エクリュと輪舞曲を


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「名前、拗ねんな」
「拗ねてない」

玄関での衝撃的な再会後の宗介の部屋。
椅子に座って呆れ気味な宗介と、宗介に背を向けカーペットに座り込んでいる私。
驚いて何も言えなかった私に伝えられた話をまとめると、卒業後の進路も決まったと言う宗介は、最後の一年間を地元で泳ぎたいと決めて高校三年生に進級すると言うこの時期に、鯨津高校から転入を決めたらしい。しかも転入先は凛のいる鮫柄。
それはもう、地元で泳ぎたいんじゃなくて凛と一緒に泳ぎたいんじゃないかと思う。
そしてそんな大切なことなのに、毎日電話していた私は進路が決まったことも、こっちに戻ってくることも知らなかった。これは少しくらい怒ってもいいよね??

「ちゃんとお前の好きだって言う店のプリン買ってきてやっただろ」
「それとこれとは話が別だよ」

宗介の言葉通り、座り込んでいる私の手には東京で有名と言われるプリンの瓶。話が終わった後にお土産という名のそれを渡された私は、その機嫌取りとも言える品を静かに食べていた。だってプリンに罪はない。うん、やっぱり美味しいよね。この優しい卵の味とホロ苦いカラメルが最高だと思う。
だけどこれで秘密にされていたことを許せるなんて簡単な話ではないのだ。少しは反省してるのかな、なんて思いで黙々と食べていると、はぁと言う溜息に続いてカバンを漁る音がした。

「じゃあ、これもやる」
「なに、……っ!」

その言葉に振り向くと、宗介の手には私の贔屓にしている紅茶専門店の缶。思わず固まる私に、宗介は少し困ったように眉を下げた。

「言わなかったのは悪かった。頼む、機嫌直してくれ。折角帰ってきたのにお前とちゃんと話せないのは辛い」
「……宗介はずるいね」

はぁ、と今度は私が溜息を吐いて宗介の方へ向き直る。どうやら私の負けらしい。
それは決して大好きな紅茶を貰ったからではなく、私は宗介のその顔に昔から弱いのだ。しかも私と話せないから辛いなんて、ついさっきまで悪かった私の機嫌はその言葉だけで急上昇していた。
なにより理由はどうあれ、宗介が帰って来たと言う事実は私にとって嬉しい以外の何物でもないのだ。私にとって一番身近で、凛にとっての江ちゃんに負けないくらい大切なその存在。とっくに空になっていたプリンの瓶を机に置いて膝立ちをすると、私のことなんてお見通しな宗介が両手を広げる。何も言わなくても通じることに尚更機嫌が良くなる私は単純で、緩む口元を隠さないままにその大きな胸へ飛び込んだ。

「……おかえり、宗介」
「ただいま、名前」







「ふふ、桜のプールちゃんと見れたんだ」
「桜?」

 宗介の買ってきてくれた紅茶を淹れて戻ってくると、メッセージが届いていた。宛先は凛からで、添付されたファイルを開くと桜が一面に浮かぶプールの写真。ハルくんたちが言っていた計画は市民大会の後、無事に実行されたらしい。

「うん。岩鳶高校のプールにね、桜の花びらがたくさん浮かんでて綺麗だから凛に見せようってハルくんたちが言ってたのが今日だったんだけどね。無事に成功したみたい」

彼らから結果を聞いたわけではないけれど、凛のテンションの高い文章を見ると成功したのは一目瞭然だ。涙もろい凛のことだから、感極まって泣いたんじゃないだろうか。そう言えばきっと「泣いてねえ!」と返ってくるんだろうな、と思わず笑みが溢れる。

【よかったね、素敵な景色だったでしょ?】
【おう。あいつらに感謝しねえとな。そう言えば、市民大会はハルと同着だった】
【お疲れさま。そっか、二人とも速かったんだろうね。見に行けなくて残念】
【名前も久々に泳げばよかったんじゃねえの?】
【うーん、最近泳いでなさすぎて体も全然だからね……また考えとくよ】

 何度かそんなやり取りをしていると、宗介がじっとこちらを見ていて顔を上げる。

「凛は、世界を目指すんだったよな」
「うん、そう言ってたよ。もうお父さんの夢じゃなくて凛の夢になったんだって」

自分の夢が決まったと報告してくれた時の凛の表情は今でも直ぐに思い出せる。朝日を反射する水面と同じくらいキラキラと輝いていて、あぁきっと凛なら叶えられると思ったあの時。もう半年前なんだ。懐かしいな、なんて思っていたらその後の出来事まで思い出してしまった。いや、あれから何も無いし……だめだ。忘れようと思えば思うほど顔に熱が集まるような気がして、それを追いやるように頭を振る。

「なら、そんなことやってる暇ねえだろ」

だから、宗介が小さく呟いたそんな言葉は私の耳には届かなかった。

「名前、携帯光ってる」
「え、あ、ホントだ。えっと……」

宗介に言われて慌てて携帯電話を開くと、凛からの返信が届いていたらしい。

【そういや今日は大学の用事があるって言ってたよな。もう家にいんの?】

家という文字を見て思わず考える。家と言えば家だし、自分の家では無いとは言え、隣の宗介の家はほぼ自分の家と言っても差し支えの無いくらいには馴染んでいる。
でも……

「宗介、凛にこっち帰ってきて鮫柄転入するって言ってあるの?」

先程の話ではそこまで聞いていなかった。もしかして、と思って一応聞いてみると面白そうに口角を上げる宗介。あぁ、これは。

「言ってねえ」

驚かせてやろうと思って。
そう言って笑う宗介に、また大きく溜息を吐く。ならば返信の文章に宗介の名前は出さないほうがいいのだろう。

【うん、もう帰ってるよ】

宗介は凛の反応を見て楽しみたいのだろうけれど、驚かされる身にもなってよね。
数時間前の自分と明日以降の凛を重ねて同情しつつ、送信ボタンをそっと押した。


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