bll短編


馬狼照英は一生ほっとけない  






「頑張って来いよ」

 そんな在り来りな言葉を受けた職員室を出てそのまま家に帰ればいいだけなのに、何故か足は自分の教室も昇降口も通り過ぎてある一箇所へ向かっている。別に伝える義理があるわけじゃねぇ。俺が居なくなったところであの女に関係はないだろうし、伝えたところで女の反応は俺にとって関係はない。万が一、あの女が「行くな」と言ったとしたら?なんて疑問に対しては想像するだけでも反吐が出る。ンなもん決まってんだろ。テメェのお気持ちなんか俺の知るところじゃねぇって話だ。

――なんてことを考えながら来たって言うのに。

「……いねぇ」

 辿り着いた先、校舎裏の花壇の前には誰も居なかった。数日前に綺麗に咲いたと気の抜けた顔をして笑っていた女の言葉通り、花壇で紫や黄色が等間隔に揺れているだけ。等間隔なのは俺が植え直したのだから当然だが。まぁ別に今日俺がここに来ることを伝えていたわけではないので、あの女がここに居なくてもなんら問題は無い。無いのだが、何故か無性に腹が立って思わず舌打ちが漏れた。だがまぁいい、居ないなら仕方がない。ここで待ったとしても女が現れる確証もないので踵を返す。手の中では白い封筒が所在無げに握られていた。


 



 
「待って!俺はずっと君を見てたんだ……!もっと君とお近付きになりたいと、」

 校舎の角を曲がろうとしたところで聞こえたそんな声。縋るような男の声にめんどくせぇ場面に遭遇したと思わず舌打ちをした。そしてそんなところを通り過ぎるのは真っ平ごめんだと、遠回りにはなるが元来た道を帰ろうとした瞬間。

「ごめんなさい。友達と約束してて急いでるんです」

 聞こえた声に思わず足が止まる。無視すればいい。まだ俺の姿は向こうに気付かれていない。例え気付かれていたとして、俺が無視して踵を返そうが横を素通りしようがきっと声の主は何も言わないんだろう。なぜならばあいつは他人に何も期待していないのだから。それがわかっているからこそ、俺はこれから自分がとるであろう行動に対して心底馬鹿らしいと思いつつ「クソが」と誰に向けたか分からないそんな言葉を吐き捨てるのだった。

「少しだけでもいいから、」
「おい」
「あ、馬狼くん」

 拒否の声に対して引き下がろうとしない男の声を遮った俺に、腕を掴まれている女はいつものような気の抜けた声で名前を呟く。その表情は少し強ばっていて、この警戒心の欠片もない女でもこんな顔が出来るのかと変なところで感心した。状況が飲み込めずに居る男を無視して女に近付けば、その圧に屈したのか男は掴んでいた女の腕を離して一歩下がる。
 
「花壇に居ねぇと思ったら、ンなとこで油売ってんじゃねぇよ」
「油は持ってないよ?馬狼くん」
「テメェには例えってもんが通じねぇのか、馬鹿女」
「ちょ、ちょっと!彼女に向かって馬鹿なんて酷い言葉、」
「あ゛?」
「ひっ……」

 一睨みすれば、簡単に震え上がる男。つーかまだ居たのか。うざってぇ、さっさと消えろ。目障りなんだよ。
 
「俺がこの女をどう呼ぼうがテメェにゃ関係ねぇだろーが。俺に指図してんじゃねぇよ、クソが」

 そう言って俺より随分低いところにある顔を見下すように見下ろせば、男は怯えた小動物のような勢いで走り去る。そんな男の背中を一瞥した女は、俺の方に向き直ってへらりと間抜けな笑顔で言葉を紡ぐ。

「ありがとう、馬狼くん。ちょっとしつこくて困ってたんだ」
「たまたま俺が通る道で邪魔だっただけだ」
「そっかぁ。あ、そう言えば私を探しててくれたの?」

 珍しいね?
 そう言って小首を傾げる女。普段あんなにとぼけた思考をしているのにこういう時だけ記憶力が良いことに腹が立つ。テメェこそ友達とやらと約束があるんじゃねぇのか。女の声が聞こえた時、確かそんなことを言っていた気がしてそう問えば、女は不思議そうにそのでかい目をぱちりと瞬かせる。いや、テメェの言動は覚えとけや。そう怒鳴りたくなった時、女はやっと思い出したかのように口を開いた。

「変な人に絡まれたらそう言えばいいよって言われてる」

 言ったのは十中八九、こいつがよく一緒につるんでいる友人AとBだろう。つるんでいるとは言え、常に一緒なわけでもねぇし女が上手く断れないのを知った上で知恵を貸したってとこか。

