れていたが、そんな事が馬鹿らしくなる程になまえはすんなり私に着いてきた 男の誘いにこれほどあっさりと頷く辺りに言いようの無い不安も覚えたが、それよりも私に「楽しみにしてる」と言った時のなまえの笑顔が頭から離れなかった なまえが働く店に通うようになってから、時折愚かな考えが頭を過ぎる それは、なまえが前世の記憶を持って生まれてこなくて良かったという安堵 もし、なまえがあの前世の記憶を持って生まれてきていたとしたら、私になどあの笑顔を向ける事はなかっただろう 若しかすれば、私を憎み、蔑み、拒絶していたかもしれない だが、その安堵はいつも一瞬で絶望に変わる 確かに私は己の過去で、あの笑顔を壊したのだという事実を思い出して 「植物が好きなのか」 植物園からの帰り道、自然に口から零れた疑問は当然のものだった 私は前世のなまえの嗜好など何一つ知らなかったのだ 詩歌の書をよく読んでいたという事実以外、何も知らない その当時の自分が、妻にうつつを抜かすような事を望んでいなかったとは言え、その後の結末を思えばそれは後悔せざるを得ない事実 何事も、後悔とは全て取り返しがつかなくなってから気付くものだ 「今咲いてるのだと…紫蘭かな? 鮮やかな紫色で、私も凄く好きなの」 「紫蘭、か…」 なまえは何の意識も無く言ったのだろうが、紫蘭という花を思い浮かべた瞬間に思考が止まる程の頭痛に見舞われた 紫は、前世の私が着ていた陣羽織の色、大一大万大吉を記した旗の色 若しかすると、このなまえは本当は前世の私を覚えているのでは… そう思えば、正に心は絶望の淵に落とされていく 今日二人で過ごした時間は、胸が痛む事もあれど、驚く程に穏やかで心休まるものだった 過去のなまえがどうであれ、今の私にとって、今を生きるなまえが特別な存在であるという事はもはや明確だった それが、過去を覚えていたとしたら、いや今は覚えていなくともいつか思い出すとしたら― 「石田君…?」 「、何でもない …次は何処を曲がる」 「えっと、そこの信号を右で…」 馬鹿な事を考えた 普通に生きているのならば、前世の記憶など持っている筈がないのだ 事実、私はこうして前世の記憶を持ってはいるが、それは私が背負った咎故の事だ 何の罪もなくただ純粋に生きていたなまえが、あの不幸な前世の記憶を取り戻す事などある筈がない なまえを家まで送ってから寮に戻るまでの間、ずっと前世の記憶を掘り起こす様に辿っていた 本当に私は前世でなまえの事を何も知らなかっただろうか 忘れていただけで、本当は好きな花の名くらい聞いた事があるのではないだろうか、そう思って黒く滲む過去を思い起こしていた だが、思い出されるのはとても美しい思い出とは程遠い残酷な記憶 秀吉様ご存命の折さえまともに妻と顔を合わせようとしなかった己がそこに居て、秀吉様を失ってからは存在すら蔑ろにするようになった己がそこに居る 初めの頃はなまえも多くの事を私に語りかけていた気がする、だが共有する時間が無くなり、私が狂気に取り憑かれた頃には、何も言わなくなってしまっていた だが、言葉少なにもなまえは私にいつも何かを伝えようと懸命だった そう、あの時、本当の最後になまえの声を聞いた時 あの時もなまえは私に何かを伝えようとしていたのだ それを踏みにじったのは紛れもなく私自身 思い出すほどに何も知らず今生を生きるなまえに、何も知らぬ振りをして接している事が心苦しくなる 今生でも、傷つけるやも知れぬのだ また、同じ過ちを繰り返さない保障など何処にもない ならばいっそなまえと関わるのを止めるべきではないかと、思うようになっていた だが、あの笑顔を見れないと思うと心が軋む 何故この様な事しか選択できないのか あの時、何かが違っていれば誰かが救われる結果になったのだろうか… ―… 秀吉様が討たれた後、私がなまえの居る城へ戻ったのはたった一度だった 