エクリュと輪舞曲を


6  






「相変わらず宗介のおうちのご飯美味しいね」

貴澄くんに会った日の夜。
宗介の実家で夕飯を頂いた私達は宗介の部屋に居た。地方大会前だと言うのに、話があるのと言えばこうやってわざわざ外泊許可まで取って帰って来てくれる宗介は相変わらず私に甘いと思う。そもそも大会のことを思えばこんな時期に呼び出すなんて練習の邪魔にしかならないのだけれど、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
貴澄くんに聞いたことを、本人にちゃんと確認しないといけない。

「親父もお前が美味そうに食ってるの見ると嬉しいってよ」
「ほんと?」
「あぁ」
「よかった。……ねえ、宗介」

名前を呼ぶと、椅子に座っている宗介がなんだと首を傾げる。カーペットに座っているせいで必然的に宗介を見上げる形になる私と宗介の距離は、数ヶ月前宗介が帰ってきた時と同じ距離。手を伸ばせば届く距離な筈なのに、それが今はとても遠く感じる。その翡翠色の双眸と視線を絡ませたまま言葉に詰まる私に、なにかを感じ取ったのか宗介が少し眉を潜めた。

「私に、なにか隠してること……あるよね」

震えそうになる声でなんとか絞り出した言葉は疑問ではなく断定。この一言を言うだけなのに、私の喉は発声法を忘れたように張り付いて仕方がなかった。

「電話じゃ話し辛いとか言うから何かと思えば。そんなこと、」
「宗介」

いつものように話す宗介だけど、一瞬眉が跳ねたのを見逃してはいない。宗介はいつも私の些細な感情を読み取ってくれるけれど、私だって宗介の僅かな表情の変化に気が付けないわけじゃない。少し強く呼んだ名前に、宗介の顔から笑顔が消える。

「……誰から聞いた」
「貴澄くん……」

その名前に宗介が舌打ちをする。名前出した貴澄くんには悪いけれど、その反応で彼の言っていたことが事実だったと思い知らされる。

「いつからなの……?」
「……高1」
「なん、で……」

言ってくれなかったの。
続く言葉は音にならない。高一からだなんて全然知らなかった。一年以上も前からという長い時間に頭を思い切り殴られたような衝撃に襲われる。そして同時に、あれだけ話していたのに気付けなかった自分が情けなくて腹立たしくて色々な感情がこみ上げて、宗介の顔を直視できずに手元へ落とした視界が歪んだ。宗介が黙っていた理由なんて簡単に想像出来る。だからこそ私は気付かないといけなかったのに。少し前に些細な表情変化に気付けると思ったけれど、結局は目の前に居なければなにも出来なかった。
宗介は私に多くのことをくれるのに、私は宗介になにもしてあげられていない……

「名前」

宗介が名前を私の名前を呼ぶけれど、自分の不甲斐なさに俯いた顔は上がらない。

「名前。顔上げろ」

もう一度呼ばれた声に、ゆるゆると首を振る。考えすぎてぐちゃぐちゃな今、どんな顔をして宗介を見ればいいかわからない。そんな私の様子に、はぁ……と溜息を吐くのが聞こえて思わず肩が揺れる。こんな時期に呼び出した挙げ句に勝手に怒って、勝手に泣いて、迷惑ばかりかけている私にいい加減、愛想を尽かされたのかもしれない。
どうしよう、宗介に嫌われたら私……

「考えすぎだ、馬鹿」
「そ、すけ……」
「こうなるのが分かってたから言いたくなかったんだ。言えば絶対泣くし、気付けなかったって自分を責めるのがわかってたからな。お前は悪くない。言わなかったのは、俺がお前に立ち止まった姿を見られたくなかったからだ」

