▼I can't cry my way out of this


夢を見る
遥か昔のようでつい最近だったような、実際自分の身に起きた過去を夢に見る。
そしてその夢を見た次の朝は必ず寝覚めが悪い。
罪悪感と悲壮感が心の底から満ちてくる。


「またか…」


そう言わずにはいられない。
けれど夢自体は決して悪夢ではない、夢はただ悪戯に過去を見せるのみで、むしろ晴久にとっては現実の方がよっぽど悪夢だった。


寝間着から城主らしい格好に着替え、広間へ出て行けば既に家臣達が一堂に会していた。
晴久が座に着くと、早速大きな地図が広げられ軍議が始まる。
これはもう数年前からの習慣のようなものだった。

偉大な祖父が亡くなり、自分がこの家で最も力を持つ立場になってからというもの、心底心を休められたことなどほぼ無いに等しい。
世が戦国の世だからそれはどの大名にも言えることかもしれなかったが、晴久にとってはこの戦の相手が相手なだけに、心身共に潰えてしまうような重苦しい思いを抱えていた。


「それで、毛利の動向はどうなんだ」

「は、相変わらず大きな動きは見せていませんが、それが逆に気がかりとも言えましょう」

「…アイツはせせこましい手ばかり使うからな、大人しい時は裏でねちねち何か企んでいるに違いない」


裏でねちねちと、今しがた名の上がった人物がそういう工作をしている様が有り有りと思い浮かんで、晴久は半ば辟易とした表情を見せた。
今や中国地方の大部分を所有する毛利の当主、毛利元就
その人物を思い浮かべるだけで晴久は心底苛立つのだ。

尼子家の前代である祖父の経久は、元就がまだ少年だった頃、成長の兆しが見えていたとは言えまだ弱小国人に過ぎなかった元就を随分可愛がった。
元就が城に来ると年が近い晴久は自然と元就と話をする機会があった、が、どうも晴久は元就が苦手だった。
しかしあろうことか経久は毛利と尼子の関係を重んじて、元就と晴久に義兄弟の契りまで結ばせてしまったのだ。

晴久の抱いていた苦手心は数年後に確信的なものに変わった。
元就が、尼子に敵対する旨を表したのだ。
それまでも決して恭順していたとは言えなかったものの、この離反は尼子にとって手痛いものだった。
そして、晴久にとっては、否、晴久個人にとっては尚更手痛い展開だった。

どうあれ、晴久は毛利元就が嫌いで仕方ない。
しかし晴久にとって「毛利」とはそれだけの関係ではなかった。

苦々しい夢に出てくるのは決まって四人
自分と祖父と元就と、無機質な表情をした元就に手を引かれ、甘い笑顔を浮かべた元就の妹であるなまえ。
晴久にとって夢より現実が残酷であると思わせるのは、自分の比較対象にされるには偉大過ぎるほど偉大だった祖父でもなく、かつて義兄弟の契りを結んだ元就でもなく、「晴久様」と柔らかな声で呼ぶなまえの存在だった。


「―…では、本日はここまでとする。
各自持ち場について何か報告があれば怠るな、些細な動きも見逃すんじゃねぇぞ」

「承知致しました」


その場から動きを見せない晴久に代わって、家臣達は一礼をして持ち場へ赴くべく広間を後にしていく。
その姿がどこにも見当たらなくなったのを確認して、晴久は眼下の地図に目を向けた。

尼子の領地から毛利の領地、おおよそ中国地方の全てが描かれたそれを指でなぞりながら、晴久は何とも言えない苦しさを胸の内で噛み殺した。


「何で、お前はアイツの妹なんだろうな…」


父母兄を早くに失い、家臣に城を奪われ追い出された元就にとって、唯一同父母の妹。
それが晴久にとっては初恋の相手だった。



『晴久様とお兄様がもっと仲良くして下されば良いのに』


まだ毛利と尼子が敵対していなかった頃、なまえは頻繁に晴久に会いに来た。
そして一通り晴久と談笑した最後に必ずそう言うのだった。

『ならお前がアイツをどうにかしてくれ。
あの陰険で口ばっかり立つ頭でっかちにな』

『まぁ相変わらず酷い言い様ですこと。
でも、本当に、お二人が仲良くしてくださればいいのに…』

そう言って微かに苦笑しながら俯くなまえ。
ここまでがお決まりのやり取りだった。
兄の事を悪く言われてもなまえが怒らなかったのは、晴久と元就が油と水のような相容れない性格の持ち主だという事をなまえも充分理解していたからだ。

