▼光か闇か 朝、起床して顔を洗う 何も変わらない日常の朝だというのに、何も変わらないと思い込もうとしていたのに、冷たい水が頬に触れた瞬間走った僅かな痛みが全てを思い出させた。 そして改めて思った。 忘れることも無かったことにすることも出来ない。 あの時の三成の表情も、声も、苦しみも、私は全て覚えて生きていくだろうと。 こ鬱屈とした気分を晴らすには、体を動かすのが一番だと思い、手早く着替えて未だ誰も居ない道場へと走った。 「お早う、なまえ君 朝早くから精が出るね」 「半兵衛様!お早う御座います」 私が道場に入って半刻も経った頃、半兵衛様が道場へ訪れられた。 その姿が着物である事からして、鍛錬に来られたのではないという事はすぐに分かった。 それと同時に、きっと昨日の事をお話に来られたのだと察する事ができた。 「お話でしょうか」 「うん、今いいかな?」 「はい、お聞き致します」 手にしていた竹刀を片付け、汗を拭ってから既に道場の外で待たれていた半兵衛様の下へ向かった。 半兵衛様は私が道場から出てきたのを確認すると、一度微笑してそのまま茶室へと案内され、狭い茶室に私と半兵衛様だけになったのを確認すると、小さく息を吐いて口を開かれた。 「三成君、受けてくれたよ」 「それは良かったです」 「うん、まぁ断る事はないだろうと思ってたけど」 「私が提案したという事も仰られたんですね」 「…言わないでおこうか迷ったんだけどね。 でも君がそれを知っているという事は、三成君と話をしたんだね?」 「えぇ、まぁ」 「三成君…怒ってた?」 「…何故です?」 半兵衛様のお声は、ここのところか細さに拍車が掛った。 噂では良くない病に冒されておられると聞いた事もあるけれど、その洞察力の鋭さは衰えるところを知らないらしく、淡々とした言葉の中にも何らかの意志が篭っているように聞こえる。 恐らく、私と三成が必死に隠そうとしていた関係なんて半兵衛様には薄々気付かれていたのだと思う。 半兵衛様だけではないかもしれない。 人を寄せ付けず信用しない三成の限られた交友関係で唯一「女」に該当する私と三成との関係を怪しむ人は恐らく他にも居ただろう。 だからこそ、その疑いを晴らす為にも今度の縁談が必要だったのだ。 例え半兵衛様が既に私と三成に何があったのか知っておられたとしても、三成と関係があったことを私が明言することは避けなければならない。 私は視線を畳の上に落として静かに息を吸い込み半兵衛様の答えを待った。 「君が持ちかけた話だって言った時の三成君の表情がただ事じゃなかったからね。 彼が感情を隠せないっていうのは君もよく知っているだろう?」 「そうですか… 確かに怒っていました。 私にそんな事まで世話にならなきゃいけない覚えはないと」 「ふふ、三成君は本当にそんな事を言ったのかな? …まぁ君がそう言うならそれでいいけど。 ところでその頬の傷はどうしたのかな?随分鋭利な傷口だけど」 「…刀を研いでいる時に庭で鳥が騒ぎまして、驚いて手元が狂いました」 白々しい質問をはぐらかすのには、適当な理由でいい。 半兵衛様の最後の問いで完全に解った。 半兵衛様はきっと私達が越えてはいけない線を越えてしまった事も知っている、勿論この傷が激昂した三成に付けられたものだという事も。 半兵衛様はそれ以上はその事には触れてこず、その後はここのところの他国の情勢や、軍の編成について、それと今後の方針などについてお話された。 その間も私は三成の事を漠然と考えていた。 私からの提案だと聞いた時、三成は一体どういう顔をしたのだろう。 怒りか絶望か、それとも哀しみか。 私の部屋に来た時の三成はその全てを兼ね備えたような表情だった。 そして何より私は三成に「裏切った」と言われた時、不覚にも嬉しいと思った。 だってそれは私と三成が同じ気持ちだったという証拠。 三成が私と想い合っていると信じていた気持ちを私が「裏切った」のだから、私も三成も想いは通じ合えていた普通の男女だったという事でしょう? それだけで、私は充分幸せだと思えた。 そしてそれから数ヵ月後、三成は結婚した。 勿論それまでの数ヶ月間、私は三成と一言も口をきいていない。 婚儀に参列し、私が見たのは静かに座につく三成と、その横に座る白無垢を纏ったお姫様。 胸が痛まないという事はなかった。 嘗て想いを通わせた相手が、違う女と並ぶ光景なんて見たくも無いと思ってしまう。 だけど同時にこれで良かったとも思う。 私には、あの白無垢を着る事はできない。 血に染まった身体で純白を纏うことなんて、この汚れた身体が新しい生命を宿すことなんて、あってはならない事なのだ。 もし、私が1日でも早く、或いは遅く生まれていれば全てが変わっていたに違いない。 だけど今此処にいるのは紛れもなく私で、遠巻きに三成の幸せを願う事しかできない。 安定した家庭を持ち、家族に恵まれ、愛され、安らぎの場を得る。 そんな日常のような幸せを、三成に味わって欲しい。 戦から解放される一時が少しでも長くなればいい。 「なまえ、宴会には出ぬのか」 「刑部…刑部は出ないの?」 一通りの儀式が済み、内輪での宴会に入ると同時に私はその場を抜け出した。 ばたばたと女中が慌しく行き交う回廊を曲がったところで声を掛けてきたのは、三成の理解者と言ってもいい刑部だった。 「われは病の身故な、あまり酒肴は好まぬ」 「私も今あんまり飲みたい気分じゃなくて…というか主役が主役だから宴も長く続かないでしょ」 「ヒッヒッ、それもそうだ …してなまえ、ひとつ訊きたいことがある」 「…何?」 嫌だと思った。 何となく、刑部も私と三成の関係を知っているような気がしたから。 元々あまり良い気分ではなかったので、思わず声が低くなってしまい、刑部が「そのように怒るな」と食えない笑みで宥めてきた。 「まぁ何とは言わぬが。 それでぬしはこれからどうするつもりだ?」 「どうって?」 「このまま老いるまで豊臣で武士として働くか、それとも時をみて女に戻るか、よ」 「…刑部のくせにおかしな事を訊く。 私は生まれたときから武士だから、女に戻るなんて選択肢は最初からないよ」 「…そうか、ならば言わぬ」 「うん、何も言わないで。 これでいいの、これで上手くいくんだから」 やはり気付いていたのか、とは今更思わなかった。 それより刑部が私の今後に興味を示した事が何だか可笑しく感じた。 そして自分で言いながら自分の言葉の矛盾に内心笑いが止まらない。 男を好きになって身体まで許しておいて、よくもまぁ自分は生まれながらの武士だなんて言えたものだ、と。 「他に用がないなら、」と言って刑部の横を通り過ぎる。 数十歩進んだところで「なまえ」と刑部の声がしたので足だけ止めた。 「三成はぬしを好いておったぞ」 誰かが聞いていたらどうするのかと一瞬ひやりとしたが、それも直ぐに馬鹿馬鹿しくなった。 もう私が三成に気を使う必要なんてない。 後は三成が自分で自分の生き場所を築いていくだけなんだから。 「…知ってる」 それだけ呟いて、再び足を進めた。 刑部に聞こえていたかは分からない。 私は、自分が身を引くこと以外に三成を幸せにする方法を思いつかなかった。 刑部なら、何か違う方法を知っていただろうか。 そんな思考も、直ぐに取り払われた。 → |