bll短編


クリス・プリンスと運命的な出会い  






「だからさ、あんな地味なトレーニングじゃなくて」

 あぁもううるさいな。横で延々と蘊蓄を垂れる男の言葉がただのノイズにしか聴こえなくなってだいぶ経つ。
 仕事帰りに私が通っているジムでよく顔を合わせていたこの男性に、いつも頑張ってますよねと声を掛けられたのは数時間前。基本的にトレーニングは自分との戦いだとは理解しているけど、そうやって褒められると嬉しいもので。最近の研究で良いって言われてるトレーニング法について話そうよ、と言われた言葉にホイホイ付いてきてしまった私を叱ってやりたくなった。
 結局はただ単に自分の知識がいかに凄いかを自慢しているだけで、一つも有益なものは無かった。それに加えて私のやってることを否定してくるからたまったものじゃない。批判はまだ受け入れられるけど否定となると話は別だ。

「ねぇ、俺の話聞いてた?」
「え、あ、はい」

 反射的にそう返したけど実の所全く聞いていなかった。時計を見るといい時間になっていて、適当に誤魔化してさっさと切り上げよう。そう決意した瞬間。手に手を重ねられて肌がぞわりと粟だった。

「なにするんですか!」
「え?この話の続きは俺の家でしようって言ったじゃん」
「は?!そんなの聞いてない!」

 そんな馬鹿な話があるかと、慌てて財布からお札を適当に抜いてテーブルに叩きつけると席を立つ。あぁもうこんな人の誘いに乗るなんて私ってホント馬鹿!帰って気分転換しなきゃと店の出口へ足を進めていると、待てよ、腕を後ろに引かれる。それが誰かは見なくても分かってしまって、やめて、と半ば無理やり手を払い除けた瞬間にぐらりと傾く身体。あ、こける。来るであろう痛みに覚悟して目を瞑ったのに、触れた先は無機質なものでは無い硬さ。

『No goodーー』

 聞きなれない言葉に顔を上げると、視線の先に見えたのは見知らぬ外国人の姿。どうやらこの人のおかげで私は床に挨拶することなく済んだらしい。頭上では笑顔で彼が目の前の男へなにやら流暢な英語で話しているが、普段から英語に大して強い方ではないのにこんな状態では尚更理解できるはずもない。それは目の前の男も同じだったようで、イラついた表情を隠しもせずに叫んでいた。

「なんだよ、急に割り込んできて。俺はその子と真面目に話をしてただけだっつーの!」
『Really?』

 男の言葉にその外国人の人が私の顔を覗き込んで問い掛けてくる。簡単な英単語くらいならなんとか理解出来た私が思い切り首を横に振って目の前の男の言葉を否定すると、逆上した男は彼に殴りかかってくる。せめてこの人だけでも避けてもらわないと。そう思って申し訳ないとは思いつつ突き飛ばそうとしたのに、彼の身体は木のように頑丈でびくともしなかった。呆気に取られる私を彼はいとも簡単にふわりと抱き上げて、そのまま身体を翻す。すると殴りかかってきた男は勢いそのまま店の壁へと突っ込んだ。

「ってぇな……!」
「お客様大丈夫ですか?」

 まだ何か言いたそうにしていた男を、音を聞いて駆けつけた店員に引き渡して助けてくれた彼と一緒に店を後にする。そして店から少し離れたところで彼へ向かって改めて頭を下げた。

「Thank you very much!!えっと、助かりましたってなんだっけ……」

 言いたいことは沢山あるのに自分の語彙力の無さが悲しくなる。今度英語が得意な友達にちゃんと聞いとこう……とりあえずは少しでもお礼を伝えなくては、知っている単語を羅列していると、目の前の──よく見るととてもイケメンな彼がゴソゴソとボディバックの中を漁って、一つのイヤホンを取り出した。そしてそれを私の手のひらにひとつ乗せ、ジェスチャーで耳を指さす。これをつけろってこと?同じものを彼が耳に装着するのを見届けて、私もそれをつけてみる。

