クラレットに口付けを


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「というわけで、水泳部を作ることになったんだけどね。その、もしよかったら名前ちゃんも手伝ってくれたら嬉しいな、って……」

えへへ、と笑う江ちゃんは小さい頃から変わらず可愛らしい。三つ年下の彼女とは、最近は専らメールのやり取り中心となっていて、こうやって実際に会うのは久しぶりだった。最後に連絡を取ったのは確か三月頃、私の卒業と入れ替わるようにして岩鳶高校へ進学が決まったと教えてくれた時だったと思う。数日前には兄である凛に、そして今日は妹の江ちゃんに会って話しているのは偶然なのか必然なのか。
凛はあれからどうしてるんだろう。結局あの夜、あの会話の後すぐ海辺を離れて凛が家まで送ってくれたのだけれど、その間は終始お互い無言だった。連絡先の交換もしないまま別れてしまったので、送ってもらったお礼も十分に言えていないままだ。

「やっぱりダメだよね……大学生、忙しいだろうし……」

ぼーっと考えて無言になっていた私の反応を否定と取ったのか、江ちゃんが項垂れる。だめだ、いま目の前に居るのは凛じゃない。江ちゃんとの会話に集中しないと失礼だよね。シュンとしてしまった江ちゃんに慌てて、違うの、と返すと小首を傾げられた。うん、やっぱり可愛い。

「水泳部に関してはマコくん……部長の橘真琴くんに聞いてたんだ。彼からも、もしよかったら見に来てくださいって言われてたの」
「え、それじゃ……」
「うん。大学行きながらだから毎日ってわけにはいかないけど、休みの日とかでよければ手伝わせて貰っていいかな」
「名前ちゃん……!!」

ありがとう、とキラキラ眩しい笑顔で見つめられて、ついこちらの表情も緩んでしまう。競泳の世界から離れて暫く経つけれど、自分が泳ぐわけではないし、ある程度は中学時代のマネージャー経験を活かせるだろう。そう思うと、なんとなく自分の中で眠っていた水泳に対する思いが少し、目を覚ましてくるような気がした。

「それと、あの……えっと」
「もしかして、凛のこと?」

何か言い辛そうに視線を泳がしている江ちゃんに思い当たる節が合って聞くと、ハッと顔を上げた。どうやら当たりらしい。

「もしかしてお兄ちゃんから連絡……」
「ううん、ちょうど数日前に家の近くの浜辺で凛と偶然会ったんだ」
「そうだったんだ……ごめんね、お兄ちゃんが帰ること本当は名前ちゃんに伝えたかったんだけど、誰にも言うなって言われてて……」

心底申し訳なさそうに言う江ちゃんに、ゆっくりと首を横に振る。凛がそう言ってたなら仕方がない。彼なりに何か思うところがあったんだろう。あの夜の様子ではきっと、水泳に関してだ。私や宗介が送った手紙の返信も途中から来なくなっていたから、何かあったとすればその頃なのかもしれない。

「あの、お兄ちゃんなにか言ってた……?」
「詳しくはわからないんだけどね。ちょっと何か思いつめた感じだったかな……」
「そっか……。あのね、お兄ちゃん鮫柄に入ったのに、水泳部入ってないんだって」
「そう……」
「名前ちゃん、お兄ちゃんの連絡先教えとこうか?」
「んー……大丈夫。なんかまた近い内に会える気がするから、その時に直接聞くよ」

なんとなく誰かから聞いて送るより、自分でちゃんと聞いた方がいいような気がして、江ちゃんからのありがたい申し出は遠慮しておいた。私の言葉に何故か笑顔を濃くした彼女は、大げさに姿勢を正して私を見つめる。

「あのね、名前ちゃん」
「?」
「私が言うのもなんなんだけど……お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします」

ペコリと頭を下げる江ちゃんに、トレードマークのポニーテールがふわりと揺れる。本当に凛のこと、大好きなんだなぁ。強い兄妹愛を見せられて、思わず口元が緩んだ。そんな兄想いな江ちゃんを安心させるように私も出来るだけしっかりと伝える。

「大丈夫だよ。だって凛は宗介と一緒で大事な弟みたいな存在だもん」
「弟……宗介くんと一緒……」
「うん。あ、もちろん江ちゃんも本当の妹みたいに思ってるよ?」
「嬉しい!私も名前ちゃんのことお姉ちゃんみたいに思ってる。だから早く本当のお姉ちゃんになって欲しいな」
「え?」

江ちゃんの最後の言葉が上手く聞こえなくて聞き返すと、なんでもないの! と慌てるように言われた。なんだろう? そう思いつつ、ふとお店の時計に視線をやると良い時間になっている。そろそろ帰らないと江ちゃんのお母さんも心配するだろう。

お店を出て、家まで二人で他愛もない話をしながら歩く。水泳部設立までのプールの修繕話や、部員勧誘の話はとても楽しくて聞き飽きなかった。

「じゃあ、また休みの日とか連絡するね」
「はーい!今日は本当にありがとう。またお兄ちゃんともお出かけ、出来るかな……」
「……出来るよ。またみんなで一緒にお出かけしようね」
「……うん!」

頭を撫でてそう言うと、安心したような笑顔を見せてくれる江ちゃんに手を振って自宅への道を戻る。
見上げた空は赤い夕焼けが広がっていてた。

「よし、頑張ろう」


数日後。
江ちゃんからの連絡で、凛が水泳部に入部したこと、そして次の休みにその鮫柄学園との合同練習を取り付けた旨を知らされた。よかった、凛も水泳部に入ったんだ。その報告がなによりも嬉しくて、安堵の溜息を吐くと共に思わずベッドに倒れ込む。
これで大会で泳ぐ凛の姿を見れるんだ。なんだかんだ言いつつも、やっぱり凛は泳ぐ姿が似合ってる。追伸には私にもぜひ来て欲しいと言う誘いも書いてあり、その日の予定を確認してみるとスケジュール帳は狙っていたかのように空白で。

『どうした、やけに機嫌が良さそうだな』
「ふふ、秘密」
『なんだそれ』

日課になっている幼馴染みとの電話では、私の言葉に呆れたような声がする。
合同練習日まであと数日。
私の気持ちは遠足前の小学生のようだった。



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