▼They advanced their convictions

「くそっ…!」


焦れば焦るほど、思い通りにはいかなくなる。
そう分かっていながらも、どうしても焦ってしまうのは己が未熟故なのか、それとも…

戦況は、好ましくない
自城のある砂地での合戦ならまだしも、この山深い石見の土地に於いては、この地を長く治めてきた大内氏を含む毛利軍が圧倒的優位に立っている。
そんな事は開戦する前から分かっていた。
だからこそ、万全の策を立て、急く心を抑え付けて準備にも長い時間を費やした。

その結果がこれか
晴久は奥歯を強く噛み締めた。
尼子軍は大将である晴久も陣頭指揮を執らねばならない程追い詰められている、しかし毛利軍は本陣すら窺うことができない。


(ツラくらい拝ませやがれ…っ)

幼少の頃から晴久の前で元就がその冷静な表情を崩したことなど一度もなかった。
元就の方がいくらか年上であるという事実を差し引いても、元就は晴久に対していつもいつも高圧的で、必要以上に冷たかった。
自尊心の強い晴久は、いつかその面を歪ませてやりたいといつも思っていた。

だが現状はこれだ。
苦しさに顔を歪ませているのは自分自身で、当の元就はその影すら見えない。


「晴久様っ!戦況は既に毛利方に大きく傾いております。
恐れながらここは一度撤退した方が得策かと…!」

「んなこたぁ分かってる!」


分かっている。
これ以上ここで戦を続けても何も得られないということぐらい。

晴久は智将として名高い祖父の経久や敵対する元就と比べられることが多いが、決して愚鈍な将ではない。
ここ数年の毛利の猛攻から領土を守り抜いているのも、信頼のおける家臣が付いて来ているのも、一重に晴久の手腕故のことである。
だから、ここでこれ以上いたずらに犠牲を増やし続ける戦を続けるつもりなど、毛頭ない。

だが、ここで退けば…

遠ざかる記憶
ここで退けば、尼子は事実上毛利に対して劣勢を取ることになる。
そうなればこちらから融和策を打ち出すことなどほぼ不可能になる。
なまえが、遠ざかるのだ。


「…っ…!全軍、撤退だ!退路を拓け!」


晴久の怒号を発端に、乱戦を繰り広げていた兵達が一気に撤退の動きを見せた。
晴久は愚将ではない。
自分個人の想いの為にこれ以上の犠牲を強いることなど出来ないのだ。

戦闘態勢に入っていた側近達が晴久の側に戻り、その周囲を取り囲んで撤退を始めた。
悔しい、どうしようもない程悔しくて苦しい。
胸を掻き毟りたくなるような強い焦燥感に駆られる中、晴久は湿度の高い山の中へ退路を拓く為に黙々と馬を進めた。




「少し一人にしてくれ」

「しかし晴久様…」

「大丈夫だ、ちょっと気晴らしに行ってくるだけだ」


心配そうな顔で止める部下の顔もろくに見ずに、晴久は馬の背に飛び乗った。

石見からの撤退は驚く程すんなりと上手く行った。
何かの罠かとも思われたがそうでもないらしい。
尼子軍は石見から東に外れた山村近くに臨時の宿陣を立て、そこで一晩を明かした後に安来の月山まで戻る事にした。

しかし晴久はどうしてもこのままここで大人しく一晩を過ごせる気がしなかった。
また夢を見る気がした。
この敗戦で遠ざかってしまったなまえとの過去の夢を。


樹木の枝が折り重なるように鬱蒼と伸びる山道をひたすら単騎で駆ける。
目的なんて無かった。
頬を撫でる冷たい夜風が、蒸発しそうなほど熱く煮え滾った心を少し冷静にする。
その感覚だけが自分を正気に返させている気がした、そうでも思わなければこのまま安芸まで行って毛利に突撃してしまいそうな程だった。


「あれは川…か」


心の漣も静まって来た頃、ふと脇道に目をやれば小さな川が僅かな月明かりを反射していた。
馬を少し休ませてやろう、晴久はそう思い馬から降りて、馬を水辺に寄せられるような川岸を探しながら歩いた。


