クラレットに口付けを


7  






「凛……?」

目の前の光景が信じられない。自由形100メートル予選。凛はスタートを失敗し、得意のターンもうまくいかない。そのまま順位を上げること無くゴールした後、プールから上がろうとして何度もずり落ちるその姿は、この前笑いあった彼とは似ても似つかず、気付けば観覧席から走り出していた。







凛を探して館内を走っていると、大きな物音がして立ち止まる。もしかして。そう思って物音のした方へ走る。水泳から離れて久しい身体は恨めしいほど直ぐに息が上がった。やっとの思いで辿り着いた入り口で、バッグを持って歩く凛の姿を見つける。

「凛!」

私の声に凛は一瞬顔を上げただけで、そのまま止まること無く歩いて行く。このまま行かせてはダメだ。そんな予感がして、思わずその腕を掴んで引き留める。

「どこ、行くの?」
「うるせえ」
「さっきはちょっと調子悪かったみたいだけど、まだ次、頑張ろう?」
「次はねえ」
「え?でも、リレーが……」

その言葉を発した瞬間、凛が思い切り顔を上げて睨まれる。その目は鋭く、思わず掴んでいた腕を離してしまった。そして地の底から響くような声で言われた衝撃的な台詞。

「リレーは出ねえ」
「……え?」
「外されたんだよ!今日で辞めだ、リレーも!水泳も!」

叫ぶ凛の声が遠い。
外された……?凛が?だから辞める?水泳を……?
いきなりの状況に思考が追いつかない。立ちすくむ私を置いて、凛は施設から出ようとする。何があったかわからないけれど、このまま帰してしまえばもう凛に会えない気がして、気付けばその背中に縋りついていた。

「凛!それでいいの?本当にそれで後悔しないの?」
「うるせえな、さっきから!!お前に何がわかる!?お前は俺のなんなんだよ!!」

激高した凛が私を振りほどき、その衝撃で思わず壁に背中をぶつけた。でもその痛さなんかよりこんなに荒れる凛を見る胸のほうがずっと痛い。ともすれば泣いてしまいそうな自分を叱咤して、凛を強く見つめ返した。

「私はっ……凛のこと本当の弟のように思って、」
「ふざけんな!!」
「り……」

呼ぼうとした最後の一文字が音になることはなかった。

「……俺はお前のこと、姉だなんて思ったことは一度もねえよ」

耳元で苦しげに吐露された言葉を理解出来たのは、凛が立ち去って暫く経ってから。力なくその場に座り込む私の唇に残る熱だけが、そこに凛が居たことを示していた。







あの後、どうやって観覧席まで戻ったのかはあまり覚えていない。

「名前ちゃん!!見て、お兄ちゃんが……!」
「……え?」

叫ぶ江ちゃんの指差す先を見ると、岩鳶のレーンのスターティングブロックで準備をしている見慣れた姿が目に入る。見間違える筈のない、あの赤い髪、あの姿。渚くんが戻ってくると同時に飛び込む姿に、あの時見たリレーが重なる。今までで一番凛らしい、力強くも美しいその泳ぎを見た私の目からは涙が止まらない。
そして、レースが終了し一位で戻ってきたハルくんに抱きつく凛を見て、私は心の底から安堵した。

「凛……よかったね」

笑顔も、泣き顔も、全部戻ってきた。あの頃と変わらない四人の姿は今も昔も変わらずキラキラと輝いていて眩しい。みんな、本当にありがとう。
そしてもう一人。私には感謝するべき人がいる。涙を拭って、彼の名前を呼ぶ。

「怜くん」
「なんでしょう?」
「ありがとう」
「そんな、名前さんにお礼を言われるようなことは……」
「私が言いたいだけだから、気にしないで」

そう言う私に怜くんは、そうですか、と少し照れたようにメガネを上げてみんなの元へ向かう。私が出来なかったことを怜くんが、ハルくんが、マコくんが、渚くんがやってくれた。だから彼らにはお礼をいくら言っても足りないと思う。だけど、きっとこれ以上言っても困らせるだけだろうから、これからも岩鳶水泳部の手伝いをすることで少しずつ還元させて貰おうと心に誓った。


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