▼turn the potential disaster to one's advantage 霧深い山並みの端から光が漏れて、やがてその光が闇を切り裂くように広がっていく。 そんな光景を見て初めて、なまえは朝になったのだと気付いた。 「誰か、」 「はい、お呼びでしょうか」 部屋の窓枠に凭れかかって外を眺めていたなまえが、鈴も使わず小さな声で呼べば直ぐに侍女の返事が聞こえた。 ずっとそこに居たのか、今しがたやって来たのか分からないが、毛利家中の人間は皆この姫に神経を研ぎ澄ませて接していたのだろう。 「お兄様は、まだ石見に居られるのでしょうか」 「えぇ、恐らくは…」 「そう、じゃあ今日もきっと戦ね」 「姫様…?」 ここのところ、否この数年すっかり生気を失っていたなまえが、どこか弾んだ声でそう言うものだから、侍女は半ば驚き、半ば訝しみながら未だ窓の外に向けられているなまえの表情を窺おうとそっと覗き込んだ。 するとなまえの表情は朝日を浴びている為か何の為か、ここ数年見られなかった明るさを取り戻していたものだから、侍女は思わず息を飲んだ。 「姫様…何か御座いましたか?」 「そう見える?」 「えぇ…まるで昨日とはお人が違うように見えまする」 ゆっくり侍女を振り返ったなまえは、その顔に薄っすらと笑みを湛えながらすっと目を細めた。 「そうね、昨日までの私はただ我が儘に世の中の理不尽と自分の不幸を嘆くことしか出来なかったの。 でも、今は違う。 例えどんな結末になろうともそれを受け入れようと思えるの」 「結末…で御座いますか」 「そう、それより頼みたい事があるのだけど」 「何で御座いましょう?」 侍女にはなまえの言わんとする事の真意が図りきれない。 しかしその表情や声音から、あの病的なまでに心を擦り減らしていたなまえが何らかの形で救われたのだという事は察することが出来た。 「私を石見に連れて行って」 「えっ」 なまえの心の回復に安堵していたのも束の間、侍女はなまえの口から飛び出た発言に思わず驚嘆の声を漏らしてなまえを凝視してしまった。 当のなまえは真剣な面立ちで侍女を見つめている。 どうやら聞き違いや冗談ではないらしい。 言い出したら引かないやや頑固なところは、なまえも兄の元就に似ている。 その事を思い出して、侍女は困惑に顔を歪めた。 ・・・・・・・・・・ 「今の所御当家に有利に動いております」 「…あれが、毛利の本陣?」 「姫様、あまり乗り出されては危のう御座います!」 石見では既に戦が始まっていた。 当主である元就の許可なしに戦場になまえを連れて行くという頼み事は流石に聞き入れかねる、となまえの警護に宛てられていた兵士達は口々に言った。 しかしなまえの気持ちはどうあっても揺るがないらしく、「姫の頼み事」は「姫の下知」と変化して、遂にはなまえ本人がこの現場で最も権力のある家臣に直談判して、漸く「戦場を見渡せる小山なら」というところまで漕ぎ付けた。 毛利の家臣や兵達にとって、毛利家の威厳というものは隅々まで行き渡っているものであったから、主家の姫の下知であれば自分の身に降りかかりかねないあらゆる危険を冒してでも聞き入れてしまうようになっていた。 その上なまえは兄の元就とは正反対に、人懐こく嘗ては誰にでも笑顔を向ける愛らしい姫君であった。 それ故にここ数年のなまえの心の病は家臣一同案ずるところであった為、なまえ自らの必死の願いならば、という思いもあったに違いない。 そして兵士達に厳重に警護されながらなまえが石見の小山に着いた時、既に眼下では粉塵を上げて尼子と毛利が戦を始めていた。 なまえが木陰からそれを見遣ると、側付きの家臣が戦況をそっと説明し出した。 「数でも勢力でも御当家が圧倒的に有利で御座います」 「…そうですか」 「しかしあの尼子の事で御座います故、何を仕出かしてくるやら… 昨日の撤退もあります故尼子は死力を尽くして来るでしょう」 「尼子の本陣は?」 毛利の本陣は、なまえ達の眼下すぐに見える。 しかし尼子の本陣らしきものはどれだけ目を凝らしても見えない。 なまえとしては兄や家の安否は勿論心配であったが、正直この戦に負けたところで兄や家に大きな損害は無いと思っていた。 この戦は毛利と同盟を組んだ家の元領地である石見を奪還する為の戦であり、戦況が不利になったところで毛利はそれほど大きな物を失うことはない。 むしろこの戦に命運が懸かっているのは尼子の方である。 (晴久様に、万が一の事が御座いませんように) なまえはそう祈りながら石見までの道のりを辿ってきた。 