比翼連理


Aufheben  







「あ、来た来た!こっちだよー!」
「おー、久しぶり」

 そう言って軽く手を挙げながら現れた男の姿に、隣の子とメニューを見ながらドリンクを選んでいた私の手が止まる。視界の先に見えたのは普段なら日本に居ない筈の人。緩く結んだ綺麗な赤髪を揺らすその男は私の幼馴染みであり、初恋の人であり、そしてあることをきっかけに今では会うのを出来るだけ避けていたはずの千切豹馬その人だった。

「……」

 メニューで顔を隠すのが一瞬遅れた私と豹馬の視線が交差する。逸らしたいのに逸らせない。世間では中性的だとか美形だとか言われる見た目に反して、その双眸はまるで獲物を狙う猛獣のそれ。蛇に睨まれた蛙を体現していた私は、幹事の子が立ったままの豹馬を席に誘導するまでの間指一本すら動かせずにいた。

「そっか、ウインターブレイク……」
「え?なに?そんなドリンクある?」
「あ、ううん。なんでもない!えっと、私はじゃあこれにしようかな」
  
 豹馬の視線から逃れた後に気付いても後の祭り。友人の言葉に慌てて取り繕いながら、目に止まった適当なドリンク名を告げる。ここ何年も頑張って会うのを避けてきた筈なのにそんな初歩的なミスでこうして会ってしまうんだから、全くもって詰めが甘いなと小さく溜息を吐くのだった。

 
 ▽



【春休みに入って帰省する子も多いから久しぶりにクラス会しようって話になったんだけど、ナマエもどうかな?】

 中学時代の同級生からそんな連絡が来たのは、大学二年次の過程が終了して春休みに入ったつい先日のこと。来年度からは早い人では就職活動も始まるし、その前に久しぶりに集まりたいと言う旨の内容だった。誘ってくれた子とは仲が良かったし、今回集まるクラスの同級生は小学生時代からの付き合いの子も多くそれなりに良好な関係が築けていたように思う。だからこの誘いを断る理由は殆ど無いし、折角声を掛けてくれたのだから出来れば参加したい。そう思っている私が即答できない理由はひとえに同じクラスにいた幼馴染みの存在だった。

 千切豹馬と私の関係は所謂幼馴染みと言うものである。親同士の仲が良く、産まれた時からまるで双子のように育った片割れである豹馬。足が速くてサッカーが上手くて、周りからは我儘だとかマイペースだとか言われていたけれど、それが実力に裏付けされていたものだと言うことも分かっていたから、私がそんな彼に惹かれたのも自然なことだったように思う。小学生時代、クラスの女の子が授業中に豹馬に告白をしたのに続いてクラスの半数の子が告白し、それを一気に断ったと言う伝説の日を目の当たりにした時に感じた胸のざわつき。今まで当たり前のように隣に居た幼馴染みに対する周囲からの明らかな好意に感じたそれが、嫉妬だと言うことに気付いたのはそれから少ししてからだった。
 だからと言って常に人気者な豹馬と、幼馴染みと言う関係から一歩踏み出せるほどの自信が私にあるはずもなく。豹馬の試合を応援に行ったり、お互いの家で豹馬が好きだと言う選手が出ている試合を一緒に見たり出来るだけで満足する日々が続いていた。

『話があるんだけど』
 
 私たちの関係が変わらないままに小学校と中学校を卒業し、なんの迷いもなく豹馬と同じ高校に進んだ私に豹馬がそう切り出したのは、彼が当たり前のように羅古捨実業サッカー部のレギュラーを手にした日の帰り道。次の曲がり角を曲がったら私たちの家が見えると言う公園の前で足を止める豹馬につられて私の足も止まった。

『話?』
『そ』
『改まって珍しいね。なにかあった?』
『んー、なにかあったと言うかこれからあると言うか』

 基本的に回りくどいのが嫌いで歯に衣着せぬタイプの豹馬がそんな言い方をするのは本当に珍しくて思わず身構えてしまう。もうこうして一緒に帰るのやめようとかかな。高校の時より女の子のファンも多いみたいだし、呼び出されているのも知っていた。もしかしたら告白された中に豹馬のお気に召した子が居たのかもしれない。そんな状態で幼馴染みとは言え異性と帰るのは確かによろしくないもんね。いつかこんな日が来るかもしれないのは思っていたけれど、実際にそうなるとやっぱり寂しい。でも突然言われるよりはこうして心の準備が少しでも出来たのはよかったのかな。うん、そう思うことにしよう。

『一人で勝手に納得したような顔してるとこ悪いけど、ナマエが思ってることと俺の話、絶対に噛み合ってねーから』

 呆れたような豹馬の声で我に返る。あれ、違う?

