▼ 紅に魅了される2
自身を戒めるように手首を握れば、トムは、私の両手首の痣に今気づいたらしい。「ごめんね」と謝りながら杖を当てて痣を消してくれた。なぜ謝るのか問えば、喧嘩になり家を飛び出そうとした私の引き止めようとしてついたと言う。
「喧嘩って?」
「今の君に言っても仕方ないだろう。いや……関係もあるか」
トムは逡巡したのち立ち上がり、壁際の棚から一本の棒を取り出した。
「ごめんね、喧嘩の時に君の杖を折ってしまったんだ」
「杖を折るって……一体どんな喧嘩に?」
トムの説明が正しければ、杖は魔法を使う道具で、魔法使いにとって命綱というではないか。どうすれば、杖が折れるような喧嘩になるというのだろう。
「文字通り、火花散る戦いかな」
食い下がってみても、トムはこのようにはぐらかすばかりだ。
「……記憶がないんだから、喧嘩について聞くのはもうやめるわ。でも、私も魔女だから魔法が使えるのでしょう? 杖はどうすればいいの?」
「杖職人に問い合わせたけど、今杖が品薄らしくてね……2、3ヶ月は待たないとダメらしい。不便になっちゃうだろうけど、大丈夫かな」
「魔法を使えた時のこと、覚えてないんだもの。大丈夫よ。それより、杖って普通に買えたりするものなのね!」
「魔法界の商売について紹介してあげてもいいんだけど、この家の紹介が先じゃないかな。君を世話してくれる屋敷しもべ妖精がいるんだ、マンソンジュ」
トムが突然何かの名前を呼んだと思ったら、何もない空間からバチっと音がして小さく皺々の生き物が現れた。屋敷しもべ妖精というらしいそれは、私に恭しく礼をする。
「お嬢様、何かありましたらこのマンソンジュにお申し付けくださいです。マンソンジュはお世話を任せらていますのです」
酷くキーキーと耳障りな声だった。ギョロリと大きな瞳が忙しなく左右に泳いでいる。まるで私やトムに恐怖心を抱いているようだった。
「マンソンジュ」
私が名前を呼ぶと、ビクリと体を揺らしたマンソンジュは何でございましょうと聞いた。椅子から降りて屈む。そのまま、右腕を差し出した。
「2回目になってしまうのかもしれないけど、宜しくね」
「お嬢様が……マンソンジュと握手してくださる!」
何とお優しいのでしょうとキーキー声で泣くので頭に響いた。超音波みたい。トムが「下がれ」と命じると、マンソンジュは泣きながら一度礼をしてその場から消え、差し出したままの右手がやけに寂しい。
「しもべ妖精と握手なんてすると、大泣きして大変だよ」
生き辛い性格だよねと笑うトムの声音は、先ほどの下がれと命じている時の冷たさは含んでいない。いくら見目麗しいからといって、以前の私は何故こんな優しさと冷たさを内包しているような人物と婚約していたのだろうか。記憶を失ったのだって、トムとの喧嘩の拍子だったのかもしれない。
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