「静雄っていい名前だね」

 あいつは俺の名前を初めて褒めた奴だった。それまで名字とあわせて最も名前負けしていると言われていた俺は驚き、言葉を出そうにも出せなくなった。初めてのことに、何と答えればいいのか分からなかったのだ。ナマエは楽しそうに続けた。

「男の子の名前ってみんな同じようじゃない?静雄、なんて名前の友達他にいないもん。静雄の名前、好き」

 つまりナマエは俺の名前が珍しいから「いい名前」と思ったらしい。しかし小学生の俺にとって、理由なんざどうでも良かった。ただ名前を褒められたというその事実だけが脳に甘くこびりついて、忘れることができない。今思えば自分はガキだった。小学生だったのだから当たり前だが。俺はナマエが好きだった。ナマエは俺の名前が好きだっただけかもしれないが、怖がりもせずいつも話しかけてきては笑いかけてくれたことが今も美しく思い出される。その好きという感情が恋愛感情だと気づいた頃、臨也と出会った。
 ナマエは臨也に夢中になった。

「イザヤ、って調べてみたの。そしたら聖書に出てくる予言者の名前なんだって。かっこいいよね。確かに臨也くん、不思議な感じがするもの」

 ナマエは嬉しそうにそう言った。不思議な感じってそれはあいつの性格の悪さが歪んでるからそう思うんだ。俺は今にも教室の端から端までの机と椅子を臨也に投げ飛ばしたい衝動に駈られたが、そんなことをすればナマエが怒るだろうと思ってシャーペンを折るだけにしといた。
 バキッという不愉快な音にナマエが気付き、血が流れる俺の指を見てナマエは少し怒っていた。

「どうしたの?ダメだよ、また自分を傷つけて」

 今も昔も俺は好きで自分自身を傷つけたわけじゃねぇ。ナマエはきっとそれを知っていたが、他に言う言葉がなかったんだと思う。何かを言ってくれるのなら、昔のように嬉しそうに軽やかに「静雄」と名前を呼んで欲しかった。
 ナマエはポケットの中から絆創膏の箱を取り出す。いつも俺の傷に絆創膏を貼るのはナマエで、その絆創膏の箱の中身はもう少ないらしくナマエは「あ、大きいのしかないや、いいかな?」と困ったような表情を見せた。俺が返事をせずにナマエの手元ばかり見ていると、ナマエが大きめの絆創膏を俺に渡す。

「はい、シズちゃん」

 ナマエは臨也と同じように俺を呼ぶようになっていた。

 臨也はナマエに手を出すことはしない。人間的にナマエをとても面白いと思っているらしいが、それ以上にナマエに奔走する俺を見ているのが面白いらしく、わざとナマエを突き放したりナマエの前で俺を誰かに襲わせたりした。キレた俺は暴力を奮い、ナマエが怒る。「また自分が傷つくよ」と。
 あぁ、だから、好きで傷つけてるわけじゃねぇんだ。

 卒業し、俺は職を転々とした。ナマエは大学に入り、池袋からいなくなった。メールも電話もしていたが互いに忙しくなったりでまちまちになったころ、臨也のせいで警察に捕まった。ナマエは心配したが、俺が真実通りに「臨也のせいだ」と言っても「いくら臨也くんが嫌いだからって」とたしなめるように言うからムカついて、いつもの要領で携帯をへし折った。連絡する手段がなくなり、ナマエとはそれ以来連絡を取っていない。

「シズちゃん」
「臨也…!池袋に来んなって、」
「ナマエちゃん、大学卒業おめでとう」
「…あ?」
「あっれ?知らなかった?池袋に戻ってくるんだって。あ、そっかシズちゃん自ら連絡断ち切ったんだっけ」

 臨也は至極楽しそうだった。俺はナマエが卒業する歳になったことも池袋に戻ってくることも知らなかったから頭が混乱した。
 ナマエ戻ってくる?池袋に?そんなことになったら俺がいまだに自分の力を制御出来ない奴だと知られてしまう。俺の名前は池袋でけっこう知れ渡っていた。ナマエはきっと怒るだろう。怒られることに少し期待があった。
 臨也はニヤニヤと笑い、携帯を開いてそれを見ながら言う。

