「…三成、久しぶり」
およそ一月ぶりに顔を合わせた女は、記憶していたものより随分やつれた顔つきをしていた
「なまえを迎えに行ってくれぬか」
そう刑部に言われたのは昨日の事だった
家康との戦に向けて邪魔立てをしていた各地の領主達を撃破し、長曾我部や毛利を加えた西軍の編成がほぼ完成し、やっと家康と対峙する準備が整ったまさにその時だった
「何故、私が行かねばならんのだ」
「主が迎えに行くのが一番の良策だ
主が迎えに行く事で初めてなまえが許されたという暁になる
疑われたままの心境ではなまえも戦い辛いであろう」
「…」
「なまえを牢に入れてからも徳川の動きは変わらず…なまえもまた変わらずじっと耐えていた
内応はしていなかったと見て相違ないであろう?ならば嫌疑が晴れたと伝えてやらねば後々角が立つぞ」
「分かった、私が行けばいいのだろう」
どうも引きそうにない刑部に了解の意を示せば、刑部は満足そうに「主は物分りが良くて助かる」と笑んだ
どこか腑に落ちないまま、私は無言で刑部に背を向けなまえが居る地下牢へと向かった
地下へと続く階段を下りながら、何処かで何かを恐れている自分に気付いた
一体何を、と自問して辿り着いたのは遥か昔の記憶
私がまだ「佐吉」であった頃、なまえが豊臣にやって来た頃の記憶
初めて出会った時からなまえは他の小姓とはどこか違った
女であるということが第一にあるのだろうが、それ以上に何か異質なものをもっていた
誰に対しても媚びることなく接する、女だからと蔑まれても卑屈になることなく与えられた物や課せられた題に必死に取り組み、だからと言って感情を失うでもなく嬉しい事があれば笑い、何も無くても笑っている様な奴だった
それが分け隔てなく誰にでも、というところがおかしなところで
病を患って忌み嫌われていた当時の名で言えば慶松である刑部、他人との馴れ合いが嫌いだった私にまで向けられるのだからどうしようもない
あれは私達が出会ってどれ程経った時だっただろうか
何か欲しいものは無いのかと聞かれ、下らぬ事を、と突き放せばなまえは納得がいかないという顔をしたので、では貴様は何が欲しいのかと聞き返せば「幸せになりたい」と意外な言葉が呟かれた
普段の私なら間違いなくその呟きを鼻で笑ったが、隣で微笑む少女の横顔が、幸せになりたいという言葉とは裏腹に、どこか諦めた様な寂静を背負っていたから何も言えず、ただ黙ってその言葉の意味を考えた
おそらくなまえは他の普通の女子の様な幸せを手に入れることは出来ないだろう、それを本人自身が誰よりも理解している、理解した上でそれでもそれに「似た」幸せが欲しいのだろう
そう思った途端、目の前の少女の存在そのものに抱く感情が急激に変化した
憐れみでも蔑みでも同情でもない、何故かその虚無で寂静の存在が愛おしいと感じたのだ
そして私がなまえに対して他とは違う感情を抱いているとはっきり認識したのがあの蔵の事件だった
なまえの才能と処遇に嫉妬していた子飼いの小姓達と愚劣な大人達によって暗く狭い空間に閉じ込められたなまえの悲痛な泣き声が耳に入ると同時に身体は無意識に動いていた
蔵を取り囲む小姓達の中に飛び込んで行った時、私の中にあった感情は「なまえを助けたい」などという崇高なものでは無かった
ただ単に愚劣な人間に腹が立ったのだ
それ故に薄暗い蔵の中で泣いていたなまえが私に縋る様に泣き付いてきて、更には感謝の言葉まで述べた時には少し動揺した
なまえを助けたいという意志はなかった筈だ、だが結果的にはなまえを助けた事になり、先まで見苦しく泣きじゃくっていたなまえはもうすっかり泣き止んで私に笑顔を向けている
その状況が妙に歯痒かったのを鮮明に覚えている
何故なら、例えば泣き叫ぶ声がなまえでなければ私は蔵に向かう事もなければ関わろうとすらしなかっただろうと薄々気付いてしまったからだ
なまえが私の中で他の者とは違った特別な存在であると言う事は理解できた
だが、それが何故なのか、どう特別なのかは遂に理解できなかった
否、理解を拒んだというのが正しいかもしれん
それを理解してはいけない気がした、あの寂静の横顔を愛おしいなどと感じた己を、その愛おしいという感情を理解してはいけないと思った
そして私の中でなまえという存在は酷く曖昧なまま成長した
その結果が、これだ
私の中で酷く曖昧な存在であるなまえを心から信じられる事など出来る筈もなく、無罪の女を暗がりの牢に閉じ込めた
「出ろ、もう嫌疑は晴れた」
「そう…良かった」
刑部から預かった鍵で牢の錠を外すと、重量のある扉が鈍い音を立てて開いた
直ぐに出てくるものだと思っていたなまえは動く気配を見せず、じっと何処か遠くを見ている様な目をして座り込んでいる
「何をしている、行くぞ」
「決戦、なんだね」
決して大きな声ではなかったが、なまえのその言葉は無音の地下牢に妙に響いた
先まで虚空を見ていた目ははっきりと私を見据えており、その目は硝子玉の様に温度を感じさせない
「…そうだ、これで全てを終わらせる」
「全てを、終わらせる…」
今まで一度たりともこれ程感情のないなまえの目を見たことはない
その目がどうしようもなく私の心を乱す
何故あの時の様に笑わない、何故感謝しない、何故私に縋らない、そんな愚かな思いを抱いた己に反吐が出るほど嫌悪感を覚えたと同時にある結論が浮かび上がった
そうか、私はなまえを救いたかったのか
暗闇に放り込んだのは他の誰でもない私だと言うのに、何という愚かな考えだ
だが私は確かに心の何処かであの時の様に、なまえが笑うものだと思っていた
そして何事もなかったかの様に私の後ろをついて来て、私の後ろで戦うものだと信じていたのだ
「終わらせに、行こう」
そう言って立ち上がったなまえは、先までの硝子玉の様な目でなく今までと変わらない強い意志を持った目をしていた
「三成?行かないの?」
「、あぁ…」
茫然と立ち尽くしていた私をいつの間にか追い越して歩みを進めていたなまえは、振り返り際に微かに笑って見せた
だが、その笑顔を見ても私はあの時の様な歯痒さを覚える事はなかった
心の中にざわめく焦燥感が、曖昧だった私の中のなまえという存在の輪郭をはっきりと見せた気がしたからだ
だがそれを理解するのを私は必死に再び拒んだ
これから全てを終わらせに行く
そうすれば、いずれこの心情を理解できるだろうと己の中で無理矢理にこじつけた
あの時とは逆に私の前を歩くなまえの後姿がいつの間にか、刀を腰に提げることすら不安を感じさせるほどに細くなっている事にさえ、私は気付かぬふりをした
僕は君を救いたかった
ただ笑って、欲しかった