Tricolore狂騒曲


碧棺左馬刻に拾われる  







「雨かぁ……」
 
 鼻の先に感じる冷たさに視線を上へと向ければ、先程まで明るかった筈のそこには鈍色の空が広がっていた。そこからパタパタと落ちてくる雨はまだそんなに酷くはない。

「ま、いっか」
 
 まだ目的地着いてないのもあったけれど、なんとなく濡れてもいいかと言う気分なこともあって私はそのまま歩き続ける。

 海が見たい。
 人間関係のストレスに疲弊して仕事を辞めて、住んでいた社員寮を引き上げた私が一番に思ったのはそれだった。なんでそう思ったかは自分でもよく分からない。ただなんとなく、漠然とそう思ったのだ。人類の祖先を辿っていけば最終的に海へ行き着くのだから、大きな括りで言うところの帰巣本能が働いたのかもしれない。そういう理由で私は大型のキャリーケースを一つお供に連れて、ヨコハマディビジョンの街を一人歩いていた。

「ええと、ここを抜ければ海が見えるは、ず……え?」

 ガラガラとキャリーケースのキャスターが鳴らす音をBGMに進んでいた時。ビルとビルと間、気付かず通り過ぎることも出来たくらいの通路の前で私の足は止まっていた。視線の先にはビルの壁を背に座り込んでいる人の姿。真っ白な髪に白シャツの男の人は動く様子は無く、体調が悪いのか怪我をしているのかここからは判断がつかない。
初めて来た知らない土地で相手は全く見知らぬ人。しかもこんな所で座り込んでいるなんて、関わらない方が懸命に違いない。見捨てるのがあれならば、救急車だけ呼んでその場を立ち去ることだって出来る。だけど。

「あの、大丈夫ですか……?」

 自分の元来の性格なのか先日までの職業病なのか。たぶんその両方から、私はその男性に声を掛けていた。私の問いかけに対して反応はないけれど、規則正しい呼吸はしているからとりあえず生きて居ることに安心する。白い服に所々赤黒い染みがあって、どこか怪我をしているらしい。近付いてよく見れば、外からは見えなかった側の髪に黒い滲み。そっと触れるとそれは既に固まってはいるけれど血液で、出血の原因はどうやらここのようだった。血は止まっているし出血量からもそんなに大きな怪我ではなさそうだから、とりあえずハンカチとまだ開けてないペットボトルの水で傷口だけ拭いて後は救急車を呼ぼう。そう思ってハンカチを傷口に当てた時。

「っ……」

 冷たさからか傷に染みてしまったからか、目の前の男性が顔を歪めて唸った。意識が戻るのはいい事だけれど、怪我した場所が頭なら油断は出来ない。頭の怪我は後から症状が出ることだって少なくないのだから。

「大丈夫ですか?ここがどこだか分かりますか?気分悪いとか、目眩とか、」

 矢継ぎ早に質問する私の声を煩わしそうに受け止めて、伏せられていた目がゆっくりと開く。そして奥から現れた真っ赤な双眸が私を捉えた瞬間、私は思わず息を飲んだ。吸い込まれそうな瞳ってこういうことを言うんだ。

「あ……?誰だテメェ」

 そんな綺麗な瞳の彼から放たれたのはそんな第一声。
私の質問を無視して睨みつける眼光は鋭く、状況に違わずなかなかに柄が悪そうだ。せっかく綺麗な人なのに勿体ない。なんて場違いなことを考えていれば、何も言わない私に彼はもう一度低く「おい」と声を上げた。

「あぁ、私は通りすがりのものです。歩いてたら偶然怪我してるあなたを見かけたので。血は止まってるみたいですけど、どうします?歩けなさそうなら救急車呼びますか?」

 頭怪我してるみたいなのであんまり無理はしない方がいいですよ。
そう付け加えれば、あー……と少し考えるような声の後。

「救急車はいらねぇ」

 と短い返答。
 まぁそうですよね。提案してはみたものの、断られることは想定内だった。それならどうしよう。ここは丁度屋根があって雨も当たってないけれど、通りを見ればまだ雨は上がっていない。この状態で雨の中歩いてと言うのは身体に響くだろう。タクシーを呼ぶにも白いシャツに明らかな血をつけた人を乗せてくれるだろうか。そうだ、家族……いや、こういう人は事情があって身内を呼べないケースも……なんて経験則を思い巡らせている間に目の前の彼が立ち上がる。軽く首を捻ったりして身体を解している様子はなんだか野良猫のようだった。
 きっと彼はそのまま立ち去るのだろう。それを止める権利は私にはない。それなら最低限、今の私に出来ることはやっておこうと、置いたままのキャリーケースの中身を思い浮かべながら彼の背中に声を掛けた。


 


 

