比翼連理


信者の感嘆  







「ね、今日この後カラオケ行かない?」
「今日はパス!絶対リアタイしたい番組あるから!」
「なにまたブルーロックTV?」
「そう!しかも今日は最推しの海外チーム入団前特別会見!会員限定でノーカット!質疑応答もあり!」
「え、やにそれやばい」
「でしょ?」

 そんなの見逃すわけにはいかなくない?!
 鞄を肩に掛けながら早口で捲し立てるように言ってしまった私に、友人は「早く帰りな!!始まる前にはお風呂も入って身を清めてから正座待機!」と背中を押して送り出してくれる。さすが長年ドルオタをやってるだけあって理解があるなぁ。今度たくさん推し語りを聞いてあげよう。


 
 ▽



「うわ、もう結構な閲覧人数になってる」

 両親に驚かれるようなスピードで夜ご飯を食べて、友人に言われたようにお風呂にも入って髪もしっかり乾かした。正座待機まではしていないけど、この日のためにタブレットをテレビとミラーリング出来るようにもしておいた。だって推しの大切な日は大きい画面で見届けたいもんね。無線だとラグが起こりやすいからって有線のケーブルとタブレットを貸してくれたお父さんにも感謝しなきゃ。

 時計を見ると開始予定時刻まで後5分。お気に入りのクッションをテレビの前に持って来て、4番と書かれたユニフォームとタオルマフラーを身に付ける。それはあの日、スポーツ好きな父親がリビングで見ていた試合に出ていた彼の背番号。私の最推しである千切豹馬のものだった。
 あの試合、若いけど日本代表になってる人達と、高校生の集まりの試合なんて結果は見えてるじゃん。なんて思いながらライブ帰りの友人の推しレポを読んでいた私の目にふと飛び込んできたあの赤髪。サッカーは詳しくないけど、私が見てもわかるレベルで足が速いイケメンが居る。「推しなんて最初は見た目から入るもんよ!」なんて、ずっと私に推しを見つけろと言っていた友人の言葉がその時初めて理解出来た。一瞬で私の目を釘付けにした彼は、交代するまでずっと私の視線を捉えて離さなかった。

『推しが出来たかもしれない……』
『え?誰!?』
『サッカー選手なんだけど、最初はイケメンが居るってくらいだったのに、気付いたら目で追ってて、交代させられた時に泣いてる感じの姿が一瞬映った時はほんとに泣いてるかわかんないけどこっちまで泣けてヤバかった。画面に映ってるだけで好きってなった……』
『おめでとう、それが推しが尊いって感情だよ』

 彼女にそう認定されて以来、千切豹馬は私の推しになった。その試合以外で見れないのかと思っていたら、ブルーロックTVと言う配信サービスで彼らの勇姿が月額500円で見れると言う神サービスが始まったのだ。試合だけではなく食堂やミーティングルームでの姿も見れると言った内容と破格の価格にドルオタの友人には信じられないと言う目で見られたし、実際だいぶ羨ましがられた。
 そこでイングランドグループの一員として頑張っていた千切豹馬はその縁もあってか、来シーズンよりイングランドのチームに入団するらしい。調べたところによるとスマホからでも配信サイトで試合を見れるようで安心している。国内で見れないのは残念だけど、推しの海外挑戦を応援しないファンは居ないもんね。そしてその第一歩がたった今から始まるのだ。最近ではマスコミとかにも注目されている彼らだけど、ブルーロックに所属していたから海外挑戦についての思いとかを話してくれるこの会見の場は独占配信になっている。やばい、なんかすごく緊張してきた。

『ではこれから千切豹馬のブルーロックTV特別会見をはじめます』

 そうこうしている内に司会の女の人の声が聞こえて、スーツ姿の千切豹馬が画面に現れた。え、やば。雑誌とかで特集される度に髪型いつも違うの凄いなって思ってたけど、今日はきっちり整えた感じになってるせいでいつもと雰囲気が違って見える。とりあえず友人に『推しのスーツやばい』と語彙力のないメッセージだけ送って画面に集中。

『――というわけで、世界にも俺のスピードを見せつけてきたいと思います。目指すのは世界一のストライカーなので』
『千切選手、ありがとうございました。それではこの後休憩を挟んで一問一答のコーナーに移りたいと思います』
 