だから泣くな。
苦しそうに吐き出された言葉を聞いたのは宗介の腕の中。辛いのは自分の筈なのに、こんな時でも私を気にしてくれる宗介に、我慢していた筈の涙が溢れ出して止まらない。なのに私の頭を押し付けるから、溢れる涙は全て宗介のシャツに吸い込まれていった。
それから宗介は、なかなか泣き止むこと出来ない私の背中を撫でながら全てを話してくれた。凛と一緒に夢の舞台に立つために高校で練習に励んだ結果、トレーニングのしすぎで右肩を壊したこと。リハビリと故障の繰り返しで、もうどうしようもない所にまで来てしまったこと。
そして……水泳を、辞めると決めたこと。

「宗介……」
「頼む、凛には言わないでくれ。最後にあいつと一緒に泳ぎたいんだ」

名前を呼んだだけなのに、私の言いたいことを理解したのか宗介が先手を打ってくる。やっぱり凛には言ってないんだね。言ったら凛のことだから絶対止めてるもの。
本来ならばこれ以上無理をさせるなんて有り得ない。凛に伝えてでも止めるべきだ。それが正しいはずなのに。

「俺の新しい夢なんだ。凛と、あいつらと一緒に泳いで本当の仲間になりたい。そしてそれを、名前に見ていてほしい」

狡い。そんな言葉を、わざわざ視線を合わせて言うなんて。そんな風に笑って言われたら、もう止めることなんて出来るわけがなかった。だって、凛と宗介がもう一度同じチームでリレーを泳ぐ時が来るなんて、あの小学生時代を見ていれば想像も出来なかったことなのだから。

「宗介がそんなこと言うの、同室で生活してたせいで凛のロマンチストな部分が伝染ったんじゃない……?」
「そうかもな」
「凛にバレたら絶対怒られるよ」
「それに泣かれるな。名前、その時は助けろよ」
「ええ、どうしようかな……」

惚けるように返すと、弟を見捨てるのか、と言う言葉とともに軽く頭突きをされる。痛いよ。そりゃ悪かったな。額を合わせたままの態勢で、暫く経つとどちらからともなくクスクスと笑いが溢れた。そしてやっと直視出来た宗介の右肩へそっと手を伸ばす。

遠い所で、一人で頑張ってたんだよね。
気付いてあげられなくてごめんね。
それでも、全部話してくれてありがとう。

「ねえ、宗介」
「なんだ」
「私はずっと、なにがあっても宗介の味方だよ」
「……ありがとう、名前姉」

色々な人の運命を決める地方大会が、はじまる……







地方大会初日は波乱尽くしだった。中でも驚いたのはハルくんがレース中に立ってしまったことだろう。あれだけ泳ぐのが好きなハルくんがああなってしまった原因は、きっと周囲からのプレッシャー。凛達のように明確な目標が決まっていない中で、スカウトの話や進路についてなど色々なことを考えないといけなくて前に進めなくなっているんだと思う。たぶん、凛がハルくんのことを考えた結果の言動が、余計に彼を悩ます一因になってしまったのもあるだろう。ごめんね、凛ってそう言う所があるから……。
でも、ハルくんには素敵な仲間が居るからきっと前に進むきっかけは掴めると思う。だから、頑張って。そう心の中でエールを送って、凛のバッタの予選を見守った。結果は予選通過でホッと胸を撫で下ろす。これならきっと凛の望んでいたスカウトの目にも止まるだろう。早くおめでとうと言いたい。そろそろ戻ってくる頃だろうと、観覧席を後にして少しでも早く会えるように通路へ向かった結果。

「お前、肩痛めてんだろ」
「やめろ」

通路を曲がろうとした先で聞こえた聞き慣れた声に思わず身を隠す。そっと伺うと、宗介の足元には彼の大好きな炭酸飲料の缶が転がっていて、きっと凛が投げたそれを受け取れなかったのだと想像出来た。責めるような凛の声に観念した宗介が話し始め、場所を変えようと言う凛の言葉で二人はその場から立ち去って行く。きっと外に出たんだろう。二人の姿が完全に見えなくなったのを確認して、さっきまで宗介が座っていたベンチへ腰掛ける。足元に転がっていた缶を手に取り拾い上げると、表面の水滴が一筋、私の手へ伝う。それはまるで泣いているかのようだった。