本当は己の居城になど元々大して執着も無かったから戻る気も更々なかったのだが、戦前の準備の為に渋々戻る事になった 城内はどこか緊張とも絶望とも取れる不快な空気に包まれていて、それが既に狂っていた私の心を更に波立たせていた 「三成様…」 「…なまえか」 部下達が戦準備をしている間、久々に自室に入り嘗て秀吉様や半兵衛様から賜った書を手に、失われた日々を偲んでいた 開け放しにしていた襖の向こうから聞こえた声は、か細い聞き覚えのある女の声 視線を向ければ、なまえが座を正して襖の向こうから私を見上げていた 「ご出陣されるのですか」 「そうだ」 「…徳川殿を、討たれるのですか」 「貴様には関係の無い事だ あの偽善者を、秀吉様の仇を、この手で、私が…!」 徳川という名を耳にするだけで、怒りと憎悪が沸々と湧き上がる 思わず腰の刀の柄を握り締め、何処にもいない敵を見据えるように虚空を睨めば、座したままのなまえが膝の上で固く拳を握り締めた 「行かないで、下さい」 「何だと…」 「行かないで…下さい 愚かな事を申し上げているのは重々承知致しております けれど、私は…私は、三成様の妻です 私は、未だ貴方様に妻として何も…」 「黙れ! 貴様に私の何が分かる! 貴様に私のこの傷が分かるか!! 秀吉様を失ったのだ、あの男が私の全てを奪っていった! 家康を殺す事以外に興味など無い」 ダンッ、と激しい音を立てて壁に打ち付けた拳は怒りに戦慄いていた 所詮、なまえは女だ ただ守られ着飾り、狭い世界の中で生きてきた女に、私のこの激情など理解出来る筈が無い 嘗てはその存在に心を揺るがされたという事実があったという事すら、狂気に取り憑かれた私には関係が無かった ただ、家康が憎い 私の中に渦巻く感情は怒りと憎悪と寂寞の思い そこになまえに対する微々たる愛情も慕情もなかった 足早になまえの横を通り過ぎ、自室を出て行こうとしたところで何かに身体の動きを妨げられた 振り返って見てみれば、なまえが立ち上がり私の腰に必死にしがみ付いていた 「お願いです、行かないで…」 「邪魔をするな、離せ!」 「嫌です、お願い…」 「離せと言っている!!」 身体に思い切り力を入れて振り払えば、しがみ付いていたその腕もあっけなく離れ、そのままの勢いでなまえは後方に倒れ込んだ 流石にその姿に何も感じなかった訳では無いが、なまえを倒れこませたという心の痛みなど、狂気に冒された私の心にとっては既に痛みですら無くなっていた 私は倒れこむ妻を放置してそのまま踵を返して歩き出そうとした、その時だった 「おねが…ゲホッ、コホッ、」 背後から聞こえたのは今にも消え入りそうな声を震わせ、咳き込む苦しそうな呼吸 その咳は、どこかで聞いた事があるものに良く似ている 生前の半兵衛様が、よく咳き込まれていた、その時の荒い呼吸 それよりはずっと弱弱しい咳ではあったが、間違いなく何か病んでいる事は確かだ 「三成様…」 私を呼ぶ声とも言えないような声を聞いたのはそれが最後だった 気付けば私は後方の妻を置いて、戦場へと赴く為に歩を進めていた 一度も振り返る事無く それが、必然的に前世の私となまえの最後のやり取りとなる事など、この時の私は考えもしなかった 正常な思考で考えれば、この時から既になまえがおかしかったのは明らかだ 秀吉様が討たれる以前からあまり城に戻らなかった私に一度も小言を言う事無く、なまえはただの一度も不満を言わなかった 子すら作ってやれなかったが、たとえ私が城に居ても夜には私の身体を気遣ってか夜這いするような事もしなかった ただ、ずっと私の陰となり生きていたなまえが、たった一度追い縋ったあの時 一度でも振り返っていれば、この咎を負う事はなかったのだろうか あの瞬間、全てを失っていた事に気付いたのは、己の生すら失ってからだった feign ignorance 知らぬ振りをしたのが全ての終わり |