 普段わがままでマイペースと言われている千切豹馬だったけど、今日のコメントは終始真面目なものだった。でも最後はやっぱり千切豹馬らしいなぁと思いながらコメント欄を見ていくと、私と同じような感想や、この後の一問一答に対する質問をどうするかと言った話題で持ち切りだ。この後は今までの真面目な雰囲気からは少しラフな感じになって、本人もコメントを読みながら興味があったり面白そうだと思ったものに答えていくと言った趣旨のようだけど、こう言うのがネット配信のいい面だよね。千切豹馬だからめちゃ適当に答えそうなのも面白そう。これがきっと潔くんとか玲王くんなら違うんだろうけど。そう言えば推しってフルネームで呼びたくなるのは私だけ?って聞いたら、全然あるよ!と言われて安心した。千切豹馬。私の好きな言葉です。

『では定刻となりましたので、再開させて頂きます。千切選手、もう既にいろんなコメント来てますよ!』
『どーも。これ俺が答える質問決めていいんだっけ?なんだよ【指ハートして】って、しねーよ』

 おお、さっきまでの真面目さが綺麗に吹っ飛んでいる。服装もスーツからラフなものに変わってるし、本当に緩い感じのコーナーなんだな。まぁこっちとしてはこう言うの大好きだからいくらでも見ときたいんですけど。このアーカイブずっと残しててくれるかな?既に私の中での神回確定だから何度でも見返したい。なんなら別にお金払ってでも買う。そう思いつつ、千切豹馬のやる気があるんだかないんだか分からないような一問一答を聞いていく。

『【プリンスとのCM共演はないんですか?】これなー、話来てたけど断ったんスよね。絶対めんどくせーもん。今度引越し祝いにプリンスウォーターを困らないくらい送るって言われてんだけど、あれ絶対CM出させようとしてる気がする』

 えー、千切豹馬とプリンスのCMとか顔面偏差値高すぎて直視できないのでは?いや、イングランド組は全体的に輝いてたけどさ。SNSで知り合った凪くん推しと玲王くん推しの人達は「あの普段ボーッとしてるのに、試合になると瞳孔開いてたりガッツポーズしたりしてるギャップが最高」「なんでもそつなくこなしそうなのに、一番メンタル脆いところが愛しい」とか言ってたっけ。

『【日本から絶対持っていくってものありますか?】なんだろうな、炬燵とか?俺冬って結構好きなんですけど、炬燵でお茶や和菓子を食べるのが好きで……そうそうかりんとう饅頭なら最高。だから冬には持って行きたいとは思ってますね』

 炬燵いいよね、ミカンとか気付いたら皮が山積みになっちゃうやつ。千切豹馬の趣味は読書だったから、炬燵で読んだりもするのかな。私とか絶対寝落ちする自信しかないけど。そうしているとコメント欄には「一緒に入りたーい!」「私がプレゼントするよ!」などと言ったメッセージがたくさん流れてきている。私はなんと言うか、推しとして千切豹馬が好きなのであって、付き合いたいとか思っているわけでは無いけど、きっとこの配信を見てる人の中にはガチ勢もたくさん居るんだろうな。……いや、嘘です、そんな気持ちも全くゼロなわけではない、かな。うん。でもほら千切豹馬って彼女居るって噂だし。これは最近のSNSの凄いところでも怖いところでもあるわけだけど、「千切豹馬 恋人」とか「千切豹馬 彼女」とかで検索すると結構いろんな情報が引っ掛かる。小学校時代にクラスの女の子を何人も一気に振ったとか、その顔を武器に恋人を取っかえ引っかえしてるとか、自称元カノですって子がホントかどうかわからないような情報を上げてたりだとか。有名になるって言うのも大変なんだなぁとその時初めて思ってからは、推しの迷惑になるようなことだけはやめようと心に決めていた。

『【今日の髪型もお嬢によくお似合いです!】ありがとーございまーす。【不器用だから髪結んで欲しい!】んー、残念ながら俺が結ぶのは自分と……あれ?これまだ?もう言っていいやつ?』