『彼女が出来るから一緒に帰るのやめようって話じゃないの……?』
『やっぱり全然噛み合ってねーじゃん。告白してくるやつとかサッカー優先で連絡もそんなに出来ねぇけどいい?って聞いただけであからさまに嫌そうな顔する奴らばっかだし』
『豹馬はサッカーが一番だもんね』
『とーぜん。ここでも俺が一番になるのは当たり前で俺の目指すものはもっと先。日本代表になってワールドカップに行って、世界一のストライカーになる』

 そう言って不敵に笑う豹馬は地元のサッカースクールに通っていた頃から何も変わっていなかった。それがわかって安心すると同時に再び浮かび上がってくる疑問。話と言うのなんだろう。豹馬が今更改まって言うようなことは皆目検討もつかず首を傾げる私に豹馬はその顔から先程までの笑みを消して真剣な眼差しを向けてくる。

『俺が告白全部断ってる理由はサッカーが第一ってのももちろんそうなんだけど』
『……』
『俺が好きなのはナマエだから。俺はもっと上手くなって、もっとすごいストライカーになるからさ。そうしたら俺と付き合って欲しい』

 私を射抜く真っ直ぐな深紅は日が暮れて辺りが暗くなっているのにとても輝いて見えた。

『わ、わたし……』
『あぁ、返事はまだ要らない。でもそんなに遠くない内に分かりやすく俺のすごさを証明してみせるからさ』

 答えはその時で。
 そう言って私の頭をくしゃりと撫でる豹馬。それは彼が私と話している時によくする仕草で、そうやって撫でられるのが私は好きだった。それに加えてさっきの言葉。私は豹馬のことが好き。だけどまさか豹馬も同じ気持ちだったなんて。私の答えはもちろん決まっているけれど、豹馬がああ言うんだから大人しくそれを待とうと思う。さっき言っていた「そんなに遠くない内に」とはたぶん全国大会への出場権の獲得。今日の帰りにもうすぐ県予選が始まると言っていたから。

『豹馬には誰にも追いつけないもんね。私は豹馬をずっと応援してるよ』

 だから私はいつも通りそう笑って、私たちは自宅へとまた歩き始める。今までずっとひた隠しにしてきた気持ちをあと数ヶ月の間伝えないなんて私にとっては難しいことではない。これまでの年月を思えば数ヶ月なんてあっという間だし、豹馬の一番がサッカーなのも全部承知の上で豹馬のあの、全てを抜き去るプレーを見れることが大好きなのだから。豹馬がすごいのは私が一番よくわかっている。だから大丈夫。
 その時の私は豹馬がずっとピッチ上で輝き続けていることを信じて疑わなかった。そう、あの日が来るまでは。

 
 豹馬の言葉通り快進撃を続けた羅古捨実業。
 全国高校サッカー選手権、鹿児島県予選の準々決勝。
 右膝前十字靭帯断裂。
 その日、千切豹馬はその才能を失った――



 ▽
 


「ね、ナマエちゃんって千切くんと付き合ってたんだっけ?」

 会も進んで最初は少し緊張していた出席者の口が解れてきた時分。さっきまでかっこよかった英語の先生の話で盛り上がっていた筈なのに、急に話題の矛先が自分に向いたことで思わず飲んでいた果実酒を吹き出しそうになった。

「そうだそうだ、仲良かったもんね!一緒に帰ってたし!」
「あの頃から足速くてサッカー上手いと思ってたけどさ、今となっては日本代表!しかも海外クラブ!」
「サイン貰っとく?」
「あのシュッとしたやつでしょ!線が細くてしなやかでいかにも豹って感じの!」

 返答に遅れた私を置いて進む会話。 
 付き合うどころか、豹馬が怪我をしてから私と豹馬の距離は徐々に遠くなっていた。あの頃の私は豹馬にとってはサッカーが一番で、そんな豹馬をずっと見てるものだと思っていた。だけどそうはならなかった。怪我のことを豹馬のお母さん経由で私の親から聞いた後に会いに行ったけれど、松葉杖をついている豹馬の姿を見たらなんて言えばいいんだろうと足が止まった。しんどいよね。辛いよね。リハビリ頑張ろうね。私が一緒に居るよ。浮かんできた言葉全てが綺麗事にしか思えなくてオロオロすることしか出来なかった私を見て豹馬が言った言葉。

