明日に備え皆は早目にベッドに入ったが、エミリオだけはリビングで手帳を開いていた。朝食の下準備をしていたリリスはテーブルに生クリームが乗ったプリンと2人分の紅茶を置く。
「……何だ」
「夜食よ、随分頭を使ってるみたいだから」
「それを見越して多めに作っていたのか」
「兄さんの妹を何年やってると思ってるの?」
そう言われては納得するしかないとエミリオは小さく笑った。
リリスは向かい側に座り紅茶を飲みながら手帳にペンを走らせる音に耳を傾けていたが、不意に話を切り出した。
「やっぱり、エミリオが淹れた方が美味しいわね」
「そんな事はないだろう」
「そうかしら、マリアンさん直伝でしょう?」
「彼女より上手く淹れられる時は永遠に来ないと思うがな」
そう言いながら笑い、カップに口を付ける彼に普段の緊張感は無い。少なくとも今は肩の力が抜けているのだろう。
「あーあ、もう行っちゃうのね」
「仕事だからな」
「仕事じゃない時なんてあるの?」
「無理矢理休暇を作られる程度にはな」
つまり自分から休暇を取ることは無い。
予想通りだったのかリリスの表情には脱力感があった。
「周りの苦労が目に見えるわ」
「職務を全うしているだけだ」
「あらあら、社長の鑑ね」
特に説得するつもりは無かったのかリリスはすぐに引き下がり紅茶を飲む。普段ならば気にならないペンを走らせる音を静寂が強調させる。
「何を書いてるの?」
「カイルの晶術についてだな。型は出来ているがまだまだムラがあり過ぎる」
「手厳しいわね」
「妥協なんぞできん、身を守る術の一つだからな」
それは一人の師としての言葉だろうか、真実を知る者であればそう思うだろう。
だが彼女はそれに触れることは無い。
「リムルも晶術の訓練してたけど……あの授業馬鹿っぷりは誰に似ちゃったのかしら」
「灯台下暗し……」
「何か言った?」
「いや……」
不自然にペンの音が大きくなるが指摘されることは無かった。
「そういえば届けてほしい物っていうのは何なんだ?」
「ああそれね、実はリムルにバッカスが頼まれたらしいのよ」
何やら嬉しそうに立ち上がり奥からリリスが持ってきたのは、新品らしいフライパンとおたま、間違いなく調理器具。
「……料理の修業でも、始めたのか?」
我ながら愚問だとは思うが、エミリオは言わずにはいられなかった。
だがそんな希望は脆くもあっさりと崩れ去る。
「修業は修業でも死者の目覚めの修業をしてるらしいわよ? 近所迷惑にならないように街の外でやってるみたいなんだけど、街で買ってるフライパンとおたまじゃすぐに傷んで駄目なんですって」
「で、お前と同じ物を使いたいと……」
「私のも普通なんだけど、母親としては嬉しいものなのよね」
「そ、そうか……」
あまり掘り下げてはいけない、そう本能が囁きこれ以上訊くのは止めた。
「まあ、なんだ……それを届ければいいんだな」
「ええ、お願いね」
バッカスは止めないのかと考えはしたが、それこそ愚問だとそれは一瞬で否定される。
手帳を閉じたエミリオはスプーンを持ちプリンに意識を向けることにした。
「しかし本当に、この料理の腕を田舎に眠らせておくのは勿体無いな」
「誉めたってもうプリンは無いわよ?」
「それは残念だな」
そうは言うが名残惜しくゆっくり食べることも無く皿とカップを空にし彼は立ち上がる。
「休むの?」
「いや……少し夜風に当たってくる」
「そう、遅くならないでね」
「分かっている」
テーブルの上を片付け始めたリリスの注意に軽く返事をし玄関に向かう。
足音は立てず、無意識の溜め息を交えながらブーツを履きドアを開けた。途端冷たい夜風が髪を揺らし、緑の匂いが鼻を掠める。
身を晒せば、暫くは見られないであろう田舎の姿が視界に広がった。
「……本当に、変わらないな」
特に行く当ても無く歩き家の裏手にある柵に腰を掛ける。目は無意識に、“彼”が眠る場所を向く。
「何処も同じなのだろうかな、子が親を目標にするのは」
その気持ちは、今ならば分からなくもない。
「私の周りはお人好しばかりか……」
勝ったまま逝ってしまった彼は当然、伝え聞いた父もそう。彼等が“お人好し”じゃなかったら、自分はどうなっていただろうか。
「理不尽だよなぁ……」
思わず呟いて、腰に身に付けているレンズを月に掲げる。加工済みの証である青い光が浮かび、飾りにしている見慣れたシルバーが揺れた。
「私が死ねばよかったとは言わんが、やはり理不尽だ」
何年経ってもそう思い、考え、結局答えは出ない、出るわけがない。
ただ、それに囚われてはいけないという事は分かる。
空をゆっくり見上げるには平和でなくてはならない。その為にするべき事は過去を悲観する事ではないのだ。
「……そうだな……このままでは彼女にも顔向け出来んな……」
地面を踏み締める足には確かな意志の下、力が込められる。
「守らなければな……」
諦める事を諦めようと、改めて友に誓い彼はその足を踏み出した。