▼If you keep waiting to be happy, that's never going to happen

砂漠の太陽は黄色い
そう言っていたのはまだ幼いなまえだった。
そんな過去の記憶に思考を委ねながら、晴久は天守に近い自室から遥か彼方まで広がる砂の大地をぼんやりと眺めていた。

晴久が元就の下へ使者を出してから3日が経った。
この3日、戦後処理や石見の建て直し等に追われ晴久も中々に忙しかったが、思考はどうしても使者のこと、即ち元就の反応の事に向けられていた。
それは家臣から見ても歴然なほどで、心此処に在らずな晴久を心配し、見かねた家臣に遂に「殿はお休みになって下さいませ」とまで言われここに押し込められてしまったのだった。
詳細を知らない家臣達からすれば、この書状に対する毛利の反応を晴久が気にするのは無理もないと思うだろう。
何しろこれで毛利が停戦と融和を受け入れるか否かで、今後の尼子家の運命は大きく左右されるのだ。
勿論晴久にとってもそれが大きな問題ではあったが、それ以上になまえへの想いが強かった為に心が落ち着かなかったなどとは、家臣達の知る由はない。

なまえが黄色いと言っていた太陽を見上げながら、晴久は尼子の事ではなくなまえの事にばかり想いを寄せている自分に気付かない振りをした。
どんなに優秀な将であれ、鎧と肩書きを剥げば誰しも同じ人間である事に変わりは無い。

だがもしこれが祖父の経久であったならば、どうしただろうか?
そして元就ならばどうだろうか?
自分はこの二人に比べれば大将として劣るのだろうか、劣るとすればこういう「人間くさい」ところかもしれない、そこまで考えて晴久は急に何もかもが馬鹿馬鹿しく思えた。
偉大な祖父や強敵が自分と違い、女一人への想いなど塵にも等しいと思える人間であったとしたら、そんな人間と並ぼうとすること自体間違っていたのだ。
だが、それは敗北ではなく、むしろそう思えた事で今まで胸の中に凝っていたものが融けるような爽快感すら感じた。

(俺はどうあっても俺でしかねぇな)

国のことや、家の事に重きを置きはするが、どうしてもなまえ一人の存在がそのどちらよりも重く感じてしまう。
自分は祖父や元就のようにはなれない、だが、それでいい。

晴久が目を細めて太陽に向かって微笑したその時、慌しい足音が部屋の前で止まり、振り返れば家臣がやや取り乱した様子で居住まいを正しながら平伏していた。


「殿、使者が戻って参りました!」

「何だと!?早く此処へ通せ!」

「はっ、今此方へ」

「殿!只今戻り、」

「書状は!?毛利からの返答はどうだった!」

「此方にしかと納めて御座います」


挨拶を述べようとする使者の言葉すら耳を貸さずに詰め寄る晴久に、使者は慌てて懐から漆塗りの書簡を差し出し献上した。
随分急かした割に晴久はその書簡を目の前にすると、まるで玉手箱を開けるかの如く緊張に息を飲んでおずおずと酷く緩慢な動作で手を伸ばした。

ぱさりと音を立てて書を広げれば、まず書の内容如何以前に異常なまでに長い文章である事が分かった。
こんな緊張状態の中で思わず晴久も(これは読むのに何刻掛けりゃいいんだ)とやや途方に暮れた程である。

気を取り直して、今一度大きく息を吸い込み丁寧に書き綴られた文字を一字一句間違いなきようゆっくりと読み進めて行く。
使者が帰ってきたと聞きつけて駆けつけてきたらしい家臣達の背筋を伝う緊張の冷や汗を止めることができない程、この時のこの場の空気は張り詰めていた。


「この度の和解策、甘んじて受け入れるが双方にとって上策である事違いなし、従ってその方の案通り我が妹なまえを、尼子の、室…として…」

「!晴久様!!そ、それでは…!!」

「停戦で御座いますか!?」


書状を読む晴久の言葉に、家臣達がわっと喜びの声を上げる。
当の晴久は、同じ一文を何度も何度も読み返していた。

我が妹なまえを尼子の室として迎えられよ

その一文が示すのは無論尼子と毛利の和解であったが、晴久にとっては何よりも信じ難く、何よりも聞きたかった言葉であっただけに本当に間違いがないかどうか長い書の隅から隅までを目を凝らして読む必要があったのだ。

