私の母は刺繍や編み物が好きだった。母が死んだとき形見として貰った一式を久しぶりに引っ張り出してみたら何だか急にワクワクして、また刺繍でもやってみようかな、なんて気になった。昔遊んでいたおもちゃを見つけてような感覚だ。
随分前のことだから覚えているかどうか不安だったけれど、始めてみればするすると記憶が蘇ってきて指が勝手に動いていった。そうそう、この柔らかい糸の感触が好きだったなぁ。
まずは簡単なイニシャルでも、と縫っていたらゴンゴン、とドアがぶっきらぼうに叩かれた。返事もする間もなくエースがドアをあけて「よう」と笑う。毎度のことだからもう慣れたけど返事くらいさせてくれてもいいのではないか。

「何やってんだ?」
「刺繍だよ」
「そんなんもできんのか」
「できるってほどじゃないけど…久しぶりに挑戦」
「へぇ」

感心したようにエースはそう言うと、ソファに座って私の膝に頭を乗せた。当たり前のように刺繍糸がエースの顔にかかるが、それをぺいっと顔から払って目を瞑る。このマイペース野郎は。

「邪魔なんですけど」
「気にすんな、寝るだけだ」
「気になるわ」
「ぐー」
「マジかよ」

私の落胆の声はエースに届かない。本当にいびきをかいて寝始めたエースは私が持っている布や垂れ下がる糸が顔にかかろうがぴくりともしなかった。エースは眠りの天才だ。こればっかりは感心する。
エースがこんなんだから、もう私も気にしないことにした。窓を開けっ放しだから風で糸がゆらゆら揺れるのが気になったけれど、それも気にしないことにした。


母は、とても優しい人だった。女手一つで私を育ててくれて、早くに亡くなったが彼女に教わった幾つもの教養が私をここまで生き延びさせてくれたと思う。何の因果か海賊と結ばれてしまってそのまま海賊の一員となってしまったが、私が幸せなのできっと喜んでくれているだろう。
そういえば、刺繍をしているときに母はいつも歌をうたっていた。何の歌?と問うと、針子さんの歌よ、と答えてくれたが歌詞がどうしても思い出せない。メロディは覚えてるんだけどなぁ。確か、こんな、

「……何の歌だ?それ」
「あ、ごめん」

声がして刺繍の枠を持ち上げると、エースがこちらを見ていた。笑っているから私も笑って時計を見ると、もう一時間近く経っていた。それに気が付くと急に腕や肩が痛くなって、道具を置いて軽く背筋を伸ばす。エースはそんな私に「なァ」と答えを急かすのだった。その姿がなんでも知りたがる子供のようで可愛らしいと思った。

「針子さんの歌だよ。昔、お母さんが歌ってくれたんだけど歌詞が思い出せなくて」
「ふぅん」
「何笑ってるの?」
「いや、いい歌だ」

そう言ってエースは手を伸ばして私の毛先を触った。最近海の風で傷んできたからあんまりまじまじ見ないでほしいなぁ、と思ったけれどエースはそんなこと気にしちゃいないだろう。
私はさっきと違って手持無沙汰で、ひとまずエースと同じようにエースの毛先を触った。真っ黒で、少し傷んでて、少し寝汗をかいている。ぐっすり寝たねぇ、とエースのおでこから生え際まで撫でたらエースは照れくさそうに笑った。
きっと、エースのお母さんも、私のお母さんも、この愛しい気持ちを誰に言えばいいのか分からずに自分の胸に押し込めただろう。だから押し出されて涙が出そうになるのだ、この気持ちは。

「……なんで、泣くんだよ」

エースが困った顔をしている。大きな手が近くまでやってきて、太い親指が目尻から涙を拭っていく。こんなに大きくなったエースを、彼女は見ていないのだ。それが酷く悲しくて寂しかった。私が彼女の分までこの人を十分に愛せることができたらいいけれど、母親の愛情がどれほどのものかは私には分からない。

「エース、好きだよ」

そう言ったらエースは一瞬驚いた顔をして、すぐに少し笑った。「ありがとう」と言うから私はまた泣いてしまった。エースが慌てて私の膝から起き上がって私を落ち着かせるように抱きしめる。
本当は私が思い切り抱きしめて思い切り好きだとか愛してるとか言ってあげたいんだけど、エースは苦しいくらいに私を抱きしめた。本当は私は悲しいんじゃなく、エースが愛しいだけなのだ。このまま世界が終ってしまえば幸せだろうな、と目を瞑った。


20180219
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