▼色道 「あ、雨」 ぽつ、と鼻の頭に水滴が落ちたので空を仰ぐと、薄暗い雲がぽつぽつと雨雫を落とし始めていた。 そう言えば今日降水確率40%とか言ってたような気がする。 40%の確立で雨に降られるなんて何だかついてないなぁ、というか傘持ってないし。 こういうちょっと危機感がなくて抜けたところが良くないっていうのは、自覚してるし他人にもよく言われるんだけど、人の根本的なところっていうのはそうそう変わらないものなのだ。 雨脚が強くなる前に、と急いで目的の場所へ走る。 走るといっても、今日に限ってヒールの高い靴を履いているから当然スピードは出ない。 何から何までついてないなぁ、と苦笑しながらカツカツと音を響かせてアスファルトの上を駆けた。 「ごめんなさい」 「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、筋金入りの馬鹿だ貴様は」 「…そこまで言わなくてもいいのに」 目的地…三成の家にたどり着く頃には私はすっかりびしょ濡れになっていた。 おまけに慌てて走った所為でヒールが折れて散々な目に遭った…そんな私を玄関で出迎えた三成は非常に怖い顔をして一段高い場所から私を見下ろしている。 「…風呂を暖めてくる。 貴様はこのタオルでも被って待っていろ」 「どうもお世話をお掛け致します」 「分かっているなら掛けさせるな」 「…以後気をつけます」 投げつけられたふかふかのタオルで身体を拭っている内に、三成は家の中へと消えていってしまった。 粗方の水分を拭いきってリビングに入ると、浴室から出てきた三成が「入ってこい」と言ったので、いそいそと浴室へ向かった。 「あー…あったかい…」 暖かいシャワーを浴びて浴槽に張られたお湯に浸かり、雨で冷え切っていた私の身体は生気を取り戻すように体温を上げていく。 一息吐いて浴室の真白な天井を見上げると、自分の中に在る真っ赤な記憶など夢ではないかと思えた。 けれど同時に自分の中に疼く今の三成への欲が、きっとそれがただの夢ではないのだと教えてくれる。 私はごく普通の家庭に生まれた。 父にも母にも大事にされ、小さい頃はままごとが好きだった。 少し年の離れた兄は「ずっと妹が欲しかった」と言って可愛がってくれた。 何事もなく普通に育った私は、進学先の高校で三成と出会った。 自然と惹かれあい、恋をして、もう付き合い始めて何年も経った。 けれど私は気付いたのだ。 三成と出会ったその瞬間に、まるで雷に打たれたかのように目の前が真っ赤に染まる「記憶」を思い出したから。 今と正反対の私。 何も持っていなかった、何もかもを諦めていた私。 その記憶の中の「私と三成」を思い出す度、私は言いようの無い不安と恐怖に晒される。 今の美しすぎる「真白」な世界がいつか記憶の中のそれのように「真っ赤」になるのではないだろうか、と。 「なまえ、」 「っ、な、何?三成」 「貴様の服は全部洗濯機に突っ込んでおいた、ここに着替えを置いておくから勝手に着ろ。」 「え、全部って…下着も?」 「…今更下着程度で羞恥することもないだろう」 そう言いながらもやや声に曇りがある三成に、バレないように小さく笑う。 三成は、今も記憶の中でも変わらない、三成だった。 透明で真っ直ぐで不器用で。 そしてその真っ直ぐな気持ちが私に向けられていると全身で感じられる、それを素直に受け止められる「今」の私は記憶の中の私よりずっと幸せだ。 「…何なら三成も一緒にお風呂入る?」 「なっ…!?貴様何を言っている!!」 「だって、今更羞恥することもないんでしょう?」 こんな風に三成をからかう私は、記憶の中に居ない。 だからきっと記憶の中の私と今の私は別人で、そしてきっと同じように見える三成も別人なのだ。 だから私は記憶の中の私に、何もかもを諦めなければいけなかった記憶の中の世界に怯える必要なんてない。 私は、今を生きている。 三成が、今此処に居てくれる。 私と三成が、一緒に生きていける。 此処に存在するのは、その事実だけなのだから。 「冗談だよ三成、着替えありがと、」 「…言ったな」 「え?」 「貴様が誘ったのだ」 「え、嘘、まさか、三成…」 曇りガラス越しに、黒いシャツを脱ぎ始める三成が見える。 私は墓穴を掘ったのかもしれない。 三成に冗談が通じない事も、案外三成が色事に盛んな男だという事も、記憶の中のずっと昔から分かっていた筈なのに。 あぁ、でも… 案外色事に盛んなのが今も記憶の中も変わらないのは、私も同じだった。 求め合う心は、私も三成も、今も記憶の中も、変わりはしないのだ。 その証拠に、暖まり始めていた身体は既に驚く程熱くなっていた。 「貴様が望んだのだ、今更拒否は受け付けない」 「今」の私と三成は、ただの男と女である。 それが一番自然で一番幸福なことだということを、私は……きっと三成も、よく知っているから。 色道 |