「あぁ、この辺りなら……あれは…女、か…?」


少し歩けば、白い川砂利の積もった開けた川岸が目に入った、と同時にその川岸に浅黄色の着物姿の女らしき人影がぽつんと佇んでいる。
こんな山中で夜更けに女一人、まるで怪談のようだと不審がりながらも晴久は静かに少しずつその人影に近づいた。


「っ!?ま、まさか…」


異変に気付いたのは、女まであと数十歩という距離まで近づいた時だった。
川に反射する月明かりに照らされた女の顔が見えた瞬間、晴久は思わず息を飲んだ。


「なまえ…?」


数年前のまだ少女だった頃の面影を残したままの、どこか儚げに脆い人形のような影を湛えた横顔を見た瞬間、気付けば名を呼んでいた。

声に気付いたのか、女は恐る恐る晴久の方を振り返る。
しっかり正面から見えた女は、間違いなくずっと心の中で求め続けていた女、なまえだった。


「は、晴久…さ…ま…?」

「なまえ、なまえなんだな?!」


晴久と目が合った瞬間絶句しながらも、しっかりと晴久の名を呟いたなまえの声で、晴久はこれが自分の願望が見せる虚実ではなく、現実なんだとようやく認識できた。

手綱から手を離してなまえに駆け寄り近づけば、なまえは信じられないという顔をしながらも逃げずに大きな目を見開いたまま晴久をじっと見つめる。
まるでその存在を確かめるように晴久はなまえの白い頬を両手で包み、滑らかな皮膚の感触と体温を感じながら指先をそっと動かした。


「なまえ…なまえなんだな…?」

「晴久様…どうして、ここにっ…!」

「…っ!!」


会いたかったとか、何でお前がこんなところに、とか言うべき事はたくさんあったが、感情が昂ぶって声にならず、そのまま強く抱き締めた。
最初は少し途惑った様子だったなまえも、晴久の背に腕を回し、細い腕で晴久にしがみついた。

そのまま、どれ程時間が経ったのか。
恐らく数分の事だっただろうが、まるで数時間そうしていたように感じる。
感情が少し落ち着いたのか、晴久はなまえを抱き締める腕をそっと緩めて、なまえの顔を覗き込んだ。


「こんな所でお前に会えるなんて、まるで夢のようだ」

「私も…幻かと思いました」

「なまえ…お前、何でこんなところに一人で居るんだ?」

「私は…近頃少し体調が奮わなかったので、三瓶温泉に湯治に来ていたのです」

「三瓶温泉…」


晴久同様なまえも落ち着いた様子で、少し小さな声だがしっかりとそう答えた。

三瓶温泉と言えば、石見銀山から東に上ったところにある。
晴久の宿陣も石見銀山から東の場所へ取った為に、温泉街へ近づいたのだろうが、それにしてもここは温泉宿がある場所からは離れすぎている、増して女一人で歩いて来れる範囲ではない。
そう思って辺りを見回すと、手綱を放されても大人しく川辺で水を飲んでいる晴久の馬のすぐ近くに、もう一頭馬が繋がれているのが見えた。


「それにしたってお前…女一人でこんな山奥に、」

「…どうしても、一人になりたくて…今日は月が綺麗だったので」


そう言われて空を見上げれば、満月ではないが確かに大きな月が暗闇の中にぽっかりと浮き出ていた。

まだ尼子と毛利が敵対していなかった頃、三人でよく月を眺めた。
特に理由は無かった、月を眺めている間考えていたことも恐らく皆バラバラだっただろう。
なまえはきっと、静かに同じ空を見上げていたあの頃を懐かしんで木の枝が邪魔にならない拓けた川辺まで来たのだろう。