「はっ、それでも引き下がらねぇ相手にはなんの意味も無さそうだかな」
「そうみたい」
「テメェの話だろうが!」
「わ、」

 遂に我慢できず怒鳴る俺に、言葉とは裏腹に大して驚いていないような女。無意識に女が摩っている腕に視線をやれば余程強く握られたのか手首が赤くなっていた。もし俺があの場に居合わせなければこいつは――そう考えた自分の思考を否定する。俺は別にこの女がどうなろうと知ったこっちゃねぇはずだ。今回はたまたま声を聞いたから出ていっただけであって、目の届かない範囲でこいつの身に降り掛かることを俺は知る由もない。女は俺に期待しないし、俺も女を気になどしない。そうあるべきだ。そうでないと困る。……困る?誰が。俺が?ハッ、そんな馬鹿な話があってたまるか。

「馬狼くん?」

 体調悪いの?
 黙った俺に女はいつものように的外れな質問を投げ掛けてくる。だから俺はポケットに入れていた皺ひとつない白い封筒を取り出して……掲げた。

「……馬狼くん、取れないよ」
「ちっせぇな」
「馬狼くんが、大きい、だけ!」

 必死に背伸びをして封筒に指先を伸ばす女は傍から見てとても滑稽だと思う。つーがなんで俺はこんなことしてんだろうな。馬鹿らしい。まぁアレだ、魔が差したってやつだ。こいつと居ると調子が狂う。きっとこの腑抜けた言動のせいだ。己の奇行を女に責任転嫁したところで、白い封筒を女の顔に突き付ける。俺が声を荒げた時と同じように「わ、」と声を漏らした女は受け取った封筒と俺を交互に見て、それからゆっくりとその簡単に折れそうな細い指で中身を取りだした。

「馬狼くん、ペーパーナイフ使った?すごく綺麗にあいてる」
「あ?だったらなんだ」

 封筒を乱雑に開けるやつとは分かり合えねぇ。糊付けしてあるところをバリバリと破るなんて考えただけで腹が立つ。そう思っていると、じっとこちらを見ていた女が腑抜けた面で「丁寧な馬狼くんらしいなと思っただけだよ」と笑った。

「にほんふっとぼーるれんごー?ぶるーろっくぶろじぇくと?」
「馬鹿っぽい呼び方してんじゃねーよ」
「よくわからないけど、なんかすごそうな名前だなとは思った。馬狼くん、ここに行くの?」

 指定選手に選ばれたって書いてある。
 そう言って書類から目を離して俺を見あげる女。

「そうだ。俺の実力を見せつけてやるいい機会だろ」
「そっかぁ」

 はい、ありがとう。
 そう言って丁寧……に折ったつもりだろうが端が合わさっていない書類を封筒に戻して、俺へと差し出す女。いつまでだとか、頑張ってねだとかそう言ったよくある言葉はなにもない。本当に、予想以上に何もなかった。ただ、一歩後ろに下がった女はいつものようにへにゃりと力の抜けるような顔で笑ってこう告げる。

「いってらっしゃい、馬狼くん」
 
 特別でもなんでもないありふれたその言葉と女の顔が、なんだかわからないが無性に目と耳に焼き付いて離れなかった。



 ▽


  
「……!」

 ティーカップに口を付けた俺は、香りだけではないその味わいに思わず目を見張る。どうやら美味い紅茶をいれる店があると言うスナッフィーの言葉は間違っていなかったらしい。
 
 まだオフシーズンとは言え、チームは始動し始めているこの時期。来シーズン用の写真を撮るからとクラブハウスを訪れていた俺にスナッフィーは「紅茶が好きなら美味い店があるけど行く?」と声を掛けてきた。エスプレッソ王国とも呼ばれるこの国で紅茶の美味い店は貴重である。自分でも時間があれば探しているがまだ数は多くない。こいつに借りを作るのは正直気乗りがしなかったが選択肢が増えるという点においてはやぶさかでは無いと思った。本音を言えば店の名前だけ聞き出すのがベストではあったが、教えるつもりであれば最初から店名や場所を言っているだろう。つまりは知りたいなら一緒に行く以外にないと言うことだった。

「どう?美味いでしょ」
「……悪くねぇ」
「キミのそれは褒め言葉、ってね」

 いろんなものを天秤にかけた結果、俺はスナッフィーの誘いに乗っていた。確かに美味い。店内の雰囲気も落ち着いていて、立ち飲みスタイルが主ですぐに店から出ていくバルのようなものではなくソファでゆっくりと味わえるタイプの店。スナッフィーのわかったような口ぶりにはイラつきも覚えるが、それを差し引いてもこの店を知ることが出来たのはでかいと素直にそう思った。ただ視界に入れたくなくても入ってくる一点を除けば。