最後に少し寂しげな笑顔を見せるなまえを見るたびに、晴久はなまえへの想いが募っていることに気付かされた。
氷の面とも揶揄される元就とは真逆に、なまえはほのぼのとした雰囲気の中にも一本気の通った明るい娘だったから、稀にこうした弱弱しい面を見せられると晴久は心が締め上げられるような思いをするのだ。



しかし現実はもうそんな甘い記憶さえかき消そうとしている。
今なら分かる、なまえが言っていた意味が。

毛利が尼子から離反し敵対する関係となって以来、当然ながらなまえに会うことは出来なくなった。
小憎たらしい元就を打ち負かす事には然程も罪悪感など感じないが、きっとなまえは今のこの状況を酷く嘆いているだろうと思うとやりきれない思いがこみ上げてくる。


「この戦に勝てば…せめて次の戦に勝てば…」


じり、と地図をなぞっていた指先が一点で止まる。
その地点にあるのは石見銀山。
嘗て尼子が所有していたそれも、今は毛利の傘下に奪い取られてしまっていた。
恐らく今度の戦はこの地になる。
領地を発展させて行く為にも、経済・政治的意味でもこの銀山が尼子にはどうしても必要なのだ。
毛利もそれを重々承知した上で、この地には厳戒態勢を敷いている。

せめて、この地を奪還できれば、
その思いだけが晴久を辛うじて現実に留めていた。
毛利と仲良くすることは出来なくとも、せめて同列、出来れば毛利より少し優勢くらいになれば、外交手段としてなまえとの婚約を言い出すことが出来るからだ。
表面上人質のような役割になるが、この時代においては大名家同士の恋愛婚など望めない為に、このやり方の方がよっぽど自然だ。
しかし尼子の方が圧倒的に不利な今では、まさか毛利の妹姫を差し出せなどとは言えない、言ったとしても鼻で笑われて終わるだけだ。

だから、次の石見
この銀山を取り返せば何かしら好転するはずだ。
砂に潜んで逃げるばかりでは何も得られない、この数年の戦の中でそう学んだ。
夢に迷い、幾つもの夜を越えてでも、得たいものがある。


「何があっても、諦めねぇからな…!」


握りこんだ拳の中で、自らの爪が肉に食い込んだ。
この手に掴むまでは、何度夢に迷っても現実に帰ってきて見せるという誓いを胸に秘めて。









・・・・・・・・・・









頭の中が揺れるような感覚が続いている。
身体全体が何となくだるい。
倦怠感だけならまだしも偶に痺れるような痛みが走るのが苦痛だ。

気を抜いた隙にぐら、と揺らいだ身体を支えてくれたのは、いつの間にか側に来ていたらしい兄だった。


「まだ体調が悪いのか」

「はい、それほど悪いという事もないのですが、芳しくなくて…」

「薬師は何と言っていた」

「貧血でないかとは仰られるのですが、原因が分からぬと…何とも施しようのないそうで」

「…そなた、何か心当たりはないのか」

「……いえ、」


心当たりなんて無いわけが無い。
そもそも体調を崩した時期があからさますぎるのだから。
そんな事は頭のキレる元就なら分かっている筈なのに、何故今更そんな事を尋ねるのか、そう思いながらもなまえはしらじらしく首を横に振った。

俯いているなまえを元就の鋭い眼光が射抜く。
幼い頃から仲が良かった兄妹がこんな重い沈黙の中に佇むことは嘗てならばあり得ない事だった。
と言うのも今までは妹のなまえがいつも笑顔を絶やさず、兄の元就もなまえの手を離さず握ってふたり仲良く歩んできた。
それも今では考えられないような幻となりつつある。


