▼赤か白か 嫌な予感は、していた。 そしてそれが確信に変わったのは、北方から銃声が響いた時だった。 「今の銃撃音は何だ」 「あれは恐らくお味方の鉄砲隊で御座いましょう。 確か鉄砲隊は先鋒部隊とは別配置されておりましたから。」 「…そうか」 今日の戦はなまえが先鋒部隊を率いている。 それが私の心をどうも落ち着かせない。 なまえの実力は買っているつもりだ。 女だてらに武士をやるには並大抵の努力では不可能だ。 剣も軍法も、なまえは幼い頃から他人の3倍は励んでいた。 それが唯一己の存在意義だったからだろう、なまえの生い立ちは女として生きていくにはあまりに酷なものだった。 其れ故か、私は幼い頃からなまえに興味があった。 他人のことなどどうでもいいが、なまえのことは何故か「他人」と思えない。 同情していた訳ではないが、なまえを目で追ううちに「情」というものが私の中で芽生えていったのは確かだ。 「…?石田様、北方の様子が…」 「どうした」 「いえ、北方の様子がどうも不穏に見えるのですが」 なまえが居るであろう北方の戦場は、橋を越えた高地で小高い丘に囲まれており、この南砦からはその様子が良く見えない。 だが言われてそちらの方へ意識を集中させてみると、確かに何かおかしな気配を感じる。 銃撃音は未だ止まず、戦場から聞こえる声はどこか混乱に満ちている。 おかしい そう思った瞬間、体中から血の気が引いていくような感覚に襲われた。 戦に恐れを抱いたことなどない、人を斬ることにも、斬られることにも恐怖など今更抱かない。 だがこの感覚は間違いなく恐怖だった。 一体何に対しての、そんな思いが過ぎった時、北方へ繋がる橋を豊臣の者と思われる兵が単騎で駆けてくる姿が見えた。 「どうした!一体北で何があった!!?」 「い…石田様…本陣に救援を…っ」 「本陣に…?何があった!?」 駆けてくる兵に駆け寄り、半ば馬から引き摺り下ろしてやれば、その兵はガクガクと身体を震わせながら、口をぱくぱくとさせて言葉を捜した。 「み、味方の鉄砲隊が裏切り…他の隊からも裏切りが出て、今先鋒の隊は壊滅の危機に晒されております…っ」 「何だと…!?」 よく見ればその兵も銃弾を受けたのか足から血を流している。 だがそんな事に気を配れる状況ではない、先鋒隊が壊滅の危機に晒されている。 鉄砲隊を引き連れ軍勢も増やした敵が、この砦まで押しかけてくれば、この砦も危うい…そうなれば必然的に豊臣が劣勢に陥る事になる。 「…っ、私が出る!橋を越えて北方へ援軍を、」 「石田様、そ、それはお止め下さい!」 「何故だ!このままでは先鋒隊もこの砦も…」 「隊長が、策がある故砦の隊は本陣の救援来着まで動かすなと指示を…」 「なまえが…?」 行く手を阻むように私の前に出てひれ伏す兵の言葉に絶句する。 策とは一体何だ、そう考えた時に一つ思い浮かんだ事がある。 私がなまえならば、自身を囮に使い橋まで誘き寄せた上で橋を破壊して敵の進路を阻むと同時に敵の勢力を削る。 ―間違いない、なまえはこの策を取った。 この場合確かにそれが最善の策だが、それでは囮になる者がただでは済まない。 増して現状では鉄砲隊が多く敵方に寝返っている、南へ誘導する間に後ろから撃たれでもすれば防ぎようがない。 「どけ!私だけでも北へ向かう!!」 「しかし石田様、」 「どけと言っている!!」 「ひっ…!」 邪魔をする兵を刀で脅し、無理矢理道を開けさせ全速力で北へと駆ける。 しかしその策が為されてから一体どれだけの時が既に経っているのか。 北へと駆けながら、私は自分でも自分の行動がよく分からなかった。 この場合どう考えても私は動くべきではない。 裏切りが発生している中持ち場を離れるなど危険極まりないのだ。 だとするとこの北へと駆ける足はどういった意思を持って動いているのか…一体何の為に私は駆けているのか。 そもそも私の足は「北」へ向かっているのではない…「なまえ」へと向かっているのではないか。 なまえ…なまえの事を私は恨んでいた筈だ。 私との関係を裏切り、私に勝手な婚姻を持ちかけてきたなまえ。 怒り、恨み、憎み、忘却しようとした。 ならば何故その相手を救う為に、私は駆けているのか。 何故これほどなまえが死の危険に晒されている事に焦るのか。 「い、石田様!!?」 「どけ!なまえは何処だ!」 「隊長は、まだ橋の向こうに…」 「…っ!!」 橋の方へ近づくと、北から退却してきた先鋒の兵達が待機していた。 