▼turn the potential disaster to one's advantage


安芸に帰ったなまえは、元就の側から離れないようにきつく言い含められていた。
尤も、あの石見での行動は特別なもので、安芸に帰ってまで城から出て行くような危険な事をするつもりは毛頭なかったが、気の立っている元就に反論するのが如何に愚かな事であるかを良く知っているなまえは、言われた通りにしていた。

元就は、只管に気が立っていた。
安芸に戻ってからも石見の後処理や、瀬戸内で暴れている愚か者の対処に追われ、挙句東の近畿では豊臣が中国征伐へ動き出している為その対応にも当たらなければならない。
多忙であるのは元就の常であったが、それに加えて一枚の書状が何より元就の眉間の皺を一層深くしていた。


「なまえ、話がある。
此方へ来よ」

「はい」


元就に呼ばれ、なまえは静かにその側へ寄り座を正した。
元就は、真っ直ぐななまえの視線を一度自らの両目で見定めるように見つめた後、文机の上に置かれた一枚の書状にゆっくりと視線を落とした。


「そなた、今の毛利の状況をどう思う」

「…毛利の状況、とは?」

「とぼけるでない、そなたも知っているであろう。
今後の毛利家の安泰の為にはどうするのが最も正しい道だとそなたは思うか」

「私が…で御座いますか」


なまえは驚きを隠せなかった。
今までその身一身に毛利家の重圧と責任を背負って生きてきた兄が、軍師でも何でもない只の妹の意見を聞こうとするなど、今までならば考えられなかった事だ。

今度は逆になまえが元就の真意を窺うように、じっとその端正な横顔を見つめ、一度目を瞑り思案してから瞼を上げた。


「今、東からは豊臣、瀬戸内を跨いで南から長曾我部、中国北西部に尼子と毛利はあらゆる方面から狙われていると聞いております」

「うむ」

「豊臣の勢いは凄まじいものだと窺っておりますし、長曾我部もまた新しい兵器を開発したとか…外部からの圧力が強くなってきている以上、内部での争いは避けた方が良いのではと思います」

「…」

「……私ならば、何らかの形で尼子と停戦、もしくは融和策を取り、外部からの圧力に耐えうる軍力と政治の余裕を持たせます」


なまえが言い終えると、二人が佇む空間は一気に静寂に包まれた。

元就は何も言わず目を閉じている。
なまえは、ただ元就の反応を待ちながらも胸の鼓動が激しく打つのを抑えられずにいた

(お兄様は、一体何をお考えなのかしら)

なまえにはそれだけが分からない。
重役を務める家臣にさえそうそうの事が無い限り相談と言った相談を持ちかけない元就が、この局面にてなまえに求めた意見とは一体何だったのか、一体何の意味を持つのか、そればかりがなまえにとって気がかりであった。

やがて、元就が目を開いた。


「なまえ、この書状は尼子からの物だ」

「尼子…晴久様からの…?」


元就は文机の上に置かれていた書状を手に取ると、すっとなまえにそれを差し出した。
なまえは一呼吸置いてからその書状を受け取り、慎重に開いていく。

はらりと几帳面に折り畳まれた書状が開かれ、なまえがゆっくりとそれに目を通すうちに、なまえは目を見開いて驚いた。
然程長くない書状を全て読み終えると、なまえは元就を見上げ「お兄様…!」と小さな悲鳴を漏らした。


「読んだか」

「お兄様…これは…」

「見ての通りだ
そなたを尼子の嫁にして、行く行くは停戦、融和という流れにしたいらしい」

「…それで、これのお返事は…」

「未だ書いておらぬ」


あまりの驚きに興奮と動機が抑えられないなまえに対し、元就はやや憂鬱そうな顔で文机に肘をついて窓の外を眺めていた。

晴久は、勝負に出た。
今四方八方から悉く狙われている元就の領地。
それを無傷で守り通すのはさすがの元就でも至難の技である。
特に豊臣の勢力は最早脅威と言って過言でないが、東から迫り来る豊臣に全力を尽くせば何とか抑えられる範疇だが、その隙に中国西部を押さえている尼子に背後を突かれる事が明白である以上、それは叶わない。