「臨也くんに会えるのを楽しみにしてます、やっぱり臨也くん以上の名前の人なんかいなかったよ、だって。いやぁ、面白いね、ほんと。彼女は俺の名前にしか興味ないんだ、本当に。中身も外見も関係ない」

 面白い、と臨也はもう一度言った。俺は煙草を噛みきりそうなくらい歯に力が入る。

「悔しい?シズちゃん」

 俺はいつも通りに臨也の名前を叫ぶ。そこからなにを考えていたのは覚えていないが、やはり臨也を仕留めることはできなかった。
 臨也が逃げた後にどうしようもない倦怠感に襲われた。写真もあるしナマエの顔は覚えているが、声はもうほとんど覚えていないことが分かってやるせなくなる。この感情もそろそろ終わりか、と薄々気づいていたがやっぱり終わりらしい。いつまでもガキの頃の思い出と印象ばかり引きずってもしょうがない。女は腐るほどいるし、とにかく、ナマエに思いを寄せるのはやめようと思った。
 うだるような暑い夜で、星空より綺麗に光る池袋に少し腹が立った。

 それから二週間後、トムさんとの待ち合わせ場所に行こうと交差点の信号待ちで止まっていると後ろから視線を感じた。わざわざ構ってやることもない、襲いかかってきたらこっちも暴れればいい話だと放っておいたらドキッとするような声が俺を呼ぶ。交差点の雑音に紛れて、その声は俺の脳を揺さぶった。

「静雄!」

 ナマエだった。俺は振り返り、雑踏から何とか顔と手を出してる女を見つける。ナマエは笑い、手を振ってきた。信号待ちの雑踏を逆走するとちょうど信号が変わって人混みが流れ出した。バランスを崩すナマエをギリギリのところで支え、庇うように自分の方に寄せてやりすごす。
 人混みが途切れてナマエを見下ろすと、ナマエは「ありがとう」と笑った。ガキの頃から変わらない笑顔だ。懐かしさと他の感情で死にそうだ、この間決意したけれどやっぱりナマエを諦めることは難しいと思った。

「ただいま」
「…おかえり」
「その格好似合うけど浮くね。どうしたの?お仕事?」
「幽がくれた」
「あ、幽すごいよね!頑張ってる!私映画見たよ!」
「…ナマエ」
「なぁに、静雄」

 人に酔ったときみたいに目眩がした。暑い。今日は過ごしやすいなんて言った天気予報が恨めしい。
 ナマエが俺の名前をマトモに呼ぶなんて本当に久しぶりだ。

「ねぇ静雄」
「あ?」
「謝りたいことがあるの」
「…何だよ」
「ほら、あの、静雄が捕まったときの」
「…」
「臨也くんから聞いた。本当に臨也くんのせいだったんだね、ごめん」
「…」
「あれから連絡もつかなかったし嫌われちゃったかなって思ったけど、うん、良かった」

 ナマエは少し泣きそうだった。泣きそうなときに目をそらして頬をしきりにあたる癖が治っていない。やっぱりナマエが好きだと感じる。名前を呼ばれてこんなに嬉しいのはこいつに呼ばれたときだけだ。

「あ、えっと、やっぱり、怒ってる?」
「…いや、怒ってねぇよ」
「ほんと?」
「怒ってねぇ、びっくりしただけだ」
「良かった!」
「本当に久しぶりだな」
「そうだね。…静雄は相変わらず傷だらけだけど。臨也くんから聞いてるよ?借金取りしてるんだって?」
「…」
「昔から本当に変わらないんだから」

 ナマエは小さなカバンから絆創膏の箱を取り出した。昔と同じメーカーだがパッケージが違うそれは俺の家にもある。ナマエも今でも使っているのか、と少し嬉しくなった。変わらないものがあるのは、嬉しい。