『これで聴こえるかな?』
「!!」

 なにこれ、すごい。同時通訳のように彼の声が日本語に訳されて耳へ届いてくることに驚きながら、もしかしたらと私も半信半疑の状態で言葉を発した。日本語のままで。

「貴方のお名前を伺ってもいいですか?」
『もちろんさ!俺はクリス・プリンス。よろしくね、可愛らしいお嬢さん』

 通じてる!!でもその代わり、彼の高い顔面偏差値から繰り出される甘い言葉が私に直撃して顔が火照ってくるのがわかる。いやこれは外国風の挨拶だ、勘違いしちゃダメ。日本人が慣れてないだけできっとこんなの海外では普通なんだ。だって挨拶にハグとかしちゃう文化だし。そう思ってみれば、折角ならこの非日常を楽しんでみようかと言う気持ちになれた。

「先程は本当にありがとうございました。ちょっとしつこくて……」
『そうだね、彼のような鍛え方じゃいずれ身体を壊すだろう。何故なら彼はベースになる身体作りが出来てない。それに比べてお嬢さんが最初に言ってた鍛え方はキミの身体に適してると思うよ』
「え、どうして……」

 呆気に取られる私に、クリスは『俺が居たのは近くの席でね、トレーニングの話をしてるのが聴こえてたから気になって』と軽くウインクを一つ寄越す。そう言えば抱き止められた時にも思ったけれど、彼の身体は服の上からでも分かるほど鍛えられている。この顔だし、もしかしたらモデルとかなんだろうか。話してるのは英語だけど日本に住んでるのかな。聞きたいことはたくさんあるけど、初対面の人にそんなにずけずけと聞いていいのか分からず結局なにも聞けないままだった。そこに鳴り響く着信音。私のじゃないとなるとーー

『おっと。すまない、電話だ。もしもし?え、今どこかって?どこだろうな!!』

 え、この人迷子?
 相手に向かって話すクリスの会話を聞いていると、どうやら初来日でウロウロしている内に今へ至ったらしい。相手はなにやら怒っているような声が聞こえるが、クリスはあまり意に介してなさそうだ。

『オーケー、どうにかしてそこまで向かうよ』
「あの、よければ私近くまで一緒に行きますよ」
『なんだって?喜べノア!俺の目の前には女神が居たぞ!OMG!』
 「?!」

 彼の会話に出た場所はここからそう遠くなく、助けて貰ったお礼にと手を上げるとパァっと顔を輝かせたクリスが私を抱き上げる。そしてそのままその場でくるりと回って、片腕で私を抱き留めた。待って、これはとても……恥ずかしい!!

「あ、あの……!」
『ん?』
「は、恥ずかしいので降ろしてもらえると……!」
『おっと、女神に出会えてつい気持ちが昂ってしまった!』

 そしてゆっくりと地面に降ろされると、そのまま腰をホールドされる。え、まさかこのまま……?思わず彼を見上げても、あまりにも自然に首を傾げられたのでそれ以上は何も言えなかった。







「あ、もうBLTV始まってる!!」

 数日後の昼休憩。いつもならすぐさまランチに繰り出す後輩が席に着いたままでスマホを覗き込む。

「ぶるーろっく?」

 知らない言葉に首を傾げて復唱した私。そんな私に後輩は日本の高校生サッカー選手と海外の選手が合同合宿みたいなのをして、試合を行っている様子が中継されているのだと教えてくれた。そう言えばこの前、友達が代表選手とそのブルーロックとやらの選手が試合をしてすごかったんだと言っていた気もする。

「かっこいい人いたら教えて〜」
「はぁい。あ、プリンスだ!この人イケメンなのに面白いんですよー」

 プリンス。そう言えばつい先日出会った彼もそんな名前だったような気がするな。そんなことを思い出しながら、彼女の手元にあるスマホを覗き込んだ瞬間だった。

「クリス?!」
「そうですよー、クリス・プリンス」
「なんでこんなとこに……」
「なんでってイングランドの指導者ポジションで参加してるんですよ」
「……有名人なの?」

 私の言葉に後輩は、知らないんですか?と驚いた顔を向ける。自慢じゃないがスポーツにはだいぶ疎い。辛うじて日本の有名選手が分かるくらい。

 「世界一のストライカーって呼ばれてるノエル・ノアと人気を二分する世界的ストライカーですよ。最優秀選手賞の投票でも二位でしたし」

 私はノエル・ノア派ですけどね!
 そう言う後輩の言葉は私の耳には届いていない。ただ目の前の画面で爽やかに裸体を晒している彼と、カバンの中に残っているイヤホン、そして彼との別れ際の言葉を思い出して頬に熱が集まるのを感じるだけだった。

『キミに惚れた!一通りの仕事が終わったら迎えに行くから待っててくれよ、俺の女神』