「…なまえ、」

「はい」

「あの男の事は忘れろ」

「…」

「それとも我が憎いか?」

「っ!お兄様、」

「それでも良い、我は毛利の為に生きている。
それに邪魔だと判断すれば、そなたを苦しめると分かっていても我は何事も厭わぬ」

「…お兄様を憎いなどと、私は決して思いません」


顔を上げれば、元就としっかり目が合う。
しかし元就の目は言葉とは裏腹に決して冷たくない。

元就が尼子から離反したことの道理をなまえはきちんと理解している。
元就となまえにはもう一人弟がいた、元綱という名だった。
正室の子女であった元就やなまえと違い妾腹であった為に元綱と一緒に過ごすことはあまり無かったが、家族が少ない元就達にとっては会えばそれなりに仲良く出来る掛け替えのない存在だった。

しかし数年前、当時毛利の当主で元就の甥だった幸松丸が急死した。
家督は元就に譲位される事が決まっていたが、この時に悲劇は起きた。
異母弟の元綱が数人の家臣の後ろ盾を得て元就に反旗を翻したのだ。
当然、元就はこれを退け、元綱は殺された。
そしてこの事件に明らかに絡んでいたのが、晴久の祖父である経久、引いては尼子氏だったのだ。

元就にとって、毛利にとって尼子が敵になるのは当然の事だった。
なまえもそれは十分理解している。
元就は決して間違ってはいない、むしろ元就は異母弟とは言え実の弟を殺す羽目になった完全なる被害者なのだから、これが正しい道と言える。

でも、だからこそ−
なまえにとっては正しいからこそ苦しさが増す。
もし元就が間違ったことをしているのならば、元就を責めればいい。
だけど、元就は間違っていない、間違っているのは敵対している他家の当主に想いを寄せて、尚且つ嫌いにもなれず、忘れることすら出来ずにいる自分なのだ。

もう昔のように晴久には会えない、想う事すら許されない。
それどころか…
晴久が元就を殺すかもしれない
元就が晴久を殺すかもしれない
晴久が自分を殺しにくるかもしれない

そう考えれば考える程思考は闇に落ちて行き、そうして心を病み身体まで蝕まれている。
現状を一言で言うならば「最悪」だ。
この最悪な状態から脱する方法があるとするならばただひとつ、元就が言った通り晴久の事を一から全て忘れてしまうことだろう。


「…出雲の方に験のある湯があると聞く。近々湯治に行け、城内にばかり居ても何も変わらぬだろう」

「お気遣い恐れ入ります」


出雲も嘗ては尼子の領地だったが、今やその一部は毛利のものになっている。
昔晴久と元就と三人で遊んだ…今は晴久が一人城主を務める安来の月山富田城もそう遠くない。


「なまえ、」

「はい」

「…いや、何でもない」


何かを言いかけて躊躇った後、元就は足早にどこかへ消えて行ってしまった。
その背を呆然と見つめながら、なまえはぐらぐらと揺らぐ頭の中を何とか整理しようと試みた。
が、やはり思い浮かぶのは昔無邪気な笑顔でじゃれ合い、時には互いの境遇を慰め合った今や敵国の主となった晴久のことばかり。


「…どうして、こんなことになってしまったの…?」


経久は元就と晴久を義兄弟としておきながら、何故尼子と毛利の仲を裂くようなことをしたのだろうか。
何故、どうして、そんな事はよく分からない。
ただ一つだけ言えるのは、この時代にそんな詮索はもはや不要だということ。
生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、そんな世の中で出会ってしまった事がいけなかったのだ。


誰も、間違ってなどいない
何も、狂ってなどいない
ただ、許されないのだ
会うことも、話すことも、想うことも、好きでいることも、許されないだけなのだ


思考が停止する。
悲しさで心が満ちても、涙が流れることはなかった。
そんなものはこの数年で枯れ果ててしまっているのだ。
今はただ、少しこけた頬に僅かな涙痕が残っているのみだった。










I can't cry my way out of this