暫く時計の音に身を任せていたが、長居はするべきではないとエミリオは腰を上げた。彼を見送る為にバッカスは玄関まで共に進み、顔色が良いとは言えない企業の総帥を頭を乱暴に撫でる。
「い、きなり何だっ!?」
「んー、子供扱いか?」
「……こういう事は自分の娘にしてやれ」
「思春期の娘にするには少しハードルが高いんだよ」
その言葉に対して言いたい事はあったが、それはわざわざ口にする事ではないと溜め息を吐く。
「じゃあな」
「ああ、道草しないで帰れよ」
「…………」
一睨みしてからエミリオはバッカスに背を向け人が疎らな静かな道を歩き出す。
しかしふと視線を感じ振り向くと、先程まで自分が居た建物の二階にその視線があった。
「……覚悟はしてた筈なんだがな」
軽く手を振り、同じ動作が返ってきたのを見て再び歩みを進める。しかしどうにも心が落ち着かず、このまま帰るのは危ういと目的地を変えた。
ひたすらそこへ向かっていると次第に波の音は大きくなり、冷えた風が頬を掠める。
「流石にこの時間帯では誰も……」
そう思い目指した港の外れ。
だが、予想に無かった光景がそこにあった。
「……ユダ……?」
やや波の高い海を見ているらしいその後ろ姿は間違いなく“彼”。それを認めた瞬間身体中に悪寒が走る。
闇色の海が、視界の中心に居る“その人”を飲み込もうと大口を開けている。
「……っ!?」
無意識に走り出し、無防備な腕を掴んだ。
突然の事に流石に驚いたのかユダは目を丸くしエミリオを見る。
「……、す、すまないっ」
意識が現実に戻り手を離すと、ユダの表情は訝しげなモノに変わった。
それは当然の行為であり、表面上だけは冷静に努めるエミリオは言葉を探す。
「その……高い波が来ていた様に見えてな……」
かなり苦しい言い訳だと己を叱咤するが、これ以上の言葉が思い浮かばないのが現実だった。
どうするべきか更に悩む最中ユダが早足でその場を去った。
「……何をやってるんだ、私は」
当然追いかけるなんて事が出来る筈も無く、先客が居なくなった一人の港で彼も海を見る。
灯台が時折海に光を送るが、それだけでは水底が見える事は無い。脳裏に過るのは、冷たい闇の中に一人残された“彼女”の姿。
「クソ……」
あの時届かなかった手が震える。とうに終わった事なのに、そう言い聞かせて過るのは血に沈む“親友”の姿だった。
何時も届かないこの手は一体何の為にあるのか、感情の矛先が揺れる。
「大丈夫……大丈夫だ……」
そう何度も言い聞かせ手の震えを抑えようと手を握った直後、何かの気配を感じ慌てて背後を確認する。
そこに居たのは立ち去った筈のユダであり、彼は何も言わずに何かをエミリオに押し付けた。
「な、何だ……?」
分からないまま受け取ると、目の前の“彼”は口を開くもすぐに閉ざし先程よりも速く去って行った。
無理矢理渡されたそれを確認中すると、正体は栄養ドリンクであり、更に言ってしまえば自社製品。わざわざ買ってきたのだろうか。
「……はー」
苦笑混じりに深く息を吐き、手の震えが無くなっている事に気付く。
そして同時に、一瞬ながら緩んだ心から本音が漏れた。
「会いたいよ……」
叶わぬモノと分かっていても、願わずにはいられない。