そこで晴久は敢えて融和策を打ち出した。
今劣勢にある尼子に元就の実妹であるなまえを嫁に寄越せば、背後を突いて毛利を落とす様な事はしない、という事だ。
更に晴久は、なまえを嫁に貰えれば豊臣や長曾我部と組む事はしない、とも付け加えた。

これは云わば元就にとっては願っても無い良策である。
むしろ元就の方からこの案を尼子に打ち出しても良かった程だ。
しかし元就はしなかった。


「…なまえ、」

「はい」


視線は窓の外に向けられたままだが、元就の声は真っ直ぐになまえの胸を射抜く。
元就とは昔から、そういう風に言葉に力を込める力を持っている人なのである。


「我は、『毛利』を守る為ならば何事も厭わぬ」

「…」

「…どれだけの犠牲を出しても、どれだけのものを失っても、誰に何と言われようとも、だ」


まるで自分に言い聞かせているようだとなまえは思った。
事実、恐らく元就はそれを言い聞かせてきたのだろう、それを理解していたからこそなまえは元就を慕い続けてきたし、家臣達も元就を信じて着いて来ているのだ。


「だが、今、我はそなたを切り捨てることが出来ぬ」

「お兄様…」

「尼子がどういった心情でこの書状を出してきたかは知らぬ、あの愚か者の事だ。
しかしどういった心情があろうとも、敵地に嫁ぐというのは人質と変わらぬ、そうなれば…我は、そなたを殺しかねない」

「それは…」

「尼子との関係が今後良好に続く保障などありはせぬ、いざ戦になった時、晴久がそなたを殺すやも知れぬし、我が攻め落とせばそなたが命を落とす事もあろう。
…我は、そなたを殺したくはない」


いつの間にか元就の表情は苦悶の色に変わっていた。
家族というものに恵まれなかった元就にとって、なまえは唯一の家族であり唯一、絶対的信頼の置ける存在である。

しかし何もかもを切り捨てる自信のあった元就にとって、なまえだけが切り捨てられないというのは、何とも苦しい事だった。
殺したくは無い、もう家族を失いたくは無い、だが毛利を守る為には…


「…有り難う御座います、お兄様」

「なまえ…」


眉間に深い皺を刻み俯く元就の膝の上に置かれた、固く結ばれた両手にそっとなまえの小さな手が重ねられていた。
驚き顔を上げた元就の目には、見た事も無い程美しく微笑する妹が映った。


「私は、毛利の人間で、お兄様の妹で御座います。
…そして、同時に尼子家の当主である晴久様をお慕いしております」

「…」

「そんな私が、晴久様の妻となれる上に、大好きなお兄様や毛利のお役に立てるとなればそれは我が幸福以上の何物でもありませぬ」

「しかし、」

「もしもの時は、その時考えます」

「その時、だと…?」

「それに、」

言いかけ元就を制して、なまえは先ほどとは打って変わって幼子のような悪戯な笑みを浮かべた。

「簡単には死にません、お兄様の妹ですもの」

「………全く、そなたという者は…」


けろりと笑って見せたなまえの笑顔に、元就は脱力したように目元を緩めた。

元就は、晴久がなまえを好いている事も、なまえが晴久を好いている事もとうの昔から知っていた、むしろ二人よりも先にその感情に気付いていたかも知れない。
故にこの話もそう悪くはないと思いはしたが、どうしても元就の中で、過去に両親や兄妹を失った記憶が思い出されては苦悩の種となっていた。

だが不思議となまえの笑顔と暢気とも言える言葉で、元就は安心…とまではいかないが深く考え悩んでいたのが馬鹿らしくなっていた。

(まぁ、もしアレが不穏な事を仕出かせばなまえを連れ出せば良いだけの事だ)

と思い直す事が出来たからである。
元就の頭の中では既に新しい策を講じ始めている。
不穏、とまで行かずとも晴久がなまえに少しでも粗相を働けば実行されるであろうなまえ守護計画を練る事だ。


「お兄様、」

「何だ」

「私、お兄様の妹で本当に幸せに御座います」

「…フン、当然だ」


なまえはとうの昔から知っていた。
元就は照れるとそっぽを向いて拗ねたような態度を取るが、代わりに耳朶が馬鹿正直な程真っ赤になることを。


数年の間、乱世の苦しみに耐え続けてきた兄妹の間から遠ざかっていた暖かい空気が、西から吹く風と共に戻ってきていた。







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