クラレットに口付けを


6  





『凛に会った?あいつやばいよ、この前も七瀬くんをフェンスに叩きつけてたりね、ホント近付かない方がいいと思う!』

大学からの帰り道。私はまた夜の浜辺で波の音を聞きながら、県大会前に顔を出した岩鳶高校で佐野小時代に仲良くしていた後輩の子に言われたことを思い出していた。

『昔の凛とは違うんだよ!!私は先輩が何かされないか心配なの!』

彼女は私のことを心配してくれて言っていたけれど、何度か会った凛の本質はきっと変わっていない。ここで再会した時も、合同練習の時も、無人島合宿の時だってそうだ。昔あった明るさや人懐っこさは確かになりを潜めているけれど、根底にある優しさはちゃんと伝わっている。
それでもこの前の県大会でのハルくんと泳いだ凛の様子はやはり何か違っていた。勝負に勝った凛がハルくんへ言った言葉が何だったかは観覧席に居た私にはわからなかったけれど、それが二人の関係を良くするものではなかったことは明らかで。昔なら手放しで喜べていた凛の勝利も、あの時の二人の様子を見ていると素直に喜ぶことが出来ない自分が居た。

『名前、聞いてくれよ! 岩鳶にすげぇやつがいるんだ!七瀬って言って……』

波の音を聞きながら目を閉じると、小学生の凛の興奮した声が聞こえてくる。これは確か凛が初めてハルくんのことを教えてくれた時の思い出だ。

『俺、あいつとリレー泳ぎたいんだ』

そう言った凛は本当にお母さんを説き伏せて岩鳶小学校へ転校していった。六年生の冬に転校だなんて、と驚きつつも、その思いの強さが眩しかったことを覚えている。

『あいつがリレー泳いでくれるって言ったんだ!これでリレーが泳げる!』

何度も何度も頼み込んでようやくハルくんが頷いてくれたと報告してくれた時の凛の笑顔は、もしかしたら一番輝いていたんじゃないかなと思う。そしてハルくん、マコくん、渚くんと一緒に泳いだメドレーリレーの結果に思わず私は涙した。
その四人の笑顔が、泣き顔が、とてもキラキラしていたから。
それなのに……

「なんでこうなっちゃってるんだろう……」

思わず呟いた言葉は波の音に溶けていく。再会してからの凛の言動や、この前会った後輩に聞いた話から考えて、きっとハルくんとの間でなにかあったことは間違いない。だけどそれを聞いていいものか、もし聞いたところで私に何か出来ることがあるかと言われると、きっとそんな気の利いたことは出来ないんだと思う。
そっとカバンの中から携帯電話を取り出してみる。県大会後から何か送ろうとして、その度に書いては消してを繰り返しているメッセージ画面。また今日も送れずにただ眺めるだけの時間が過ぎるのだろう。溜息を吐くと同時に手の中の端末が震える。慌てて覗いた画面に映し出された着信表示の名前に、通話ボタンを押す指は僅かに震えていた。







「お前な、こんな時間にまた一人でんなとこほっつき歩きやがって……」
「そんな時間に呼び出したのは凛でしょう?」
「家に居ると思ったんだよ」

だから迎えに行こうと思ってた。
石段に座る私を見下ろして、呆れたように凛が言う。でもその息は少し上がっていて、きっと私がここに居るってことを心配して急いで来てくれたことが分かって心がじんわりと温まる。やっぱり凛は変わってないよ。少し昔より、感情表現が不器用になっているけれど。
そんなことを思っていると、凛が私の横に腰掛ける。この並びは出会った日と同じだ。

「……この前、竜ヶ崎が俺のとこに来た」
「怜くん?」

凛の口から出たのは予想してなかった名前で、思わず聞き返す。接点の無い二人が何を話したんだろう。疑問に思いつつも聞けない私に、凛は海を見つめたままぽつりぽつりと静かに話をしてくれた。

県大会の後、凛は鮫柄でメドレーリレーに出ることにしたと言う。それを聞いた怜くんは、ハルくんに勝ったのに今更リレーに出るなんて何がしたいんだ、ハルくんをどうしたいんだ、あなたは何をどうすれば満足なんだと聞きに来たらしい。凛はどうして当事者でもない怜くんにそんなことを言われなきゃならないんだと、思わず怒鳴り返してしまったらしいけれど、きっとそれは今年になって初めてあの三人とリレーを泳いで、その楽しみを知った怜くんだからこそ言えた言葉なんだと思う。きっと怜くんにとって、あのメンバーがとても大切で、地方大会でも一緒に頑張りたいと思うからこそ、凛との過去を引きずってチームの雰囲気がギクシャクしてしまうのが辛いんだろう。
でも凛は?怜くんの純粋な思いをぶつけられた凛は何を思っているんだろう。

「凛は、どうしたいの?」

恐る恐る尋ねた私に、凛の肩が少し跳ねる。そして海から視線を外して、私とは反対へ顔を背ける。この聞き方は間違えたかな、なんて後悔をし始めた頃、波の音でかき消されそうな声で凛が囁いた。

「あいつに、今までのこと話そうと思う」
「そっか」
「その前に、お前に聞いて欲しいことがあって」
「……うん」
「俺、オーストラリアで思うように泳げなくて、水泳を辞めようと思ったんだ」

膝に乗せた腕に頭を埋めるようにして、凛が吐き出すように紡いだ言葉。
そっか、やっぱり壁に当たってたんだね。宗介と一緒に送っていた手紙が返ってこなくなった頃なんだろうなと、今まで思っていたけど聞けなかったことが一つ解決する。

「毎日練習して、大会に出て、でも思うように泳げなかった。周りにどんどん置いていかれるような気がして、なんで俺だけって思った。そこで思ったんだ。リレーなんてやってるからだって」
「それは……」

違うよ。
そう言いかけて、やめた。それはきっと私に言えることではないと思ったから。凛がどのような表情でそう言っているのかはわからなかったけれど、その考えに行き着いた時、そして行き着いてから今までがどれだけ辛かったかはわかる。

「それでもあの夜、ハルともう一度泳いで吹っ切れて、また泳ごうと思った。それでこの前、県大会であいつらのメドレーを見て思い出したんだ。あの時のリレーのこと」

そう言うと凛は顔をあげる。そして私を見つめて、一度私の名前を呼んだ。

「俺は鮫柄でリレーを泳ぐ。最高の泳ぎを見せてやる」

強い決意の元、伝えられたその言葉に思わず息を呑む。そして気付けば凛を思い切り抱きしめていた。

「凛、凛……」
「あー、なんでお前が泣くんだよ……」
「だって、凛、一人で大変だったよね……辛かったよね……」
「……別に、大したことじゃねえ」

涙が止まらない私の背中を凛が呆れたように撫でる。その手付きはやっぱり優しくて、余計に涙が溢れてきた。

「凛」
「なんだよ」
「地方大会、応援してるね」
「っ……!あいつらには負けねえ。俺の速さ見せてやるよ」
「ふふ、楽しみにしてる」

月明かりに照らされて、お互いの額がくっつきそうな距離で笑い合う。こんなに凛と笑ったのはいつ以来だろう。きっとこの凛なら大丈夫。地方大会では鮫柄のみんなとの最高のリレーを見せてくれる。そう思っていた。

地方大会の凛の泳ぎを見るまでは……


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