『もう俺に構うな』

 私より豹馬の方がずっと辛くてしんどいのに、今までたくさん勇気を貰って助けて貰ってるのに、本当に必要な時に何もしてあげられない。そう思った私は豹馬に合わせる顔がなく、豹馬も私を避けるようになったことでその距離は更に開いていった。
 そんな中で翌年ブルーロックプロジェクトに参加した豹馬は自分で自分の過去に打ち勝ち、今ではイングランドでプレーしながら年代別の代表として活躍している。つまり、紆余曲折はあったものの夢に向かって着実に進んでいると言うわけだ。
 
「あれ、もしかしてまだ付き合ってる?こんな端っこにいていいの?千切くん呼んでこよっか?」

 何も言わない私が照れていると勘違いした友人がそんな提案をしてくれるものだから、呼ぼうと手招きする腕を慌てて引き戻す。付き合っているどころかもう何年も話してない。さっき目が合っただけであんなに固まってしまうのに、面と向かって話せる筈がなかった。

「私たち付き合ってないよ。ただの幼馴染みなだけだから」
「そうなの?」
「うん。それに普段海外に居るから全然会うことも話すこともないし、今日だって久しぶりに顔見たんだよ」
「えー、そうなんだ。昔はあんなに仲良かったのにね〜」
「残念、幼馴染みとピュアな恋愛してました!とかの話楽しみにしてたのに!」
「ご期待に添えなくてごめんね」
「まぁ幼馴染みとは言え異性だもんね。大人になるとそんな感じになっても仕方ないのかも」
「たしかに。あ!でもさナマエちゃん、大学で良い人居るって聞いた!」
「え?!」

 友人の突拍子も無い言葉に思わず声が上がる。それはどこ情報だろう。そう口には出さなかったけど、目がそう言っていたのか友人が情報源を開示してくれた。

「同じ大学に田中くんって居るじゃん?私と高校一緒で今も結構仲良いんだけど、彼の友達がナマエちゃんにアプローチしてるって聞いてる!」

 田中くんが誰かは存じ上げないけれど、彼の友人と言う人には心当たりがあった。入学して少し経った頃、サッカー部の張り紙が貼ってあるのをなんとなく眺めていたら「サッカーに興味ある?!」と声を掛けられたのが始まりだったと思う。好きな人のことを考えていたらつい目に止まっていました、なんて素直に言えるはずもなく「知り合いがサッカーをしていたので……」と返してその場はやりすごしたのだけれど、その後で同じ授業を取っていたことが分かってことある事に話し掛けられていた。基本的にあまり男の子と話す方ではないし、何を話していいかわからないけどサッカーの話をとても楽しく話しているのは聞いていてそこまで苦ではない。折角話をしてくれているのに邪険にしすぎるのも悪いかなと少しづつ話をしている内、確かに何度かそう言った話の流れになったことはあるけれど、どうしてもある約束が思い起こされて頷くことは出来ていなかった。まぁその約束も多分とっくに時効になっているだろうから、いつまでもそれを引き摺っているわけにはいかない。だから――

「お友達からなら、って言ってある……」
「えー!!それってピュアな恋の始まりだよ!!ねえ、その人ってイケメン?千切くんをずっと見てたら基準めちゃ高そうだけど!」
「ええ……」
「話気になるけど私ちょっとお手洗い!」

 食い気味にくる友人にどうしたものかと考えあぐねていると、私の隣の子がお手洗いにと席を立つ。いってらっしゃい。そう言って先程の質問をどう切り抜けようか思考を巡らせた時だった。ダンっとビールジョッキが置かれる大きな音がして思わず肩が跳ねる。なにごと、と横を見た私の身体はその先に居た人物の存在によって凍りついたように動かなかった。

「その話、俺も気になるんだけど」

 時間も経ってお酒も飲んでるはずなのに顔色には一切出ず、その端正な顔つきのままテーブルに頬杖をついた姿勢でこちらを見ているのは他の誰でもない、千切豹馬その人だ。

「あ、えっと……」
「そいつ俺よりイケメンなわけ?」
「豹馬……?」
「俺より足速い?サッカーは?」
「それは……」

 ずるい。そんなこと言われて、はいなんて言えるはずがない。だって私の中でかっこいいと思うのも、足が速いと思うのもサッカーが上手いと思うのも全部――豹馬に決まっているのだから。そう、以前の私なら即答出来ていたはずなのに、何も言えずに疎遠になった数年間が邪魔をして私の喉は音の出し方を忘れたように動かない。そんな煮え切らない態度の私に豹馬の表情に不機嫌な色が刻まれていく。そんな彼を直視出来ずに視線が落ちる私の横で豹馬が立ち上がるのがわかった。あぁまただ。豹馬を前にして何も言えない私は高校生のあの時から何も変わっていない。前を向いて自らの足でどんどん進んでいる豹馬とは対象的に一歩すら踏み出せない私。きっと私たちの距離はこうして更に開いていくんだろうな。完全に自業自得だけど……なんて思っていた時。