半日掛るかと思うほどの長さだった書状も、今の晴久に掛れば半刻も要さなかった。
全ての文言を読み終わると、晴久は突然俯いた。
晴久が書状を熱読する様をただじっと見守っていた家臣達も此れには何事かと驚き、声を掛けようとしたが、その瞬間ピンと張っていた緊張の糸をぷつりと切るように晴久が声を上げて笑い始めたものだからその場にいた全員呆気に取られてしまった。


「と、殿…?如何なされましたか?」

「ん?あぁ悪い、いや毛利の野郎も所詮人の子だと思ってな」

「…はぁ?」

「いや、何でもねぇ
それよりお前ら喜べ!戦は暫く止めだ!」

「おお!では毛利との和解には成功なさったのですね!」

「あぁ、しかし悪いがお前らにはもう暫く働いてもらう事になりそうだ」


一通り笑い終わってから家臣達に向けられた晴久の表情は、ここ数年の苦悩の日々からは想像もつかない程晴れやかな青年の顔付きになっていた。

家臣達はそれに安堵しながらも、戦は止めだというのにまだ暫く働くことになりそうだという晴久の言葉に疑問符を浮かべたが、晴久は直ぐに「いや、大層な事じゃねぇが」とやや照れを浮かべながら頬を指先で掻いた。


「毛利から嫁を迎える事になった、その支度を頼む」

「毛利から…という事はなまえ姫で御座いますか!」

「あぁ、お前らも覚えてたか」

「それはもう!あの愛らしい姫君が晴久様の下に嫁いで下さればと、殿が幼少の頃には皆密かに…っ!」


晴久からなまえの名前が出て思わず反応した老齢の家臣は、まるで昔日の幼い晴久達を懐かしむように熱くそう語ったあと、自分の失言に気付いて慌てて口を塞いで平伏した。
晴久の知らなかった裏事情に、当の晴久も面食らったように驚きはしたが決して悪い気はしない。
穏やかな笑みを浮かべて「そうか」とだけ言った後、改めて家臣達を見渡し、息を吸い込んで声を張り上げた。


「戦は一先ず休戦だ!
だが毛利から姫が嫁いでくる、今日からはこの婚姻に尼子の威信を掛けて皆よく働いてくれ!」

「はっ!!」


晴久の自室前に控えていた家臣達は、今までのどの戦の時の返答よりも力強く答え、祝福の言葉を其々に残して早速仕事に取り掛かる為にその場を後にした。
そして残された晴久は、ふと、喜びの感情から一転して冷静になまえの事を考えた。

(なまえは、何を思って俺の所に来るのか…)

あの月夜の晩、川辺で会った時になまえの想いは確かめた。
だが、この婚姻はあくまで尼子と毛利の政略結婚だ。
勿論その当人である晴久となまえの想いが通じ合っているのだから何の問題も無いように思えるが、結果としてなまえを国同士の策謀の一端に使った事に変わりは無い。
この時代、大名の娘の婚姻とはこうした形式が主流であったとは言え、想いが通じ合っていたからこそ、この展開をなまえがどう思うか、というところを晴久は疑問に思った。

思案しながら視線を落とすと、手に毛利からの書状を掴んだままだったことを思い出し、それを再び広げてみた。
そこには晴久となまえの婚姻の許可、今後の和議についてと共に、元就の書く文章としてはあまり事務的とは言えないようなものまで記されていた。
それをもう一度読んで、晴久は盛大に苦笑した。
自分と言い、元就と言い、なまえは厄介な男に愛され易いらしい。
そう言えば祖父の経久もなまえを気に入っていたか、と思い出して今度は控えめに声を立てて笑った。

(まぁ、なまえの事はなまえに聞くしかねぇな…それにしても、)

案ずるより生むが易し
ここまで来たのだから今更ぐちぐちと悩む必要などない。
むしろ今晴久が悩むべきは、

「この小姑は厄介すぎんだろ」




書状につらつらと書き連ねられたなまえが尼子へ嫁ぐ際の留意点や、もしなまえに万が一の事があったらという脅し文句の数々。
長い長い書状の大半がその事について書かれていたのが「毛利も所詮人の子」と晴久に言わしめた原因だった。