 ん?いま自分とって言った?あの千切豹馬が自分以外に髪弄る相手がいるってこと?
 千切豹馬が言いかけた言葉に慌てる司会の女性や、カメラ範囲外に居るらしいスタッフさんとのやり取りが流れて、画面は暫くお待ちくださいの表示に。それを見たコメント欄の流れも今まで以上に加速する。

【まだって何?!】
【え?お嬢が自分以外に髪結ぶ相手がいる……だと?】
【もしかして放送事故?】
【彼女?!】
【噂はホントだった?】
【待って、嘘だよね?】
【まぁお嬢くらいなら恋人の一人や二人いるでしょ】

 容認派と拒絶派、どっちのコメントも目に留まる。そりゃブルーロックプロジェクトの中でも女子人気高い方だし、心の準備ができてない状態で言われるとそうなるのも理解できなくはない。意外と落ち着いている見ていられる私はやっぱり「推しは眺めるもの」派なのかもしれないな。よく分からない自己分析をしている間に画面が切り替わる。そこにはちゃんと千切豹馬が居て、打ち切りにならなくて良かったと変なところに安心した。

『あー、えっと。すみません、いま確認したら責任者に自己責任なら許可するって言われたので改めて。結構ネット上とかで、俺のプライベートについていろんなこと言われてるのは知ってるんですけど、俺的にはどうでもいいってのが正直な感想だったんですよ。ヤり捨ててるとか何股かけてるとか、そんなバカなことやってる時間あるなら普通に考えてサッカーの練習するだろって思ってるんで』

 人によっては物凄くダメージを受けそうな内容なのに、そんなバカなことと一蹴する千切豹馬に思わず感嘆のため息が漏れる。私はこの千切豹馬の見た目に反して肉食系で漢らしい考え方が大好きなのだ。そして同時にやっぱり根も葉もない話だったかと、一人歩きする噂話の怖さを思い知る。

『だからそれに関しては海外に行ったとしてもスタンスとしては変わらないんですけど、距離が離れる分そう言った根も葉もない噂で不安にさせたくない相手が居るので、ここではっきり言っとこうと思います』

 試合中とはまた違った真剣な眼差しをみせる赤色に呼吸をするのも忘れたように惹き付けられる。
 
『俺、千切豹馬には結婚を前提にお付き合いをさせて頂いている女性が居ます。同い年の幼馴染みで、サッカーのことを一番に考えている俺の想いを尊重して応援してくれている優しくて強い子です。本当は俺と同じタイミングで向こうに連れて行きたかったんですけど、彼女にも進路とかあるし、俺もまずは向こうでの自分の居場所を確立するのが第一なのでそこは仕方ないかなと。なので、俺自身の言動やサッカーに対することなら何言ってもらっても良いんですけど、それ以外のことを好き勝手に書くのはやめて貰えたらと思います。もちろん彼女に対する詮索とかも無しの方向で』

 よろしくお願いします。
 そう言って頭を下げる千切豹馬に思わず言葉を失った。もちろん感動したと言う意味で、だ。ここまではっきりと言えるなんて本当に彼女さんを大事に思っていないと出来ないだろうし、あんな千切豹馬の表情は見たことない。試合中ともブルーロックTVの中とも雑誌の写真とも違うそれはきっと本来なら私たちが見られるものでは無かったんだろう。そしてそれをみんな理解しているのかコメント欄も【これは認めざるを得ない……】【あのお嬢にこんな顔させる彼女さん最強かよ】などと言った理解を示すものが殆どを占めていた。それに本人がこうしてちゃんと公の場で発信したことでさっき挙がっていたみたいな余計な噂も時期に消えるだろうから、この選択はきっと正しい。上の大人がゴーサインを出したのもそこら辺をちゃんと分かっていたからだろう。たぶん。

『突然のことで皆さん驚かれてると思いますが、千切選手の彼女さんを大事にされていると言う思いがとてもよく伝わって来るコメントだったと思います。彼女さんは今日の配信ご覧になってるんでしょうか?』
『見てると思いますよ』
『それならきっと喜ばれてるでしょうね』
『あー、どうですかね?ここで発表するって言ってなかったんで』
『え?!彼女さんにもお伝えしてなかったんですか?』
『一応向こうの両親には許可とってます』
『それはなんと言うか……壮大なサプライズですね』