「ちょっと場所変えよーぜ」
「え、」
「悪い、俺らちょっと抜けるわ」
「ちょっと、豹馬?!」

 立ち上がる豹馬に腕を引かれて無理やり立たされたかと思うと、そのまま店の出口へと連れて行かれる。囃し立てる同級生たちの声を背中に受けながら私は、会費前払いでよかった……と現実逃避のように考えていた。



 ▽

 

「ここら辺でいいか」

 腕を引かれて歩いた先、そんな声と共に足を止めた豹馬に顔を上げるとそこは見慣れた公園の前だった。

「掴んで悪かった。痛い?」

 痕残ってないよな。
 掴んでいた私の手首を持ち上げて、気遣うようにゆるりと撫でる豹馬にふるふると首を横に振る。確かに掴まれてはいたけれど、その力は驚くほど優しくて痕どころか痛みすら感じないほどだった。頑張れば私でも振り解けたかもしれないなんて思考はするだけ無駄だと直ぐにやめる。例えそうだったとしても私に豹馬の手を振り払うという選択肢はないのだから。

「ナマエ、こっち向いて」

 そう言われておずおずと顔を上げると、すぐに豹馬と視線がぶつかる。至近距離で見ることになった豹馬の表情。そこからは店内で見た時のような不機嫌さは消えていた。

「俺のこと怖い?」
「こわく、ない」
「じゃあ嫌い?」
「そんなわけないっ」
「じゃあ……いまドキドキしてる?」
「っ……」

 そう言われて思わず言葉に詰まる。緊張しているのは確かだった。それが疎遠になっていた豹馬とどう接していいのかわからないからなのか、それとも目の前にいる彼に対して今でも幼馴染み以上の感情を抱いているからなのか。きっと両方が正解なんだろう。

「さっき言ってた大学のヤツに対してもドキドキすんの?いまこうして俺と一緒にいるよりも?」

 カシャン。
 距離を詰めてくる豹馬から無意識に距離を取ろうとして一歩下がった先にあったのは公園のフェンス。背中に感じるそれに、そう言えばボールが越えないように高くなっていたんだっけなどと言う考えは顔の横に置かれた豹馬の手によって一瞬にして掻き消された。フェンスと豹馬に挟まれた私に逃げ場はない。それだけでもどうにかなりそうなのに、伸ばしていた肘を折りまげてくるものだから身体の熱が全て集まっているんじゃないかと思うくらいに顔が熱くなっていた。

「そうだ。高校の時、ここでした話覚えてる?」
「え……」
「その反応は忘れてるってわけじゃなさそうだな」

 安心した。
 至近距離での会話に返答すらろくに出来ない程余裕のない私と、余裕しか感じない態度で満足そうに笑う豹馬。忘れるわけがない。忘れられるはずもない。きっと覚えているのは私だけでもう時効になっているものだと思っていたそれを、まさか豹馬も覚えているなんて。口には出さないけれど顔に出てしまっていたらしい。それに気付いた豹馬は少し拗ねたような顔を見せる。

「まさかもう時効だとか思ってた?」
「……だって、」
「だって、なに。因みに口約束でも合意の時点で契約にはなるし、契約不履行もないのに一方的な破棄は認められないから」
「……豹馬は夢に向かって前に進んでるけど、私はあの時何も出来なかった私から何も変わってないから……」

 私に豹馬の隣に立つ資格はないよ。
 豹馬に何も言えなかったあの日からずっと思っていたことを遂に口に出してしまえば、自分で紡いだ言葉なのに思った以上に重い響きで胸に落ちる。心の奥にしまっていた筈の思いの蓋が徐々に開いていく音がした。私の中の豹馬の存在がどれほど大きいか、そして未だに前に進めずいる自分がどれだけ不甲斐ないかを思い知らされる。こうなるのが分かっていたからずっと会わないようにしていたのに。紡いだ言葉の重みに耐えきれずに視線を下げようとする私を豹馬は見逃してはくれなかった。