「晴久様は、どうしてここに…?」

「…お前、知らないのか
今日の昼間、石見で毛利と戦ってたんだが、撤退する羽目になってな…ここから少し西に入った村に宿陣を敷いてる」

「お兄様と…」


なまえはやはり何も知らなかった様子で、複雑そうな表情で悲しげに俯いた。
恐らく晴久と元就が戦っているのだという事実を目の前にして、しかも毛利家の敵である晴久を目の前に、どう反応すればよいのか迷っているのだろう。

一方晴久は別な事を考えていた。
石見銀山で戦い、ここへ撤退してくるまで毛利軍が深追いしてこなかった理由が分かった。
東へ退路を取った尼子軍を深追いし、道々で戦闘を繰り広げれば、なまえが滞在している三瓶へも戦火が広がったかもしれない。
だが毛利軍が追跡しなければ、尼子軍は夜になる前にたどり着ける範囲で宿陣を取り、そのまま安来へ向かだろうと判断したのだ。

相変わらず食えねぇ奴だ。
まるで元就の思惑通りに動かされている自分が、歯痒くて仕方ない。
元就の方が年上とは言え、国を統率する国主である事に変わりは無い。
もし、これが祖父の経久ならば元就の思惑通りに動かされたりはしなかったのだろう、きっと元就以上に策を巡らせ不意を突いて攻め込むくらいの事はしたかも知れない。

どう足掻いても自分は元就に勝てない。
しかしそれでは駄目だ、何も守れない、得られない。
心の中で悔しさを噛み締めていると、不意になまえが晴久の羽織の胸元をきゅっと掴んだ。


「晴久様…」

「どうした?」

「私は、晴久様にずっと、ずっと会いたくて…
お兄様に晴久様の事は忘れろと言われても忘れられなくて、ずっと、苦しくて…っ」


羽織を掴むなまえの小さな手が僅かに震える。
それを見て、晴久は自分達が相思相愛であったことを知った。

以前から想いあっているという自信はあったが、毛利と尼子が今のようになってしまってから、なまえが自分をどう想っているかについては多少不安になることもった。
なまえは元就を大切に思っていたし、元就以外の家族を全て失っていたなまえにとって、唯一の家族を殺しかねない晴久の存在が心の中でどのように変化しても不思議ではないと思っていたからだ。

(あぁ、何で上手くいかねぇんだろうな)
敵対しても想い合っているのに、生まれた家の事情でこれ程辛い想いをしなければならない。
手を伸ばせば届く筈なのに、その手に刃物を握る事を強要されるのだ。

そこまで考えて、ふと晴久はある一つの考えを思いついた。
(このままなまえを連れ去ってやろうか)
もしこの後なまえが毛利に帰り、晴久も自陣へ戻ったりする事になれば、この出会いが今生の別れになりかねない。
想い合っていることを確かめたばかりだというのに、そんな展開は御免だ。


「なぁ…なまえ、」

「…はい」

「俺がこのまま…お前を連れ去りたいって言ったらお前はどうする?」


卑怯な質問だ
自分で尋ねておきながら晴久はそう思った。

晴久自身もこの恋で辛い思いをしたとは言え、恐らく一番心痛止まなかったのはなまえだ。
兄である元就の事も、敵方となった晴久の事も大切に思っているなまえにとって、この板ばさみな現状の辛さは想像するに難くない。

そこにあたかも自分か元就を選べと言わんばかりの質問を投げかけたのだ、卑怯以外の何ものでもない。
晴久に連れて行かれれば、兄の元就を裏切ることになり、兄の下へ帰ればもう二度と晴久には会えないかもしれない。
だが思いの外なまえは落ち着いた表情でじっと晴久を見上げ、澄んだ瞳に月光を反射させながら静かに口を開いた。