 まさかのお相手にもサプライズな婚約発表に司会の人も苦笑いを隠せていない。どうなんだろう、千切豹馬の幼馴染みをやってるんだからこう言ったことにも慣れているような人なんだろうか。
 
『あー、それとここまで言っといてアレなんですけど、彼女はたぶんその辺の噂とか見ても俺に何か言ってくるわけじゃないんですよね。今までそう言うの一回も言われたことないし。俺がサッカーしか見えてないのを知ってるってのもあるんですけど、俺に余計な心配させないようにって。すごいですよね、俺だったら絶対すぐ言いますよ。何だよこれ、って』

 うわぁ、言いそう。
 スマホの画面を向けて問い詰めて来る千切豹馬の姿が想像するに易すぎて笑ってしまう。と言うか彼女さんすごいな。包容力の塊か?いや寧ろ千切豹馬の相手をするにはそれくらいの寛容さが必要ってことなのかもしれない。コメント欄も【出来た彼女!】【お嬢はこれ実際やったことあるやつだな?】【彼女さん尊い……】なんて言葉で溢れている。

『なので今回のこれも、彼女を不安にさせないためって偉そうなこと言ったんですけど、不安にさせる気は無いし半分以上は俺のためなんで。向こうに呼べるまでの間に余計な噂とか見たやつに大事な彼女誑かされたらたまったもんじゃねーし、面倒事起こしたくないっつーか、向こうでサッカーに集中するための環境整備の一貫ってやつです』
 
 あ、いつもの千切豹馬に戻ってきたな?
 しかも本人はサラリと言ってるけど、惚気と牽制を同時に入れ込む高等テク込みだ。悪い顔をしている推しの顔は私の健康に良いのでとりあえずスマホで一枚撮っておく。

 そんなこんなでまさかのサプライズもあった一問一答コーナーはその後も時間が来るまで続いたけれど、当たり前のように彼女さん関連の質問が飛び交っていた。

『【いつから好きですか?】出会った時』
『【彼女のこと紹介して!】しねーよ、俺だけが知ってればいいんで』
『【ブルーロックのメンバーには言ってるんですか?】あー、確か付き合う前に潔とは一回会ってる。可愛いって言われたから、お前にはやんねーって言っときました。つーか俺に関する質問ねーの?』

 彼女の個人情報に関するような質問は完全に無視して、答えられるところは惚気や牽制を交えながら話す千切豹馬。推しの推しは推すしかないでしょ……推しカップルが尊すぎてやばい。ありがとう、ブルーロックTV。ありがとう、彼女さん。千切豹馬の新しい一面を見せてくれたことに全力で感謝します。今後は千切豹馬と彼女さんを推して生きていこう。そんな決意を新たにした神回は、ブルーロックTVの試合以外のコンテンツでは過去最高レベルの再生数を叩き出していたと言う。



 ▽
 



「やっぱり私も寝とけばよかったかな……」

 早朝だと言うのにセミの大合唱が響く中、一人で散策と言う名のウォーキングをしていた私は既に心が折れかけていた。中学時代付き合いのある友人から、推しているグループのコンサートに一緒に行くはずだった同行者が急遽行けなくなったと連絡があったのは一週間前のこと。空席を作りたくないと言う友人にチケット代と宿代で釣られた私は大学も夏休みだし、アルバイトもなんとか代わってもらうことが出来たのでこうして初めての鹿児島に足を踏み入れていた。昨日散々楽しんだ友人はまだ夢の中だったけど、私としては昼には離れる推しの故郷を折角だからもう少し味わっておきたいと意気込んではみたものの。

「よし、そこの公園で少し休んだら帰ろう……」

 慣れない土地でウロつくには時期が悪かった。そもそも千切豹馬が鹿児島出身とは言え詳しくどの辺かまでは知らないからこのウォーキングに意味があったのかさえ怪しい。まぁでも昨日かりんとう饅頭も食べたし、鹿児島の地酒も飲んだし、この公園ももしかしたら通ったことくらいはあるかもしれないし。
 