「迷惑かけたな、助かった」
「迷惑なんて全然。私が勝手にやったことなので気にしないでください」

 私に出来る最低限のこと。
 それは持っていた応急セットで簡単な傷の手当をすることだった。頭以外にもよく見れば擦り傷切り傷などもあり、そこの消毒だけでもと言う提案を彼は思ったよりすんなりと受け入れてくれた。
 一通りの手当を終え立ち上がると、頭一つ分は優に大きい彼を見上げてふるふると首を横に振る。立ち去る判断も出来たのにしなかったのは私の勝手なのだから、彼が負い目を感じる必要なんて全くないのだ。

「そーかよ。まぁでも、あんま見ず知らずのやつにホイホイ寄ってかねぇ方が身のためだ」

 今後は気ィつけな。
 思いがけない言葉につい目を見張ってしまい、ンだよ、と睨まれる。ガラも言葉もよろしくないけれど、見ず知らずの私にそんな忠告をしてくれるあたりどうやら根っからの悪人と言うわけでは無さそうだ。

「ご忠告ありがとうございます。以後気をつけますね」
「おー、そうしろ」

 そんな短い会話を終えれば私達の別れの時が近付く。私はヨコハマの人間じゃないし、何も言わないけれどそもそも彼は一般人と住む世界が違うタイプの人だろうと言うことは空気感でわかる。だからもうきっと彼と会うことはないだろう。

「そーいや、そんな大層な荷物持って旅行中か?」

 大通りに出て今更ながら私の大きなキャリーケースに興味を持ったらしい彼が視線を下に落として問い掛ける。簡単にここまで来た経緯を話せば、今度は彼がその赤く綺麗な目を丸くする番だった。

「はっ、自分の仕事も住む所も無い状態で人助けしてるなんざ、とんだお人好しが居たもんだな」
「それを言われると何も言い返せないんですが……」

 可笑しそうに笑う彼にこちらも苦笑を返すしかない。海が見たいと言うだけでヨコハマに来たものの、今後のことが何も決まっていないのは本当のことなのだ。それでも幸か不幸か、忙しくて使う暇もなかったせいで当面は困らない残高が通帳にはある。なので、暫くホテルにでも泊まって仕事を探してみようと思います。そう伝えれば、目の前の彼は徐にポケットから取り出したタバコに火をつけた。そして何かを考えるような表情をして、私に掛からないようにゆっくりとその煙を吐き出した。

「お前、さっきの怪我の手当」
「?」
「あれ、随分手慣れてたじゃねぇか」
「え?あぁ、外科医だったんです。今はやめてるので元、ですけど」
「へぇ。外科医、ね。まぁ元でもなんでもいいけどよ。その腕役立てられそうな仕事、紹介してやろーか?住む部屋付きでなァ」
「えっと、」

 さっきまでの表情とは違う、悪い笑みを浮かべた彼に思わず言葉が詰まる。これはまずいのではないだろうか。いや、まずいに違いない。いくら見た目は良くても明らかに堅気の仕事をしている雰囲気ではない彼の紹介してくれる仕事が真っ当だとは到底思えないので、断ろうと口を開きかけたその瞬間。

「左馬刻、急に呼び付けてんじゃねえよ」

 目の前の道路に横付けされた車のドアが開き、そんな声とともにスーツ姿の男性が降りて来る。いつの間にか呼んでいたらしいその人は目の前で悪い笑みを浮かべている白い彼――サマトキさんの知り合いのようだ。

「よォ、ウサちゃん。なんか役立ちそうなヤツ見つけたから拾って帰るわ」

 だからこいつも乗せてさっさと事務所連れてけや。
 そう言い残して自分はさっさと止まっている車の助手席に乗り込むサマトキさんに、話の展開が急すぎて固まる私。そんな状況の中、ウサちゃんと呼ばれたお友達さんは大きく長い溜息を吐くと、車の後部座席のドアを開けて私の方を振り返る。

「とりあえず、一旦一緒に来て頂いてお話を聞かせてもらっても?」

 先程までとは別人のような口調と笑顔で言い放たれたその言葉は、丁寧な筈なのに随分な圧がある。一応左右に視線を巡らせてみるも、逃げたところで運動不足の私の足じゃ無駄な足掻きにしかならなさそうだ。

「あぁ、心配しなくても大丈夫ですよ。私は左馬刻と違って真っ当な職業……警察官ですから」

 キャリーケースを握ったまま動かない私にそう告げるウサちゃんさん。
 なんで真っ当な警察官の彼が真っ当ではなさそうなサマトキさんと仲良さそうにしているのか、心配しかないんですが、とか色々な疑問や思いは尽きなかったが、考えるのに疲れた私は全ての思考を投げ出した。諦めたように乗り込んだ車の窓から見えた空にはいつの間にか青空が広がっている。雨はもう降っていなかった。

 願わくばサマトキさんを根っからの悪人では無いと思った自分の直感が当たりますように。

 どこの誰かもわからない人に連れられて、どこに行くかも分からない車の中で私はそんなことを考えた。