「こっち見て」
「……」
「資格ってなに。俺の隣に立つのにそんなもんいんの?誰が決めた?」
「それは、」
「どうしてもって言うならまぁ無いことは無いけど。資格があるのは俺の幼馴染みで俺のことが大好きで俺が愛してやまないミョウジナマエさん。それだけ」
「え……」
「マジでそれ以外には何も無いから。それともナマエはその条件に当てはまらねーの?ナマエの中で俺以上に好きなやつがいるとか?さっきまで言ってた大学の男?」
「ち、違う!豹馬以上に好きな人なんて、」

 居ない。
 それまでずっと隠していた思いをつい勢いで吐露してしまった上に、途中で本人を目の前して言うことの意味に気付いて語尾は蚊の鳴くような声になった。けれど少し動くだけで鼻先や髪が触れそうなくらいの距離にいる豹馬に届かないはずもなく――

「よかった。そうだとか言われたら俺今からそいつのところ行って50メートル走でぶち抜いて来ないといけないとこだった」

 首元から顔を上げて一見冗談に聞こえるような言葉で笑う豹馬、たぶん本気でやるんだろうな。千切豹馬とがそう言う男だと言うことは私が一番知っている。そして先程言ってしまった内容を思い出して、今度は別の意味で豹馬の顔が見れないなと目を逸らそうとする私の頬に豹馬の片手が添えられた。視線の先、月明かりに照らされた豹馬の髪はキラキラと輝いていてやっぱり綺麗だなとつい目を奪われる。そしてそれは無意識に口から零れていたらしく、豹馬は「そう言うところ、変わんねーな」と柔らかく微笑んだ。そんな豹馬を見て、今なら言えるんじゃないかという気持ちが湧いてくる。言わなきゃいけないと思ってずっと言えずにいた言葉。それを紡ぐためにぐっと力を込めて静かに息を吸い込んだ。
 
「豹馬がしんどい時に何も出来なくてごめんね」

 上擦りそうになりながらもどうにか形に出来た言葉。やっと一歩が踏み出せて、高校生のあの時から止まっていた私の時間がようやく動き出す。そう思っていればそれまで背中に感じていたフェンスの感触が消えて気付けば豹馬の腕の中に居た。
  
「俺もあの時は余裕がなくてナマエに酷いこと言って悪かった」 
 
 ゼロになった距離で受けたその言葉に、やっぱり豹馬は何も変わってないんだと思った。我儘でマイペースだとと言われることも多いけれどとても優しい人。誰でもあんな怪我をしたら人のことなんて考える余裕なんて無い。だから豹馬は悪く無いよ。そう言い聞かせるように、豹馬の背中に回した腕に優しく力を込めると豹馬が頭上で小さく息を吐いて、回る腕に一層力が込められた。

「やっぱ今日来てよかった」
「そうだね。まさか豹馬が居るとは思わなかったよ」
「まぁナマエを呼んで欲しいって言ったの俺だしな」
「え?!」
「どこかの誰かさんが俺が帰省する度に家空けてたからいい加減実力行使するかって」
「あはは……」

 会うのが気まずくて母親から豹馬の帰省を聞く度に何かと理由をつけて不在にしていたけれど、まさか本人にバレていたとは。

「しかもなんかよくわかんねー男に取られそうになってるしマジ焦った。ナマエの大学卒業まで待つとか言う優しさを持たなかった俺偉すぎ」
「だから本当に彼とは何も無いんだって……」
「あぁ、そう言えばさっきの答え聞いてなかった」
「答え?」

 答えってどれだろう。約束の話なら覚えてると言ったし、豹馬より好きな人は居ないとも伝えた。なんのこと、と目の前にある見た目より随分としっかりしている彼の胸に手を置いて顔を見あげようとした瞬間。
 
「ナマエはさ、あの大学の男にもドキドキした?それとも俺だけ?」

 なぁ、答えて。
 耳元に唇が掠るくらいの近さで熱を孕んだ吐息と共にそう囁かれてしまえば、抱き締められてるとは言えなんだかんだで落ち着いていた熱が一気に顔へと戻ってくる。そもそも大学の彼にそんな感情を持ったことはないのだから比較すること自体が無意味なのだけど、今となってはその説明すら必要ないんだろう。私の心を動かすのは一人しか居なくて、それを豹馬もわかっているのだから。

「……豹馬にだけだよ。今までも、これからも」
「ん、知ってる」

 豹馬の色気に充てられてクラクラする感覚の中で言い切った私の言葉にそう返す豹馬の声色は、今日聞いた中で一番優しい音だった。





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