雨の中帰り着いた大阪城
もうこの城に主が帰ってくることはないのだと思うと胸が引き裂かれるほどに苦しかった


「刑部、私は一刻も早くあの裏切り者を粛清しに行きたい」

「そう急くな三成
徳川は三河に戻って勢力を取り戻すつもりであろう
そこに今の我らが突撃したところで無駄死にするだけよ」

城に戻ってからは何かと苛立つ事が多かった
家康が裏切り秀吉様が討たれたと聞き、必要以上に城内が混乱していたのが最たる原因だ
秀吉様のご威光があったころには考えられない乱れ様
その上どこか人が少なくなった気さえする
恐らく豊臣を見限って出て行ったか或いは家康の元へ走ったかだろうが、どちらにしろ出来る事ならば今すぐ追いかけてその首を掻っ切ってやりたいものだ

その苛立ちを抑えて今後の方針を定める為に開かれた軍議の場に座した
軍議には刑部を中心にその他の重臣達が揃っている
斜め前方を見やればなまえも俯いたままだが静かに場に座していた

「ではどうするつもりだ」

「こちらも力を蓄えねばならぬ
噂を聞きつけた他軍が攻めて来るであろうし、背後を固めつつ勢力を増やして力をつける
…なまえ、主はどう思う」

「私は、」

俯いていたなまえが顔を上げる
それから普段では考えられない程小さな声で「それで構わない」とぽつりと呟いてまた俯いてしまった

軍議であってもいつも私がもう少し落ち着けと言わなければならない程馬鹿の様に明るく振舞うなまえにしては様子がおかしすぎる

…だが今はそれどころではない
刑部の言っている意味はよく分かる
確かに家康を討ちに行くとして、その邪魔になる者が現れるのは必至だろう
秀吉様の遺されたこの大坂城を他者に穢される訳にもいかない
そこまで理解していても尚心が逸る


「良いな、ではまず後ろの対策からだ
毛利に使者を送る…他の対応は明日になってみなければ分からぬか」

刑部がこれからの算段を一通り話して軍議は終った
ぞくぞくと部屋を出て行く重臣達の背を見ながら、家康を討つ、ただこれだけの簡単な事に思った以上の時間を費やす事になりそうな状況に舌打ちをする

「おい、なまえ」

「…何?」

出て行く重臣達の背とは比べものにならない程小さな女の背が視界に入り呼び止める
女はいつになく鋭い瞳をしている
そんな目は戦場以外で見たことがない、ましてや私に向けられた事など今まで一度もなかった

「貴様、家康と懇意にしていたな」

「そうだね」

「私を裏切るな、貴様が家康の元へ行くと言うのなら今此処で斬る」

なまえと家康は本当に仲が良かった
それはもう見ていて虫唾が走る程の馴れ合い

付き合いこそ私との方が遥かに長いが、先の様子から見ても仲の良かった家康の裏切りになまえが動揺しているのは一目瞭然だった


「…そんなこと一言も言ってないよ
さっきも言ったでしょう?裏切らないって」

「…ならばいい」

「三成、」

「何だ」

じっと私を見据えていた鋭い目が一瞬で以前と同じ柔らかいものに変わる
なまえは眉を下げて笑んだ

「私、三成とずっと一緒にいるよ
これはもうずっと前から決めてたの、何があっても私は三成の側にいる
ほかの誰が裏切っても、万人が三成に刃を向けても、私は三成の側にいるよ、だから…信じて」


目の前の女は誰よりも穏やかに笑んでいる
それなのに何故その声は懇願する様な、今にも泣き出しそうな声をしているのか

私には分からない、今まで一度だって他人を理解しようとした事などない
そんな馴れ合いを良しとする様な事は武士には必要ないと思っていた
だからか、今目の前にいる一人の女の感情すらひとつも読めない
何故そこまで私に尽くすと言いきれるのかも、何故私に信じてくれと懇願するのかも、何故そんなに穏やかに笑む事ができるのかも、何一つ分からなかった


