クラレットに口付けを


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図書館で課題の調べ物をしていたら、気付けば辺りは真っ暗になっていて、閉館のアナウンスに追われるように帰途につく。何時もならば真っ直ぐ帰るのに、なんとなく海へ足が向いたのは、今日見た夢の影響があるのかもしれない。シドニーの海はすごく綺麗なんだと写真を送ってくれたのを思い出したから。
こんな時間まで一人で外をうろつくなと、遠い東京の地にいる幼馴染みが聞いたら小言を言われそうだなと思いつつ、浜辺へ続く石段に座って海を眺める。小さい頃から近くにあった海も、夜はまた違う一面を見せる。

夜の海は危ないよ。

小さい頃からそう言われてきたけれど、私にとっては寧ろ月の反射する水面はキラキラと輝いていて、神秘的で好きだった。
水は好きだ。触れるのも、泳ぐのも。小学生から始めた水泳からは中学卒業と同時に離れてしまったけれど、まだ二十年弱の私の人生において多くの出会いを運んでくれたそれには、またどこかで関わることになりそうだと言う漠然とした思いがあった。
少しくらいなら足、つけても大丈夫かな。まだ時期的には冷たいかもしれないけれど。
そんな事を考えていたら、見ているだけじゃ物足りなくなって、ふらふらと足は海辺へ向かって行く。濡らさないように靴を脱いだせいで、足の裏には冷たい砂の感触があるけれど、今はそれすらも気持ちいい。ぺたぺたと足を進めると、波の音が近くなる。もう少し。あと数歩で水に触れられる。そう思った瞬間。

「名前っ!」

急に名前を呼ばれると同時に引かれる腕。驚いて振り返ると、そこには走ってきたのか息を切らせて私の腕を引く青年の姿があった。相手は黒っぽいジャージ姿で、同じ色のキャップを目深に被っているせいで顔がよく見えない。
誰? そう問いかけようとした言葉は、発されることはなかった。だって、見えてしまったから。キャップから覗く、特徴的な髪色が。
月明かりに照らされて輝くその色を持つ男の子を、私は一人しか知らない。

「……凛?」

恐る恐る声をかけると目の前の彼がゆっくりとキャップを外す。
シドニーに居るはずの、夢で見たばかりの。
快活で、ロマンチストで、それでいてちょっぴり泣き虫な赤髪の彼。
松岡凛が、そこに居た







「凛、拗ねないで?」
「拗ねてねえ」
「もう……」

波打ち際での再会の後、私と凛は先ほど私が座っていた石段に並んで座っていた。私の横に座る凛は膝に肘をつき、その上に乗せた顔は私と反対の方向へ向いている。言葉では否定したけれどその態度が全てを表しているのに本人は気付いているのだろうか。

「……お前が紛らわしいことするのが悪いんだろ」
「ええ……さすがに入水自殺なんてしないよ」

そう。私が波と戯れようとしていたのを見かけた凛は、私がよからぬことを考えているのではないかと思って慌てて止めに来たらしい。凛の思考に驚いたものの、よくよく考えればこんな時間に一人で海へ向かって歩いていた私にも非があった気がしてくる。

「勘違いさせて、ごめんね」
「……すげえ焦った」

心臓止まるかと思った。
ぐっとキャップを深く被り直しながら呟かれた言葉に、心配をかけたのは自分なのに嬉しくなって口元が緩む。数年ぶりの再会で背は高く声は低くなって、以前のような人懐っこさは少し薄れているけれど、こうやって優しいところは変わっていない。

「凛」
「……」
「心配してくれてありがとう」
「……おう」

名前を呼ぶとやっとこちらを見てくれて、少し照れたように笑う姿があまりに格好良くて思わず目を奪われる。そう言えばお母さんも美人だし、松岡家の遺伝子はすごいなぁ、なんて思っていると凛が怪訝そうに眉を顰めた。そんな凛に、なんでもないよ、と誤魔化して次の話題を探す。

「そう言えば凛。なんでここに居たの?」

そう、何故シドニーにいるはずの凛がここに居るのかを聞いていなかった。一時帰国にしては中途半端な時期。小六の冬に転校なんてする凛だから有り得なくは無いのかもしれないけれど……と思いながらもそう聞くと、凛の顔からすっと笑顔が消える。
あぁ、間違えた。そう思うも、時すでに遅しとはこのような時のことを言うのだろう。

「ごめん。変な事聞いちゃったね……言い難いなら、」
「この春から日本に戻ってきた。これからは高校もこっちで通う」
「そう……学校はもう決まってるの?」
「鮫柄」
「鮫柄……」

鮫柄学園と言えば水泳の強豪校だ。凛の表情を見れば恐らくシドニーでなにかあったというのはは分かったけれど、鮫柄へ行くのなら水泳は続けていくのだろうと安心した。  
それが安易な考えだったと、少しして後悔することになるとは思わずに。

「そうなんだね。じゃあ寮になっちゃうんだ」
「あぁ」
「じゃあ、あんまり会えないね。あ、宗介も東京の水泳強豪校に行ってるんだよ」
「知ってる」

なんでだろう、凛と上手く会話のキャッチボールが続かない。さっきまでどうやって話してたっけ? 良く知る幼馴染の名前を出してみてもあまり効果はないみたいで、すぐに来る沈黙が重い。なにか、共通の話題……共通の……。
そうだ。

「ハルくんたちには会った?今ね、岩鳶高校にいるんだよ。マコくんも一緒で、」
「知ってる。さっき会った」
「そうなの?あ、もしかして岩鳶SCにトロフィー掘り出しに行ってたとか?」

なんだ、それなら良かった。
マコくんから取り壊される岩鳶SCに、リレーのトロフィーを掘り出しに行くことは聞いていた。凛と連絡が取れませんかと聞かれて、残念だけど……と返したのはついこの前だ。よかった、会えたんだ。でもなんだろう、この胸騒ぎは。旧友との再会を喜んでいる風には見えない凛の様子に、嫌な予感がした。
そしてそれは最悪な形で突き付けられることになる。

「俺はあいつらとは違う。一緒に泳ぐこともねえ。もう俺にあんなトロフィーなんて必要ねえんだ」

苦々しく吐き出した凛がどんな顔でその言葉を紡いだのか、再び深く被られたキャップのせいで私には窺い知ることは出来なかった。


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