夢を見た。
ハルの家へ行くとそこには縁側に金魚鉢が置いてあるだけで、誰も居ない。立ち尽くす俺に風鈴の音とセミの声が怖いくらい大きく聴こえる。本当に誰も居ないのか……?
ギシリと床の鳴る音が聞こえて振り返ると、そこにはハルが立っていた。
「何しに来た」
んだよ、居るんじゃねえか。何しに来た? そんなもん、勝負しに来たに決まってる。
「俺はフリーしか泳がない」
そう言ってハルが背を向ける。待てよ!慌ててその背中を追いかけた。ハルがくぐった扉の向こうは……プールだ。スターティングブロックの上でハルが俺を振り返る。
「早く来い」
「俺とお前の差を見せてやるよ!」
一度目を瞑ってもう一度ハルを見ると、目の前には親父の姿。なん、で……?
訳の分からないまま、走る親父を追いかける。トンネルを抜けると、そこには白装束の集団が居て思わず息を呑む。押し寄せる気持ちを振り払うようにその集団をかき分けて走る。その先に見えたのは小さい頃の俺と江の姿。幼い俺がこちらを振り返って何かを呟いた。見つめる視界の端、どこか知った面影を持つ少女が映る。俺の記憶にある姿よりは少し幼いが、見間違えるはずのない少女……名前は沈痛な面持ちでこちらを見つめていた。
そこでハッと目が覚める。似鳥が心配そうに声を掛けて来たのを適当にあしらって、夢から逃げるように練習へと向かった。
「見ててくれ、俺は絶対に勝ってみせる」
県大会の日の朝。親父の墓の前でそっと呟く。そうだ、俺は親父の夢を叶えるために絶対にあいつに負けられねえ。そのためにここまでやってきたんだ。俺はあいつより速い。それを今日、江達と応援に来ると言った名前の前で証明してみせる。
大丈夫、俺は負けない
▽
「ハル! 俺の勝ちだ。これでもうお前と泳ぐことはねえ。二度とな」
フリーの100メートル予選。プールの中で茫然とするハルに向かって高らかに言い放つ。予選を突破したとかそんなことはどうでもよかった。ハルに勝った。その事実だけで気分が高揚するのを抑えきれない。そうだ、俺はこの時をずっと待っていたんだ。自然と上がる口角を隠さずに、観覧席を見上げた。
『凛は速いね。かっこいい』
小学生の頃、大会で泳ぐといつも笑顔でそう言ってくれていた姿を思い出す。
どうだ、名前。成長した俺の泳ぎはハルなんか全然相手にならねえくらい凄かっただろう? だからきっと今日のレースもあの笑顔で見ていてくれる筈だ。
そう、思っていたのに……
岩鳶の応援席で見つけた姿は、予想していた笑顔とはかけ離れたもので。口元に手を当てて悲痛の表情で俺達を見つめる名前の姿が、夢で見たあいつと重なって見えた。
「松岡先輩! やりましたね! 見事決勝進出! それに七瀬さんにも勝ったし!」
「まあな、お前も頑張れ」
プールからの通路で興奮した似鳥にそう言われ、俺の中にまた先程の高揚感が戻ってくる。珍しく似鳥へ激励の言葉を送ってチームメイトの元へ戻ろうと歩いている時。慌てたような渚達と鉢合わせた。どうやらハルを探しているらしい。
「俺に負けたのがショックだったのか。勝ち負けやタイムに興味ねえと言ってたのに」
鼻で笑うように言った俺に眼鏡は別の理由があると言う。なに甘い事言ってやがるんだと思った。結果が全てだ。過程なんか考慮されない。水泳に勝ち負け以外なにがあるのか。そんな俺の言葉が気に食わなかったのか、珍しく真琴が声を荒らげた。
「あるよ。少なくともハルはあると思ってた。でもそれを最初に教えてくれたのは凛、お前だろう?」
「知るかよ!少なくとも俺はあいつに勝った!」
一瞬、昔の風景がフラッシュバックし、気付けばそう怒鳴ってその場を後にしていた。どいつもこいつも口を開けば馬鹿の一つ覚えみたいにあいつの名前を出しやがる。そのハルに今日、俺は勝った。それで俺は前に進めるはずなのに。何故か、名前のあの表情が脳裏に焼き付いて離れない。俺が勝ったのに、なんでそんな顔なんだよ。あの頃みたいに、喜んで笑ってくれると思ったのに。なんで……
そして俺は望んでいた名前のその表情を、最悪な形で見ることになる。
▽
次の日、俺の目の前で岩鳶のリレーが繋がれる。引き継ぎだって全然なっちゃいねえ、バッタを泳ぐのは合同練習で溺れていた素人だ。それなのに、最終泳者のハルは一位でゴール。そんなハルに手を伸ばす真琴も、笑顔で飛びつく渚もあの頃と何も変わらない。
ただ一つ違うのは、そこに俺が居ないこと。
プールの隅でその光景を見せつけられ、逃避するように視線を逸らすと目に入ってしまった。観覧席、満面の笑みをあいつらに向ける名前の姿。
それは俺が欲しくて仕方のなかったもの。
なんでお前らなんだよ。なんで……向けられたその先に俺が居ないんだ。視界がフィルターをかけたようにぼやけていく。掌に爪が食い込むのも構わずに握り締めた。
俺は、これで前に進める……?
本当に望んでいるものは、なんだ……
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