「私は、毛利の人間です…お兄様が何よりも大事です」

「…」

「でも、私はどうしても晴久様への気持ちを捨て切れません
だからもしどちらかを選ばなければならない状況になったら…」

「…」

「どちらも、選びません」


あまりに意外な言葉に、晴久は思わず瞠目した。


「お兄様の邪魔になる事も、晴久様への想いを断ち切ることも、私にはできません。
だから、そうなるくらいならいっそ俗世を捨てて尼にでもなります…」

「…それが、お前の決意か」


なまえは静かに頷いた。
晴久の心が再び揺らぐ。

このままなまえを連れて帰りたい、その気持ちに嘘は無い。
なまえが嫌だと泣いても暴れても、自分の欲望のままになまえを連れ去ろうとも思った。

しかしなまえは思ったよりも冷静だ。
ただ無邪気で幼かったあの頃からは想像もつかない程、大人になった。
そのなまえの姿勢を見て、晴久は思いを改めざるを得なかった。

なまえをこのまま連れ帰ったとして、晴久は満足だ。
何故なら恋い慕う「なまえ」が側に居るのだから。
しかし尼子家に連れ帰ればなまえはなまえではなく「毛利の姫」になる。
当然人質として扱われるだろうし、もしかすれば殺せという意見が出てくるかもしれない。
それでは誰も幸せになどなれない、晴久もなまえも。

そうだ、最初から答えなど分かりきっていた、今までずっと何の為に毛利と対抗してきたのか。
勿論尼子の為だ、だが晴久個人の真の思いは元就と同列に並び、認められた上でなまえを迎える事だった筈。


「なまえ…お前、いい女になったな」

「え?」

「俺も、負けてらんねぇな
…今、ここでお前の手を取って攫うのは簡単だ、だが今は…ここでお前と別れる」

「晴久様…」

「必ず、絶対に、お前を迎えに行く
これを今生の別れにするつもりなんかない…だから…お前は笑え」

「…っ、」

「辛い思いをさせてるのは分かってる、だが心を病んでいては本当に身体がおかしな事になる
なに、心配すんな、俺もお前の兄貴もよっぽどの事じゃない限り死んだりしねぇよ」

「……晴久様、」

「ん?」

「ありがとうございます」


ふわり、なまえが笑むのと同時に微かに空気が動いた。

可笑しな事だというのは晴久もなまえも良く分かっていた。
殺し合いをしている者が相手の事をよっぽどの事じゃない限り死なないなど、矛盾もいいところだと分かっている。
だがそんな事は今更どうでも良かった。

長く笑顔を絶やしていた所為か僅かに引き攣ったなまえの白い頬に、薄い瞼に、晴久はそっと唇を落としていく。
なまえも晴久の口付けをそっと受け入れ、肩に置かれていた晴久の手にそっと自らの小さな手を重ねた。
今はこれ以上の事はできない、だから確かめるだけ、今この存在を確かめる為だけに触れている、そんな行為だった。






「なまえ、気を付けろよ」

「はい…晴久様も、」

「あぁ」


互いに馬に跨り、反対の方角へと馬首を向けている。
行き先は違えど、近い未来、必ず再会するという願いと誓いを胸に秘めながら。

名残を惜しむ事無くなまえはそのまま馬を走らせて静かに森の闇の中へと消えていく。
その後ろ姿が完全に見えなくなった事を確認してから、晴久も馬を走らせた。

(今頃家臣達が心配しているかもしれない、口煩いのには小言を言われるかもしれねぇな)
驚く程に行きとは心持が違う事に、晴久自信もはっきり気付いていた。

(そうだ、絶対に石見を取り返さなきゃならねぇ
無謀だと言われようが、毛利に何と思われようが、俺は、尼子晴久は、そういう人間なんだよ!)

あの場でなまえを見送ったのは身を切るような思いだった。
だが、なまえが毛利の姫としての生き方を捨てられなかったように、晴久にも捨てられないものがある。
尼子晴久としての自分、そしてこの「家」を守れなくては女一人幸せになどできやしない。




「と、殿!殿が戻られたぞ!」

「何処へ行っておられたのですか晴久様!!我ら一同晴久様の御身を案じ…」

「あぁ分かった分かった、小言は後で聞いてやる
それよりいい策が思い浮かんだ、夜中で悪ぃが軍議を開くぞ!」



その夜、夢を見ることは無かった。







They advanced their convictions.