「はい、絆創膏」
「おう」
「静雄」
「なんだ?」
「今から時間ある?」

 あ、やべぇ、トムさんと約束してた仕事があったんだった。しかし久しぶりに会ったわけだし、連絡して時間だけでも変えれば問題はないだろう。と考えているとあの苛立つ声が聞こえた。

「残念だけどナマエちゃん、シズちゃんは今から仕事なんだよ」
「臨也くん!」
「臨也!」
「テレクラで借金した42歳の男のところに借金取りに行くんだって」

 何で知ってんだよお前が!眉間にシワをよせると、ナマエが嬉しそうに叫んだ。この感じも久しぶりだ、イライラする。

「久しぶり臨也くん!」
「久しぶり。元気そうだね」
「臨也くんも!」
「そりゃあもう」
「臨也ァ…!」
「なんだいシズちゃん。あぁ、ナマエちゃんのことなら安心してよ、俺が今の池袋を案内してあげるから」
「池袋に来んなって言っただろうが!!」
「ちょ、ちょっと静雄」
「情報屋の俺の方が池袋に詳しいと思うけど?」

 あぁ気に食わねぇ、ナマエへの感情のようにいつまでも経ってもこの感情だけは変わらねぇ、折原臨也、気に食わねぇ野郎だ。
 俺は苛立ちに任せて臨也の名前を叫んだ。野次馬が振り向き、たまに「またあの二人か」という声が聞こえてまた苛立つ。近くの標識を掴み、臨也に向かって振りかぶるとナマエが叫んだ。

「静雄!」
「!」
「あれ?シズちゃんって呼ぶのやめたんだ、ナマエちゃん」
「まぁね。臨也くん、静雄も、ちょっとは大人になってよ」

 そうナマエが言うと、ずっとニヤニヤしていた臨也は急につまらなそうな顔をして「なんかつまんない」と呟いて人混みにサラッと消えた。また臨也の名前を叫ぶとナマエが俺を睨む。

「静雄」
「…なんだよ」
「静雄」
「…」

 何度も呼ぶから何故か気恥ずかしくなって目をそらす。ナマエは怒っていたはずなのにクスクスと笑い、「やっぱり静雄が一番好き」と呟いた。俺の名前が好きなのか俺自身が好きなのか、曖昧な言葉に少し呆れた。こういう意味の分からないところが臨也にとっては魅力的なのかも知れないが正直俺には心臓に悪い。
 ナマエは笑う、それは幼いときから変わらない。

「静雄、私の名前呼んで」

 カンカンと照りつける太陽が俺の頭を焼き焦がす。額は汗まみれで、舌打ちをしたくなるくらいの熱気が渦巻いている。池袋が俺を陥れようとしているような感覚だ。池袋が俺の味方だとしたらナマエの味方でもあるだろう。暑い。
 渇いた口内の唾液を搾って飲み込んだ。改めて名前を呼ぶだけで何でこんなに困らなきゃなんねぇんだ。きっと今の俺の表情は端から見れば相当不機嫌に見えるだろう。

「ナマエ」

 呼ぶと、ナマエはまた「静雄」と呼んだ。その瞬間にチカチカと視界が光って歪み、頭を殴られたときみたいに脳が揺れた。

 熱中症だ、とトムさんが言う。なんだこれ、夢だったのか全部。
 渡されたペットボトルで頭を冷やしていると、トムさんが紙を渡してきた。普通のルーズリーフで、四つ折りにしてあるが何も書かれてないように白い。

「なんすか」
「お前に渡してくれって」

 開くと、真ん中に小さな文字で電話番号とアドレスと「今夜は空いてます」という言葉が書いてあった。相変わらず丁寧な字だけど小せぇんだよ、とルーズリーフをまた畳む。
 あぁまたあいつの声であいつに名前を呼ばれるのか。テレビで今夜は熱帯夜だと予報士が言っている。「熱帯夜か」と呟くトムさんに俺は言う。

「トムさん、俺また倒れるかも」
「次は助けねぇぞ」


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