「しんどい」
そう呟いた私の声にキヨはゆっくりとこっちを向いて、目を合わせれば「わっ」というようなおどけた顔を見せたからちょっと笑った。その拍子にちょっともやもやが吹き飛んだけど、呼吸をすれば元に戻る。
目の前にはびしょ濡れになった体操服が置かれていて、机の端からポタポタと雫が落ちていた。音がするたびにどんどん惨めになったから私はつい呟いてしまったのだ。さっきまで黙って一緒に体操服を見つめていたキヨは改めて私に笑いかける。
「学校がしんどい?」
「しんどいよ。こんな学校なら、やめた方がまし。親に迷惑かけるからやめないけどね」
言い訳がましくつらつら喋る自分に嫌悪感が増した。まるで用意していたセリフみたいでカッコ悪いし、恥ずかしい。涙が出そうなのをこらえて、どうしよっかなーと独り言を言ってみたけど、蚊が鳴くみたいな小さな声で悲しくなった。平気だと言えたらかっこいいのに。
「とりあえず、どこかでしぼらなきゃね」
私の小さな声を拾ったキヨは腰に手を当てて少し声を張り上げた。うん、とまた小さな声で返して体操服をさわろうとしたけれど本当にびしょ濡れで持とうに持てない。体操服をつまんだまま静止する。
あー、私、カッコ悪い。濡れた体操服でさえ触れない。
「平気って言えたらなぁ」
「どうして?」
声は震えるのに、何かを言わずにはいられなかった。悪態でも言い訳でも何でもいいから、逃げたかった。濡れた体操服を濡れながらしぼる自分を想像するのが嫌で嫌で、どうにかしたかったのだ。
キヨがジッと私を見るけれど私はキヨを見ることができなかった。キヨはいつも味方でいてくれる。けれど、いつ敵になるか分からない。いや、もしかしたらもう私に嫌気がさして軽蔑してるかもしれない。いくらキヨが女好きでも、こんな、カッコ悪くて恥ずかしい私なんかに構う義理はないのだ。
「カッコ悪くて恥ずかしいよ」
「…学校やめる?」
「無理だよ」
「じゃあ我慢してるの?」
「…」
無理だよ、と答えたかった。もうこれ以上傷つきたくなかったし惨めな思いもしたくない。けれど、そんなさらにカッコ悪いことなんか言えるわけがなかった。
学校をやめることはできない、でも我慢もできない。じゃあ私はどうすればいい?逃げたいにも逃げ道はない、リセットしたくてもリセットボタンはない。
みるみる瞳の縁に涙がたまって、喋れなくなった。沈黙に押し潰されそうだ。
私は、どうすればいい?
「どうしても、学校やめられない?」
「…」
同情するような、キヨは優しい声だった。私は黙って頷く。キヨは質問を続けた。
「親御さんのため?」
「…」
「そっか、そうだよな、うん」
「…」
「学校やめようか」
キヨはケロッとそう言って、笑った。私は驚きのあまりに涙を瞳から落としてしまい、慌ててぬぐう。
何言ってるんだこいつは。
「ごめんね、俺は君をあの子たちから助けることはできない」
キヨは苦笑しながら謝った。それは今までに何度もキヨが謝ったことで、私はキヨが謝るたびに泣きそうになって声が出なくなり、キヨに「謝る必要はないよ」と言えない。今もそうだ。
キヨは真正面から私に向き合って、私の手を取った。大きくて暖かい。
「けど、君に逃げ道は作ってあげれるよ。まぁそれくらいしか出来ないんだけどね」
そう言って私の手を引っ張り、キヨは教室から出た。鞄も持たずに昇降口へ降りる階段をリズミカルに踏んでいく。
「千石くんが言うから仕方なく学校をやめます、ってことで、さ」
キヨの手は大きくて暖かい。どこまでも行けそうなくらい。
090913