まだ橋までは距離がある、そしてまだなまえが橋の向こうに居るという事はやはり私が思いついたのと同じ策を取ったらしい。 事態は一刻を争う、再び駆け出そうと周りの兵を押しのけていると、前方の兵達から声が上がった。 「隊長が橋に来たぞ!!」 「敵に追われてる…!あ、あの合図は…!!」 「!なまえ、なまえやめろ…っ!!」 騒然とする兵達を掻き分けて前方に出ると橋が見え、丁度その瞬間、大軍に追われながら走る一人の女が手を振り上げた。 「やめろ!!」 橋の綱が切られ、敵兵が崖下へ落ちていくのと私がなまえの下へ駆け出すのとどちらが早かったか。 私の叫び声には気付かないまま、なまえはぱたりとその場に倒れた。 その体には遠目でも分かるほどの赤が散っていて、倒れたきりなまえはぴくりとも動かない。 崩れゆく敵陣の悲鳴や味方から上がる歓声が一気に聞こえなくなる。 嘘だ、こんな事は在り得ない。 あそこに倒れているのは誰だ? あんな体の小さな女が、こんな戦場に居ていい筈が無い。 嘘だ、違う、あれは、なまえな訳が、無い。 力が抜けてその場に崩れそうになる脚を叱咤し、倒れた人物の下へと再び駆ける。 そうだ、あれがなまえの筈が無い。 なまえは、ただの女だ。 私が一番良く知っているではないか。 あの白い柔肌の感覚まで鮮明に覚えている。 声も、体温も、髪の艶やかさも、その脆さも。 辿りついた先、私の足下に転がる半ば命が消えかけている人間を見下ろす。 何故だ、在り得ない、こんなところに何故「女」が居るんだ。 「みつなり…」 声にもならない掠れた囁きが私の名を呼ぶ。 聞き覚えのあるその声に、体の芯から冷たくなっていくような不快さを感じた。 私の名を呼ぶその声は、もっと艶があった筈だ。 それこそ生きていると、此処に、私の腕の中になまえが居るのだと知らせるような声だった筈だ。 何故、その声が死を感じさせるのか。 「三成…ありがとう」 「なまえ…?何を…言って… ……なまえ!!何をしている…お前がこんな所で死ぬ筈が無いだろう!!なまえ!!」 何も言わなくなったなまえの腕を取り、その身体を膝の上に抱く。 それだけでなまえの身体から溢れた血水が私の体にべっとりとこべりつき、生ぬるいそれとは逆にどんどん冷えていく身体は、明らかに息をしていなかった。 「嘘だ、認めない…っ!! 勝手に朽ちるなど…私を裏、切る気、か…」 裏切る…? そう言えば随分前、いやつい最近だったのか、何時だか分からないが私は以前にも同じような事をなまえに言った記憶がある。 忘れようとしていたなまえとの関係、だが私は一つも忘れることなど出来なかった。 違う、本当は忘れようとなどとしていなかっただけだ。 「なまえ…何故、だ…?」 青白くなり始めている頬に触れると、その頬に微かに赤い傷跡が見えた。 私が、付けた傷だ。 なまえはあの時「痛い」と言っていた。 だが何が痛いのかは言わなかった。 本当に頬が痛かったのか、否、違うだろう、私なら、私は、本当は分かっていた筈だ。 なまえが私の心を裏切ったのではないことも。 本当に痛かったのはその「心」だということも。 知っていた。 気付いていたのだ。 なまえが自身の境遇を嘆いていることも、本当はただの女になりたかったということも、それが叶わないと分かっているからこそ、私から身を引いたのだということも。 解っていた、だが許せなかった。 なまえをではなく、そういう境遇にあるなまえをどうしてやることもできない己を。 そっと赤い傷跡を指先でなぞる。 私の手になまえの血がついていたのか、その傷跡にそって赤い血が線を描いた。 そうだ、私達はこんな関係だった。 互いの傷を互いの血で塗らして癒すような、不毛な、愚かな、関係だった。 「……貴様が望めば、私は、何だってしてやった! だが貴様は何も望まなかった、女に戻る事も、私の妻になる事も、何も…! それなのに何故、最後に死を望んだ…!?何故、私を望まなかった!!」 答えは返ってこない。 私の膝の上で眠る女は、沈黙を選択したのだ。 無言の身体を抱く私に解る事はただ一つ、もう私はなまえに何もしてやれないという事。 何もかも、遅すぎた。 白い頬に、透明の水滴が滴る。 ぽたぽたと落ち続けるそれが何なのか私には解らないが、妙に己の目が熱いことだけは感じた。 ぽたり、落ちた透明の水滴が頬に塗られた血の赤と混ざり、白い頬を伝って地面に堕ちた。 涙色 激しい悲しみの色 あとがき+α |