「だぁー。バロちゃんは素直じゃない、OK?」
「なんでテメェまで居やがる!ロレ公!」
「スナッフィーが奢ってくれるって言うからさぁ」
「おい!食いながら喋るな!零すな!音を立てて飲むな!汚ぇんだよ!!」
「あー、こら落ち着きなよ馬狼照英。声が大きい」

 へらへらと笑いながら両手に持ったスコーンを頬張るロレンツォの口元や手元には食べかすが散らかっている。汚すぎて見るに堪えない光景はティールームから対極にあるような存在で、思わず声を荒らげるとスナッフィーがやれやれと言ったように肩を竦めた。そもそもテメェの躾がなってねぇんだろーが!そう怒鳴ってやりたかったが、折角見つけた優良店からの印象を悪くするのは下作だと寸でのところで押し殺す。

「で?どう?こっちでの生活にはだいぶ慣れた?」
「あ?誰に言ってやがる。保護者面気取ってんじゃねぇぞ。テメェに心配されるようなことは何もねぇ」
「ならいいよ。ってロレンツォは何見てるの」
「悪いヤツらが狙うお手本みたいな子が居るなぁって」

 あんな無防備なウサギちゃんはガブッと食べられちゃうぜぇ。
 なんて言っているロレンツォに釣られてついその先を見た俺は思わず目を見開いた。……は?なんでここに?窓の外には数年前、俺に「いってらっしゃい」と告げた時と大して変わらない女がきょろきょろと辺りを見渡している姿が見えて呆然とした。あからさまに土地慣れしていない観光客の女が一人。そんなのロレ公じゃなくてもカモられることは簡単に予想が出来る。それにロレンツォはウサギに例えていたがそれはウサギに失礼だと思った。ウサギの方が何倍も警戒心が高いに決まっているからだ。

「あ、アレ見ろよォ。あの後ろを歩いてる男はこれからあの子にわざとぶつかって財布をスる、OK?」
「まぁそうだろうね。可哀想に」
 
 その言葉と同時に女の身体がぐらりと揺れて持っていたカバンの中身が道路へと散らばった。たぶん親切を装って手伝いに戻ってくる男の特徴だけは覚えておこうか、なんて会話が聞こえたのは店のドアを開けたのとほぼ同時だった。
 

 
 ▽

 

「おい」
「え?あ、馬狼くん」

 俺が女の元に辿り着いた時にはぶつかった男の姿はもうなく、地面に這い蹲っている女は俺の記憶に残るものと変わらずその無駄に大きい目をぱちりと瞬かせてそう言った。

「なにしてやがんだ」
「春からこっちで仕事をするのに一回は見とかないとかなって思って」
「は?誰が」
「私」
「……テメェ喋れんのか」
「イタリア語?うん、専攻したの」
「なんでだよ」

 こっちに住んでいる俺が言うのもなんだが、イタリア語がメジャーな言語でないことは確かなはずだ。こいつが何を選ぼうが俺には関係の無いことではあるが、ついそんな反応を示してしまう。こいつと喋るといつもそうだ。メンタルトレーニングの足りなさを実感させられるのだった。

「馬狼くんが居たから」

 だから選んだんだ。 
 そう、なんでもないように話す女。だからに続く意味がわからなかった。そんなことを理由にお前はその先の自分の人生が決まるかもしれないような選択をしたと言うのか。だからと言って俺に連絡を取るでもなく、こっちに仕事が決まったと言って会いに来るわけでもない。さっきの言葉から、きっと俺がこの土地をホームタウンにしているチームに所属していることすら知らないんじゃねーかと思う。その程度の筈なのに。

「私としては進学した先で特にこれがやりたいってのはなくて。そんな時に馬狼くんがイタリアに行ったって友達が言ってたなぁって思い出したんだ。馬狼くんにとってはたいしたことじゃなかったと思うんだけど、私の中では馬狼くんと話してた時間が楽しかったなって。だって馬狼くんは私に何も期待しないし何も求めなかったから」

 女は唄うように目を細めてそう告げる。普段は何も考えてなさそうな発言の多い女にしては珍しく饒舌に語られたそれ。何も期待しない?プリンを買って来たかと思えば食べる方のことをなにも考慮していないような個数だったり、毎日しているはずなのに一向に上達しない花の手入れだったりするような女に期待しろという方が無理な話だ。ぼーっとしているような空気感で押せばヤれると思われているだとか、強く相手を否定することがないせいでストーカー予備軍を量産しただとか言う話も聞いたが、それも俺からしてみれば馬鹿げた話だと思った。
 黙って見下ろす俺を気にせず、女は今更何かに気付いたように「あ」と声を上げる。

