千紫万紅


ライラック  





 あと1週間で試験期間か……と最後の授業を終えた喧騒の中で考える。ものすごく勉強が出来ない訳では無いけれど、試験と言うワードはなぜこんなにも私たちの気分を重たくするのだろう。まずあの緊張感。時間を計られ、ペンや消しゴムの動く音しかしない空間ではいつもなら出来るような思考が上手く働かなくなることも多い。しかもその結果が成績に直結すると思うと、嫌でも気分は憂鬱になると言うものだ。
 試験前は委員会や部活も制限されるので帰る生徒が多い中、帰宅部の私もそれに混ざって帰ろうと席を立とうと腰を浮かせた時。私の頭上に影が落ちた。
 
「わ、びっくりした。凛くん、どうしたの?」
 
 顔を上げた先に居たのは凛くんだった。同じクラスだから彼が居ることは問題ないけれど、急に目の前に立たれると驚くだろう。しかもノートのやり取りで彼の仲良し枠に入れてもらえているとは言え、凛くんの性格もあって普段からそんなに頻繁にやり取りする機会が多いわけではない。おはよ、と声を掛けて何かしらの反応が返ってくれば良い方で大体は視線で挨拶される程度だ。まぁ他の子が挨拶しても視線すら合わないこともあるらしいので、その点では確かに少しは認識してもらえてるのかもしれない。そんな凛くんが私の元に来るのはノートを返しに来る時くらいだけれど、今は貸してるものも無いのでそれでもない。なんだろう。そう思って見上げたままいると、私を見下ろす凛くんはその表情を変えることなく、こう言い放った。

「勉強教えろ 」

 ▽

「だからね、このCって言うのはcombinationのCね。組み合わせ。ここまではわかる?」

 今回の試験で赤点を取ってしまった場合、補習の日にちが大事な大会と被ることが分かった凛くんの切羽詰まったお願い──と言うほど可愛いものではなく、ほぼ強要に近い形で始まった勉強会。基本的に居残りは禁止だったけど、先生に聞いてみたら二つ返事で了承された。寧ろ凛くん本人が行かなければ先生から頼もうと思ってたなんて言われて、頼んだぞ!と肩を叩かれてしまえばもう断ることも出来ず、誰も居ない教室で教科書を挟んで頭を突き合わせている。 

「これは、全体の中からいくつか取り出す時の確率なんだけど……そうだ、凛くん。サッカーって11人でやるんだよね。なら凛くんのチームが20人居たとして、メンバーの中から最初に試合に出る11人を選ぶ時に何通りあるかって言うのを計算する時に使うんだよ」
「バカか、俺が選ばれるのは決まってんだから19人から残りの10人選ぶんだろ」
「自信がすごいね!まぁそれでもいいんだけど……」

 その時の計算式がね、とノートにペンを走らせる私を凛くんは無表情のまま眺めている。うーん、凛くんの好きなサッカーに例えたら少しは分かりやすいかなって思ったけどダメだったかな。でも英語はあんなに出来るんだからやれば出来ると思うんだけど。そう言えばなんで凛くんは英語があんなに上手なんだろう。凛くんとはずっと同じクラスだけど、私が知っているのはサッカーがとてつもなく上手なこと、海外にサッカーをしているお兄さんが居るけど今はあまり仲が良さそうなこと、英語ができること、意外と優しいところもあることくらいしか知らない。後はアイスをよく食べてることはコンビニに行った時に聞いたから知っているけど、それにしても知らないことの方が圧倒的に多い。だから私はもう少し仲良くなるために、そして勉強会のやる気を出させる手掛かりになるかもしれないと、素直に疑問をぶつけてみることにした。

「ねぇ、凛くんはなんで英語たくさん勉強したの?」
「あ?英語のサッカー実況を理解するために決まってんだろ」

 なんの躊躇もなく凛くんが即答する。なるほど。やっぱり凛くんの行動理念にあるのはサッカーだ。と言うか凛くんの生活はサッカー中心に回っていると言っても過言ではないんだろう。今回の勉強だって追試に引っかかったら大会に出れないかもしれないって理由だし。それならそこを刺激出来ればもう少しやる気も出せるかもだよね。

「凛くん、将来監督になる人がすっごく数学好きな人かもだよ。そしたら数学出来る方がアピール出来て選んでもらえるかも」
「あ゛?んなもんサッカースキル以外で選ばれてなんの意味がある?ゴール決めてレギュラーに選ばせる。それ以外の選択肢なんてねぇよ」

 ぐうの音も出ないほどの正論で返された。
 サッカーに繋がるかもしれない!と言うことで頑張ってもらおう作戦はどうやら目論見が甘かったらしい。でもあれだけ頑張ってる凛くんにやる気を出させるためとは言え、適当なことを言ってしまったのは配慮が足りなかったかもしれない。

「ごめんね」
 
 そう一言告げて、目の前の問題に向き直る。やる気を出して欲しいと言うのは私の都合で、とりあえず今回の試験を乗り切って凛くんが追試に引っかからなければ一先ずそれでいいのだから。



「明日はどうする?英語以外で苦手なのからやろう」

 気付けば最終下校の時間が迫っていて、外はすっかり夕焼け空になっていた私たちは慌てて教室を後にした。あの後の時間で数学の範囲は一通りさらって、なんとか最低限基本的な問題は解けるようになったと思う。応用になるとどうかは分からないけど、要は赤点さえ取らなければこの試合私たちの勝ちなのだ。

「どれも似たようなもんだから一緒だろ」
「それもどうかと思うけどね!」

 凛くんの返しに呆れながらも、このやり取りが嫌だと思ってない私もいる。うん、だって人に教えるには自分が理解してないといけないから私の勉強にもなるし。なんて言い訳をしつつも、凛くんと二人のこの空間が心地いいと思っている自分もいるのも事実。でも今はそのことに気付かないフリをしたかった。認めてしまえばきっとこの距離を保つのが難しくなってしまうから。

「大会出れるように頑張ろうね」
「まぁ、教え方は悪くねぇ」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、他の科目もこう上手くいくかはわからないから!」

 また明日もよろしくね。
 お互いの家への分かれ道でそう言うと、凛くんはおもむろに鞄の中を漁って私に何かを投げて寄越す。ギリギリのところで私の手に収まったそれはパックジュース。礼だ、と言い残して歩き出した凛くんの背中と自分の手の中を交互に見比べると、手に感じるぬるさがそれを買ってだいぶ時間が経っていることを示していた。まったくもう、普段はあんなに態度も大きくて言葉遣いもよろしくなくて、サッカーにしか興味が無いって感じなのにこう言うところがずるいんだよね。私はまだ、凛くんが好きな食べ物も飲み物も知らないのに。手元に残る私の好きなパックジュースは見慣れたものなのにキラキラと輝いて見えた。

「ありがとう!また明日ね!」
 


 
 


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