 そう自分に言い聞かせながら公園に入ると、目に入ったベンチには先客が一人居た。適当な格好で歩いていた私とは違ってちゃんとスポーツウェアに身を包んだ女性。先客が居るなら仕方が無いと次のベンチを探そうと思ったけれど、その女性の様子が少ししんどそうに見えたから心配になった。熱中症とか……?飲み物買ってきた方が良いかな。いやでも知らない人に急に渡されるのも怖いか。とりあえずハンカチ濡らして声掛けてみよう。大丈夫って言われたらハンカチは自分で使えばいいし。うん、そうしよ。

「あの、大丈夫ですか?」

 その辺にあった水道で濡らしたハンカチを持って先程の女性に声を掛けると、キャップを被って俯いていた顔が緩慢な動作で持ち上がる。

「あ、すみません……ちょっと暑さにやられちゃって」
「分かります、朝から暑いですもんね。これそこで濡らしたハンカチなんですけど、よければ使ってください!」
「え、それは申し訳ないので……もうだいぶ落ち着いてるので大丈夫ですよ」
「でも顔赤いですって!まだ使ってないやつなので綺麗ですし!」

 差し出したハンカチに驚いたような彼女は遠慮するように眉尻を下げて笑って見せるけど、その顔は大丈夫そうには見えなくて半ば無理やりハンカチを押し付けた。そんな私の勢いに負けたのか、なんとか女性はハンカチを受け取ってくれ、その首元にあててくれている。

「気持ちいい……ありがとうございます。久しぶりの地元で日本の暑さを思い知らされました……」
「毎年暑くなってますしねー。って普段は海外にお住いなんですか?」
「ええ、ここ何年か夫の仕事の関係でイングランドの方に」
「え!すごい!私の推し……じゃなくて、好きなサッカー選手が数年前からイングランドのチームに居るんです!知ってます?千切豹馬って言うんですけど!」

 いつか行きたいと思っていた国の名前が挙がったことにテンションの上がった私は、旦那さんの仕事でイングランドに住んでいる女性の地元の鹿児島に帰ってきたと言うキーワードが全く結びついていなかったし、女性がその千切豹馬の名前を聞いて驚いたように目を丸くしたことにも気付いていなかった。

「その選手がお好きなんですか?」
「はい!!て言っても恋愛的じゃなくて、その人のプレーが好きと言うか気付いたら惹き込まれてたと言うか……すごく足が速くて誰にも追いつけないくらいで、見た目はすごい中性的なのにインタビューとか見たらすごく漢らしいギャップが堪らないんです!あとその人、奥さんのこと大好きなのもまた好感度高くて、」

 そこまで話したところで我に返る。待って、やってしまった。初対面でしかも体調が悪い人に早口で推しのプレゼンをするなんて。すみません!!と慌てて謝ると、女性は優しく微笑みながら首を横に振る。そして何故か「ありがとうございます」と言われて逆に困惑した。ハンカチのお礼はさっき言われたし、さっきのどこにお礼を言われるような要素が……?

「え、なんで今ありがとうって、」
「ナマエ?」
「は、え……千切豹馬……?!」

 突然目の前に現れた最推しの姿に思わずここが外であるのも忘れて叫んでしまう。慌てて口を抑えて周りを見るけど、朝早いせいもあってかおじいちゃんが一人歩いている以外は私と女性と……千切豹馬しか居なかった。

「あのね、豹馬この人、」
「まずはこれ買ってきたから飲んで」
「ごめんね、わざわざありがとう。これ、返しとく」
「いーよ、被ってて。いつも歩いてる向こうと違ってこっち暑いし、俺と違って運動も慣れてないんだから気をつけろよ」
「豹馬の邪魔になってごめんね」
「邪魔って思うなら最初から連れて行ってねーよ。ただお前が倒れたら死ぬほど焦るから我慢せずに言って」
「気をつけます」