「でもなんで馬狼くんがここに?」
「……テメェ今更かよ。ホームタウンなんだよ、ここが」
「そっかぁ。それは本当に偶然だね……あれ」
「あ?なんか盗られたのか。まさか財布とか言うんじゃ……」
「ううん、財布は大丈夫。モバイルバッテリーの入った袋がないなって」

 でもホテルに充電器あるから大丈夫だよ。
 そう言って鞄に全て押し込んで立ち上がった女はへらりと笑う。その手からスマホをひったくると、そこの画面に表示されているのは赤くなった電池残量。それを見て思わず地を這うよな声がでたが、昔からそんな声に怯みもしない女は「写真たくさん撮ってたら無くなっちゃった」と平然とのたまった。
 知らない土地での一人旅。しかも日本のように治安のよくない海外におけるそれはこの女との相性が最悪と言っても過言ではない。先程のロレ公の言葉ではないが、こんな何も考えていないような女が一人で歩いているなんてカモがネギ背負ってふらふらしているのと同義だろう。なんなら鍋も抱えているかもしれない。こいつがこっちに来て何日目かは知らねぇが、よくここまでなんとかなっていたなとある意味で感心する。
 いやそれより問題はここからだ。俺がこれから取るべき最適解。それはタクシーを呼んで、女から聞き出したホテルの場所を告げて送り出すこと。俺は今日帰ってやるべきルーティンがあるし、近いうちにシーズン前のキャンプも始まる。こんな女に構っている場合では無い。そう、頭ではわかっているはずなのに。

「先乗れ」
「え?」
「黙ってさっさと乗れ」
「馬狼くん忙しいよね?」

 到着したタクシーの前で「じゃあね」と呑気に笑う女を先に放り込み、気付けばその横に体を滑り込ませていた。流石に予想外だったのか慌てるような声をあげる女を無視して運転手に行き先を告げると、走り出したタクシーに女はまだなにか言いたげな視線を寄越してきたが、窓の外に顔を向けることで一蹴した。

「……ありがとう、馬狼くん」

 そう一言告げて車内に沈黙が訪れる。
 今回のような偶然がなければ同じ国に居ることすら知らずに俺たちの人生が交わることは無かったはずだ。だがまたこうやって交わってしまった。俺はこの女と関わると怒鳴りたくもなるし舌打ちも出るし調子も狂う。女が何故他人に対してそうまで期待をしないのか、求めないのかなんて俺は知らない。俺には関係の無いことで知る必要も無いと思っていた。それなのに何故だか分からないが、この女を俺は見限れないし放っておけない。さっきあの場所で見送ったとしても、こいつがこっちに居ると知ってしまった以上、猫の額ほどではあるだろうがどこかで気にしてしまう。そんなことでパフォーマンスが落ちるわけではないが、瞑想の時間のノイズくらいにはなる可能性はあった。それなら先にその芽は摘んでいた方がいい。

 知らないところで俺の心を乱すくらいなら俺の目の届く範囲に居やがれ。

 ふと浮かんだそんな言葉はガラにも無さすぎて、自分自身を噛み殺したくなった。



 ▽


 
「え、それってプロポーズ?」
「あ゛?!テメェの頭沸いてんのか」
「いやだって『知らないところで何かあったら心配だから俺の目の届く範囲に居てくれ』ってことだろ?相変わらず想像を超えてくるな、馬狼照英」
「勝手に花畑な解釈してんじゃねーぞ、クソが!」

 翌日、すっかり忘れていたスナッフィーとロレンツォに事の顛末を聞かれてイラついた俺が口を滑らしたその言葉に、何故か感心されて拍手を寄越すスナッフィー。その横で「結婚式は美味い飯食える場所、OK?」なんて抜かしているロレ公に我慢できず殴りかかろうとしたところをチームメイトに止められ、そこからチーム全体にあの女の存在が知れ渡るところとなった。

「バローに女が居たらしい」
「昨日タクシーで消えたらしいぞ」
「ヒュウ、なかなかやるな!」
「式はいつだ?いつでも呼んでくれ!」
「キング、今度連れてこいよ!俺にも紹介してくれ!」
 
 口々に軽口を叩くチームメイトに怒りで震える拳を握りしめながら、やっぱりあの女に関わるとろくなことにならねぇと盛大に舌打ちをした。