「名前さん!」
「愛くんとモモくん……」

名前を呼ばれて振り返ると、息を切らせて走ってきた二人の姿。聞けば、凛と宗介を探していると言う。そうか、もうすぐリレーが始まるんだ。

「お二人を見かけませんでしたか?どこにも見当たらなくて……」
「名前さんなら知ってるかなと思ったんスよ!」

必死な二人の姿に、いい後輩……いや、いい仲間を持ったねと思わず笑みが溢れる。凛と宗介だけでは無理なことも、きっとこの二人が居てくれれば大丈夫な気がした。
だから私は先程凛達が向かった方、建物を出てあまり遠くない所に居ると思うと伝える。するとお礼を言って走り出す二人。

「愛くん!モモくん!」
「?」

そんな彼らの背中に向かって声を掛けると、振り返る二人が揃って首を傾げる。

「凛と宗介を、よろしくね」
「「……はい!!」」
私の言葉に大きく頷いてもう一度走り出す二人。きっと大丈夫。あの四人なら最高の景色が見れる筈。だってもう、最高の仲間になれているんだから。







遂に始まったメドレーリレー。
モモくんから愛くんへと繋がり、スターティングブロックの上には宗介の姿。今度は自分の意志で居させて欲しいと頼み込んだ鮫柄の応援席では、部員達が宗介の肩に気付きざわつき始める。今すぐにでも止めたくなる気持ちを何とか抑えて握り込んだ手は、真夏だと言うのに白く冷たくなっている。宗介は私に見ていて欲しいと言った。凛は最高の仲間とリレーを泳ぐと言っていた。愛くんとモモくんにはそんな二人をよろしくとお願いした。だから私にはしっかり最後まで見届ける義務がある。大丈夫。私は彼らを、信じている。宗介が飛び込むと同時に聞こえる御子柴くんの叱咤激励の声に私の気持ちも奮い立つ。神様が居るとするなら、お願いです。あと50メートル、ちゃんと凛の元へ帰れますように。祈る私の思いも虚しく、ターン後程なくして泳ぎが乱れる。宗介自慢のリカバリーも痛みのせいだろう、上半身が上手く上がらずに機能していない。凛が叫ぶ声が聞こえる。
お願い。後少し。

「宗介っ……!」

気が付けば大声で叫んでいた、今までこんなに大きな声を出したことは無いかもしれない。みんなの声が届いたのか、宗介の泳ぎが戻り、遂に凛へと繋ぐことが出来た。隣のレーンのハルくんに少し遅れるように飛び込んだ凛の姿はあまりに綺麗で、思わず息を呑む。

「凛、頑張って……!」

宗介の、後輩二人の思いを背負って追い上げる凛に、ハルくんも負けてはいない。あの様子だと、吹っ切れたんだね。よかった。そう思う間にほぼ同時のターンで残り半分。  
お互いの大切な仲間との絆を、約束を胸に泳ぐ二人の姿にただただ私は見惚れていた。

最後までどっちが勝ってもおかしくないそのレースの結果は、一位が岩鳶で鮫柄は二位と言う結果で幕を閉じた。どちらも全国大会へ出場が決まり、周囲が歓声に沸く。そんな中、眼前で抱き合う凛達の姿は、溢れる涙のせいで上手く見えなかった。
あぁ、凛と宗介を笑顔で迎えたかったのにな。
こんな顔だときっと宗介にはまた苦笑されるだろう。でもきっと凛は同じような顔をしているから大丈夫な気もする。そう言えばまた拗ねてしまうかもしれないけれど。

「おかえり。みんな、おつかれさま」

やっぱり我慢できずに溢れる涙と共に、私の口元は今日始めて緩んだ気がした。


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