どんな結末であれ受け止めるとは言ったが、晴久を失いたくないという気持ちは何にも変え難いものであった。 「それが…尼子の本陣は未だに見つかっていないのです」 「本陣が?」 思いもしなかった言葉に驚き振り返れば、家臣はやや苦い表情を浮かべていた。 「そもそもこの戦自体、毛利の陣に尼子の兵が突入してきたというところから始まりましたもので…。 近所に幾つかの陣は見つかったようですが、尼子晴久の姿は何処にも確認されていないようです」 「それは…」 「大将の命の危険を回避する為に先に逃したのやもしれませぬが、皆は何か企んでいるのではと、警戒しております」 今となっては毛利の勢力ばかりが目立つようになったが、その実晴久も戦術家としてはかなり腕の立つ方である。 元就も晴久も、晴久の祖父である経久の影響を受けたものと思われるが、戦術に詳しくないなまえでも今のこの状況が如何に不気味であるかを理解することが出来た。 (お兄様、晴久様、どうか、どうか…) 「!あ、あれは!!まさか尼子の…奇襲かっ!?」 「えっ、何ですって?!」 頭上に輝く日輪に祈りを捧げていると、不意に向いの山から恐ろしい程の地響きが聞こえ、やがて目にも鮮やかな戦装束を身に纏った尼子の軍勢がどっと山を駆け下りた。 向いの山は、勾配の急な崖とも言える斜面である。 その崖を、尼子の軍勢が馬を巧みに使って駆け下りていくのである。 毛利軍も、さすがにこの崖を敵が駆け下りて来ようとは思っていなかったらしく、規則正しい陣形を保っていた兵達は一瞬にして散り散りになっていった。 「!あ、あれは…晴久様!?」 崖を下った軍勢のほぼ先頭に見えた人影に、なまえは思わず声を上げて身を乗り出してしまったが、周りの者達はそれにすら気付かないほど眼下の戦況に気を取られていた。 間違いない、なまえはそう思った。 本城のある月山では隠れたり逃げたりする戦術を得意としている晴久だが、兵達を置いて自分だけ逃げ帰るなんて事は決してしない、そう思っていた。 なまえの場所からでは、人など蟻ほどの大きさにも見えないが、それでもなまえは乱戦の中でその一人を見つめ続けた。 そして時を同じくして、なまえの眼下にある毛利本陣では慌てふためく家臣を尻目に、元就派何食わぬ顔で戦況をじっと見据えていた。 「一の谷の逆落としか…フン、アレにしては考えたものよ」 「元就様!このままでは此処まで戦火が及びます!」 「兵の立て直しはならぬか…仕方あるまい、退け。 撤退の命を各陣に触れ回れ」 「はっ!」 使いが走り去っていくのを見届けると、元就はゆっくりと立ち上がり陣を引き払わせて馬に乗った。 ここで無理をして戦力を削るなど愚かな事は最初から元就の計算の中にはない。 むしろここで尼子が死力を尽くして何らかの手を打ってくるだろうという事は分かっていた、それだけに晴久の奇襲で戦場が入り乱れた時でも元就は少しも動じなかったのだ。 馬の背に揺られながら元就は、嘗て源氏が平氏を敗走させた一の谷の戦いを思い出していた。 創作だとも言われている無理に等しい事をやってのけるとは、晴久は元就が思っていた以上に智勇があったのか、それとも逆に愚かであったのか、とそんな事を考えていると、背後から急使の声が高々と聞こえ、元就はゆっくりと馬の足を止めた。 「元就様!たった今知らせが入りまして…」 「何ぞ、」 「はっ、一つは瀬戸内で長曾我部軍との衝突が始まったとの事で…もう一つは、妹君であらせられるなまえ様が、裏手の小山にお越しになっているそうで…」 「何だと!?」 この日戦中でも上げなかった大声を上げてしまうほど、元就は動揺した。 長曾我部の件ではなく主になまえの事に、だが。 「…近習の者達は何をしていたのだ…! このままなまえの居場所へ案内せよ、そのまま安芸へ帰る」 「長曾我部の件は如何致しましょう」 「放っておけ、水軍には充分な備えをさせてある 一日や二日では落ちるまい」 なまえの事になると感情的な部分が露骨に見える元就だが、長曾我部の事に関しては実に事務的に…むしろ今はそれどころではないから勝手にやっていろと言わんばかりの態度を見せた。 これには側で見ていた家臣達も内心苦笑せざるを得ない。 氷の面と謳われるこの当主の心を最も動かすのが、その実の妹であるというのは、何とも矛盾したことだと思わざるを得ない…が、むしろ家臣達にとってはそれが元就の良いところだとも思えた。 (我が主もやはり人であられる) 皆そう思い安堵するのだった。 → |