エクリュと輪舞曲を


7  






「今からハルを連れてシドニーに行って来る」

色々あった地方大会を終えて、全国大会までのオフ期間。渡豪の前に俺は名前を呼び出して浜辺の石段に座っていた。

「それはまた、すごく急な話だね……」

俺の言葉に目を丸くして驚く名前は、横においてある大きなバックパックに視線を移すとそれをまじまじと見つめている。

「まぁ、な。でもこのタイミングじゃねえとダメなんだ」
「そっか。うん、でも凛がそうするって決めたならきっとそれで良いんだと思う」

気をつけて行って来てね。
そう言って微笑む名前に今度は俺が驚く番だった。だって急に今からシドニー行ってくるって言って、いってらっしゃいって言うか?普通。

でも、そうだ……
俺が岩鳶小に転校するって言った時も、シドニーで連絡をしなくなった時も、鮫柄に戻って来た時も、いつだってこいつは何も言わずに俺のやることを受け入れてくれていた。周りからすれば理解出来ないようなこともあった筈だが、名前だけはいつも、否定すること無く俺を認めてくれた。今思えばそれがとてつもなく嬉しかったんだと思う。
親父を早くに亡くして、男である俺が家族を守らないといけないと思った。今まで俺たちを守ってくれていた親父のようになりたかった。親父のように速く泳げるようになって、親父が諦めた夢を叶えたかった。そして同時に、どこかでそうならなければいけないと思っていたのかもしれない。

だからリレーに憧れて、岩鳶へ転入してハルたちと最高のリレーが出来た時は嬉しかった。シドニーへ行った時も、これで夢が叶えられるんだと思っていた。でも現実はそうではなくて。挫折を知って、何もかも諦めて帰って来てこの場所で名前を見かけたあの夜。あんな状態を知られたくないと思って連絡しなかったのに身体が動いたのは、海へ向かう名前を引き留めようと必死だったのも本当だが、心の何処かで名前ならあんな状態の俺でも受け入れてくれるんじゃないかとそう思ったから。
名前を助けるつもりで、本当に助けて欲しかったのは俺の方だったのかもしれない。
そして結果は俺の望む通りになった。荒んでいた俺を見捨てること無く、全てを受け入れてくれた名前のことを、やっぱり俺は……

「凛?」

名前の声で意識が目の前へ戻る。やべ、名前のこと見たままだった。不思議そうに首を傾げる名前は座っていても俺より小さく、どうしても見上げる形になるわけで。その上目遣い、反則だよな。あぁ、だめだ。その髪に、その身体に、その唇に触れたいと一度でも思ってしまえば歯止めが効かなくなりそうで、思わず頭を掻く。今日伝えなければならないことを、まだ残している間は余計なことは頭の隅へ追いやらなければ。

「名前」

呼んだ名前は上擦っていなかっただろうか。
俺の様子になにか察したのか、名前も居住まいを正して次の言葉を待っている。

「シドニーのコーチから、もう一度来ないかって連絡があった」

そう。ハルとシドニーへ行くと言う報告も勿論あったが、本当に伝えたかったのは高校卒業後の進路について。日本の大学からのスカウトと同時に届いたエアメール。その内容をどうするか、俺はまだ決めかねていた。

「俺、」
「どうしよう、凛。すごく嬉しい」
「え?」

返ってきたのは思いがけない言葉と、目の前で口元を抑えて泣き出しそうな名前。
嬉しい?名前が?どうして? 
そんな思いが伝わったのか、名前は一度ゆっくりと深呼吸してから言葉を続ける。

「だって凛の努力、ちゃんと認めて貰えてたってことでしょう?」

だからそれがすごく嬉しいの。
……あぁ、本当に。なんだってこいつはいつも俺の一番欲しい言葉をくれるのか。嬉しいのはお前の言葉だ。そう思うとつい視界が滲みそうになるのを隠すように、目の前の名前を抱き締める。思いの外すんなりと腕の中に収まるのは先程まで触れたいと思っていたのを必死に我慢していたぬくもりで。

「名前」
「なに?」
「俺、やっぱりお前が好きだ」
「……」
「シドニーから帰って来たら返事、聞かせて」
「……うん」

髪の間から見えるのは赤く染まった耳。見えない顔もきっと同じ色をしているんだろう。
なぁ名前。期待、していいのか……?







「にしても本気で七瀬連れてシドニー行くとはな」
「凛だからね」

凛と七瀬が日本を離れると言った時間、俺は名前と一緒に自分の部屋の窓から空を見上げていた。呆れたような俺の声に、クスクスと名前が笑う。窓辺から離れて定位置のカーペットの上へ座ると、テーブルの上に準備していたプリンを一つ手に取る。どうやら東京にいる親友に送ってもらったらしい。

「美味いか」
「うん、美味しいよ。宗介も食べる?」
「あぁ。それより、お前どうするんだ」
「?」

俺の質問にスプーンを加えたまま首を傾げる名前。それは行儀悪いからやめとけ。なんて保護者のようなことを思う自分に呆れつつ、分かっていない名前のためにストレートな言葉を投げる。

「凛に告白されたんだろ」
「え、なんで知って……」
「七瀬の家に寄る前にお前に会っていくって言ってたからな。なんとなく想像はつく」
「うそ……」

分かりやすいからな、凛は。
なんて言えば、耳まで真っ赤にした名前が口元を抑えて固まる。長い付き合いとは言え、そんな表情を見るのは始めてで、そんな表情をさせているのが自分じゃないということに微かなもどかしさを感じた。

「好きななんだろ、凛のこと」
「それはもちろん好き、だけど……」

ここまで来てまだ自分の気持を掴みきれずにいる名前は、きっといま自分がどんな表情をしているのか分かっていないのだろう。そんな幼馴染みの姿を見ていると、ちょっとした悪戯心が湧いても仕方ない。そう自分を正当化して、名前との距離を縮める。

「そ、宗介?」
「凛にキスされてたよな」
「なっ……」
「去年の地方大会。たまたま見かけたんだよ」
「え……」
「なぁ。今から俺がお前に同じことしたら、どうする?」

ニヤリと笑ってそう言えば、名前の肩が跳ねる。俺を映す目が揺れたのを見て、全てを理解してしまえる自分が今だけは憎かった。そっと頭に手を乗せ、今まで慰めてきた時のように撫でてやると、緊張が解けたように名前の身体から力が抜ける。これから先、この役目を誰かに譲ってしまうのは悔しいが、それが他でもない凛、大事な親友であるならばそれでもいいかと思った。

「名前姉。俺に対する好きと、凛に対する好きは違う。それはもうわかってんだろ?」


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