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月下の邂逅 sideF

「ふぅ・・・」

庁舎での仕事が思ったよりも早く片付き、たまにはちゃんとベッドで寝てくださいと言う部下のありがたい言葉を受けて帰宅したのが1時を回った頃。安室透の家に帰るか悩んだ結果、風通しの意味も込めて降谷零としての自宅へ戻った。ルームランプだけ点けた部屋は、自分の部屋のはずなのに酷く懐かしい感じがして、安室透としての生活が長いことを実感させられる。いつまでこんな生活を送ることになるのか、なんて馬鹿げた思考はジャケットとネクタイを放り投げて、ソファに身体を沈めることで追いやった。

「・・・2時か」

どうやら少しの間、意識が飛んでいたらしい。ディスプレイに映し出される時刻は2時すぎとなっていて、そんなに時間が経っていないことを示していた。そう言えば風通しをするのが目的だったと思い出し、軽く頭を振って立ち上がる。窓を開けるとそんなに冷たくはない風が入ってきて、先程まで緩くなっていた思考回路が戻ってくるような気がした。そういえばもう春も終わりか。ポアロで初夏の新作案を考えるだとか、店に来る客の服装も徐々に軽装になっていたなどと、浮かんでくる情報は全て安室透として得たものと気付いて自嘲する。降谷零としては季節なんか気にしている暇もないので仕方がないのだが、こんな不安定な思考に陥る程度にはどうやら疲労が濃いらしい。そんな自分が嫌になりつつ、手すりに凭れ掛かかって全てを出し切るように溜息を一つ漏らした。




「「はぁ・・・」」

自分の溜息とは別に聞こえたそれ。
重なって聞こえた音に驚いて、思わず聞こえた方向に視線を向けた。その先には一人の女性が同じく驚いたような表情でこちらを見つめている。たかだか数mしか離れていない所に居た人の気配に気付かないなんて本当にどうかしている。必死の形相で休息を勧めてきた部下にはきっと今の状態がバレていたのだろうと、自分の詰めの甘さを後悔するように片手で顔を覆った。

「えっと、こんばんは・・・?」
「あぁ、こんばんは」

僕が何も言わないでいると、彼女の方から様子を伺うように声がかかる。それに対して当たり障りの無い言葉を返すと、それに安心したのか彼女の表情から緊張の色が薄れた。

「はじめまして、だな」
「そうですね。仕事柄あまり家に帰ってなくて・・・」

続けるように初対面の挨拶を投げかけると、彼女もそれに気付いたらしい。こちらの家に帰ってくるのは庁舎の帰りに時間が出来た時くらいなせいで、隣の住人がどんな人なのかは知らなかったし、気にしたこともなかった。彼女の発言によると、どうやら向こうもそんな生活をしていたらしい。

「僕も似たようなものだよ。1週間ぶりくらいに帰ったんだ」
「あはは、お互い大変ですねぇ」

本当は1週間どころではないが、流石に長過ぎると怪しまれるかもしれない。僕のそんな考えなんて知らないであろう彼女は、眉を下げて笑う。その表情は疲労の色が滲んでいて、彼女の仕事は何かという興味が生まれた。なかなか家に帰れないとなると、多忙なメディア関係やIT関係か。もしくは俺と同業・・・いや、いけないな。つい職業柄考えてしまうが、一般人相手に色々探るのは失礼だろう。ましてや知り合って10分も経たない隣人だ。どこの業界も大変なんだろう、と一旦思考を打ち切って、先程から視線を感じている彼女に意識を向ける。どうやらなにかを思いついたらしい。

「もしかして芸能人・・・」
「ではないな」
「ですよね」

恐る恐る尋ねられた質問は予想していなかった内容で、思わず苦笑した。まさか芸能人に間違えられるとは。テレビとかあまり見れなくて、そういうの疎いからもしかするとって思ったんです、と素直に申告した彼女は心底申し訳無さそうな表情をしている。それが少しおかしくて、口元が緩むのを隠すように、僕も同じだと同意を返した。他にもなにか聞きたそうにしていた彼女は、一度手元の時計に目を落とすと慌てて顔をあげる。

「すいません、そろそろ寝ますね」
「こんな時間か。僕も寝よう」
「おやすみなさい、えっと・・・」

彼女がなにを言い淀んだかはすぐにわかった。はじめましての挨拶は済ませたが、もう一つ初対面で交わすべき事柄を俺たちは伝えていない。

「降谷だ」
「!あ、ありがとうございます。私、近部です。近部瑠依」
「じゃあ・・・おやすみ、近部さん」
「はい、おやすみなさい、降谷さん」

僕が名前を伝えると、彼女、近部さんは嬉しそうにな表情を浮かべて同じように名乗る。ご丁寧にフルネームで。そして彼女は笑顔で小さく会釈すると、部屋に戻っていった。それを見届けて僕も同じように部屋に戻る。降谷と誰かに名乗るのはとても久しぶりで、今この時だけは安室透でもバーボンでも、公安の降谷零でもなく、少しだけただ普通の自分に戻れたような気がした。明日も朝からポアロでのバイトが待っているし、連日の徹夜作業で疲労はもちろん溜まっている。それなのに自然に緩む口元からは、もう溜息は漏れなかった。




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