「…誓え、」

「え?」

「決して無様に死ぬな
私が家康を殺すその時まで」

「それは…」

「誓え!」


分かっている
戦場に赴く者に「死ぬな」と言う事の愚かしさなど分かっているのだ
だが抑えられない

これから激戦の連続は免れないだろう、その場になまえを連れてゆく、私は恐らく戦場でなまえを気にかけることは出来ない、人を守る戦い方など知らない
死ぬかもしれないのだ、この女も
そう思うと怒りとも悲しみとも言えぬ熱が己の内から沸きあがってくる
この感情は何だ、何故こんなに苦しい

既にこの場には人一人居なくなっていた
外は雨が降っている
ざあざあと耳障りなその音と薄暗さの中でぼんやりと立っているなまえが不意に手を伸ばし、私の頬の側でピタリと止めた

「三成…失うのが怖いの?」

「っ、何を…」

「耐えなくていいよ、三成は自分に厳しすぎる
家康を憎む気持ちより秀吉様を失った悲しみの方が辛いでしょう?
辛い時ぐらい、誰かに頼っても…」

「貴様に…何が分かる!」

伸ばされていた腕を掴み睨み上げるが、なまえは少しも怯んだ様子なくただじっと私を見つめている

同情しているのでもない、哀れんでいるのでもない、蔑んでいるのでもない
その瞳には私の知らない感情が篭められている

何故かこの女の瞳を見ていると感情が揺らぐ
己の内に秘めていたものが全て見透かされている様だが、不思議と不快ではない
その代わりに内にあった感情が煽られる

その目に耐えれなくなり、私は掴んでいた腕をそのまま引き寄せた
半ばぶつかる様に私の身体に倒れ込んできたなまえは一瞬驚いたのか身じろぎしたが、逃さぬ様にとその華奢な体を両腕で掻き抱けば観念したのか大人しくなった


「秀吉様はっ…私にとっての全てだった…!
あの方の御役に立ち、あの方に認めて頂く事だけが私の生き甲斐…」

「…」

「何故、それを奪われなければならなかった!!
私が何をしたというのだ、何故だ!!」


言葉にすればする程加熱する怒りと焦燥感
抱き締めると言うよりは抱き殺すほど腕に力が入る
それでもなまえは何も言わず、身体の横に垂れていた両腕をそっと私の背中に回してあやす様に優しく宛がった

目から何か熱いものが込み上げて来る
それだけは流してたまるものかと、ぎり、と奥歯を激しく噛み合わせて耐えた


「これ以上家康に何かを奪わせるものか
秀吉様の遺したものを…秀吉様の遺臣であるお前もそうだ
だから私の許可なく死ぬな、絶対に…!」


失うのが怖い
そんな事はない
私の全ては秀吉様だったのだから、その秀吉様を失った今私を駆り立てるのは憎しみと仇討ちという義務感しかない
それ以外は何も残っていないのだ

なまえを縛り付けていた腕を離すと、なまえもそっと私の背中から手を離し、静かに距離を置いて私を見上げた


「うん、分かった
簡単には死なない…最期まで三成の側にいる」

「約束を違うなよ」

「分かってるってば
もう、そんなに怖い顔しないでよ」


へらりと気の抜けた笑顔は以前と変わらず、何故かその事に内心安堵している自分に気付いて胸が苦しくなった

「明日には西へ出陣だ、貴様も準備を怠るな」

「了解!」



再度笑んでからなまえはいつもと変わらぬ暢気な声で「ちゃんと休んでね、おやすみ」とだけ言い残して私の横を通りすぎて行った



とうとう誰も居なくなった空間に、雨音だけが虚しく響く

憎しみに身を焦がして
怒りに身を任せて
虚無の心に鞭を打って
自分がどんなになろうとも最後に家康を殺し、秀吉様に許しを乞う事ができればそれでいい


いい、筈だ


雨で気温の下がった室内は私の身体から著しく体温を奪っていく
自分の身体が冷たいと感じたことなど今まで一度も無かったと言うのに、先までこの手の中にあった暖かい体温が、私が本来どれだけ冷たい人間なのかを知らしめる


見上げた空に星は一つも輝かない
自分の心の内にある狂気の闇と、この夜空と、どちらが暗いのかをあの女なら知っているのだろうか








僕は君を抱き締めた
知らず、温度と光に縋る



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