 ……ここは天国か?私暑さで死んだ?それとも夏の魔法ってやつ?
 推しカップルが話しているのを至近距離で見ている私は、今なら友人が推しの舞台の最前列が当たって真顔になっていた気持ちが理解出来るなと思っていた。現実だと思えないというか夢心地というか。うわぁ、千切豹馬の嫁愛を目の当たりにしちゃってるよ……奥さんが被ってたあのキャップ、千切豹馬のなんだ……しかもよく見たらウェアお揃い?そう言えば千切豹馬のSNSで一人の時はランニングだけど、オフの日は奥さんとウォーキングしてるとか見た気がする。やだ、むり、尊すぎて死ぬ。それになんだ「邪魔だと思うなら連れて行ってない」「お前が倒れたら死ぬほど焦る」って!奥さんのこと大好きすぎでしょ……本当にあの我儘お嬢な千切豹馬と同一人物……?思わず空を仰いで手で顔を覆いそうになるのを寸前のところで我慢して居ると、思い出したように千切豹馬が私の方を向く。と言うかリアルで見る千切豹馬イケメンすぎてやばいんだけど。あと、奥さんしか見えてないのが最高に千切豹馬って感じ。出来れば私のことはそのまま忘れて欲しいくらいです。と思ってたら、奥さんと目が合った。口には出てないはずだけど、視線が煩かったのかもしれない。

「彼女ね、私が座ってるのを心配してハンカチ濡らしてきてくれたの」
「マジか。悪いな、助かった」
「いえいえ!とんでもないです!!」

 私の方こそハンカチじゃ足りないくらいのものを見させて貰ったので!!
 なんて言ったら今度こそ本気で怪しい人になってしまうので心の中で叫んでおいた。そんな中、奥さんが千切豹馬の袖を引っ張ると、千切豹馬が「ん?」と顔を寄せる。その言い方がとても甘くて、聞いているこっちの顔が赤くなりそうだった。

「豹馬。彼女ね、豹馬のファンなんだって」
「っ?!」
「俺の?」
「うん。豹馬のプレーに惹き込まれるって言ってたから、私と同じだなって嬉しくなっちゃった」
「へぇ。そりゃどうも」 

 二コニコと本当に嬉しそうに微笑む奥さまは数年前の配信で千切豹馬が言っていた通りの優しい人で、あの時あの場所で千切豹馬がわざわざ婚約発表したのもわかる気がした。さて、奥さまには千切豹馬が来たから大丈夫だろうし、いい加減本人たちの目の前で変なことを口走る前に退散しよう。推しを愛でるのは離れたところで、決して本人に迷惑をかけてはならない。これはオタクのマナーであり掟だと思っている。

「待って」

 そんな私を引き止めたのは意外にも千切豹馬だった。え、私なにかしました?

「あー、なんかペンとか持ってる?」
「ペン……?」

 カバンに確かペンケースが入ってるから何本かあると思うけど、どうしたんだろうか。意図が読めずに首を傾げる私に千切豹馬が言葉を続ける。
 
「こいつ助けて貰ったお礼ってわけじゃねーけど、俺のファンって言ってくれてたしサインで良ければ書くよ」

 別にいらねーなら無理にとは言わないから。
 そう言われた私は次の瞬間、即座にペンとパスケースを差し出していた。それこそ千切豹馬が思わず吹き出すほどの速さで。だってあの千切豹馬のサインだよ?!ファンサも完全にその時の気分でやったりやらなかったりで、現地に行っても奥さんの待つ家に早く帰りたいからと言う理由でパスするような千切豹馬のサインを貰えるチャンスを蹴る理由なんてあるはずが無い。

「はい」
「はわぁ……ありがとうございます……!!」
「いや、こっちがお礼だし。大したもんじゃなくて悪いな」  
「いいえ!大したものすぎます……!家宝にします!これからもずっと応援させてください!!あと、日本はまだまだ暑くなるのでお二人ともご自愛くださいね!」  
 
 そう言って頭を下げて今度こそ公園を後にする。少し離れた場所で恐る恐る手元のパスケースを見るとそこにはちゃんと綺麗なローマ字で書かれたサインがあって、さっきまでのことが夢ではないと証明してくれた。早起きは三文の徳と言うけれど、三文どころじゃないものを得たと思う。一生私は千切夫婦を推していく。推ししか勝たん。

 ここに来るきっかけとなった友人にも感謝しないとな。元々宿代は出すつもりだったけど、寧ろ上乗せが必要なのでは?来る時は嫌気がさしていたセミの大合唱も今となっては全然気にならならず、ホテルに戻る足取りは来た時とは比べ物にならないほど軽かった。
 
 この夏、私には一生忘れられない思い出が出来ました。




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