5/30 渋川千夏
「……変質者、かあ」
「女子高生の前に現れ、声をかけて怯えさせる……どんなこと言ってんだろうね」
昼休みの委員会の緊急召集で手渡されたのは、1枚のプリント。帰りのホームルームで注意を呼び掛けるようにとだけ言われて会議は終わった。予想より短くて、お昼ご飯食べる時間はちょっと残っている。
我妻くんも私もお弁当を持ってきてなかったので、空席が目立ちはじめた学食で向かい合ってご飯を食べている。私は本日のパスタで出てきた和風パスタ、我妻くんは天ぷらうどんとプリン。ちょっと食べ合わせ悪そうな組み合わせだ。
「うーん、ちょっと怖いね。しばらくは先生たちが見回りしてくれるって言ってたけど、先生も人だし限度があるから」
「そのうち風紀委員もとか言われたりしないよね……」
「ないでしょ、狙われてるの生徒だもん」
不審者は昼夜問わず現れるためできるだけ女子は一人で登下校しないようにと言われたけど、女子だけ集まっても変わらないんじゃないかな。でも男子と下校できるかと言われるとそれは違う。家まで送られるのは、さすがに申し訳ないし。
「禰豆子ちゃんは俺が守らなきゃ……」
「あの子中学生だから平気でしょ、竈門くんもいるし」
それより身近な女子高生、目の前にいるでしょ。守ってほしい訳じゃないし、我妻くんはそんなに強くないって思ってるけど。口の上に貼り付いた和風パスタの海苔を剥がそうと顔をしかめているから、きっと私のこの表情は伝わらないだろう。
取れた海苔を水で流し込む。残りのパスタを適当にくるくる巻いて口に放り込んだ。ごちそうさまでしたと手を合わせた。
「でも、先週木曜のはどうやって現れたんだろうね。川の向こうにいたと思ったら、五分後に駅の裏通りにいたんでしょ?」
「もしかしてお化けとか!? アーッムリムリそれ以上言わないで!!」
「言ってるの我妻くんじゃん。こっちに汁とかつばとか飛ばさないで」
自分でビビるなら言い出さないでほしい。こっちは我妻くんの言動に驚いてるんだから。
辺りに飛び散らしたうどんのつゆやら唾やらを拭いた。なんで私がやらなきゃいけないんだろう。汚したの我妻くんなのになあ。
「……渋川さんさ、家川の向こうだったよね?」
「そうだけど、それがどうしたの?」
「俺と……俺と一緒に帰ろう! 今日!!」
「え……えぇぇぇ?」
「そんで俺のこと守って! お願い!!」
いや、あの……なんなの?
溜め息を隠すことなく我妻くんの顔を見つめる。パッと見女の子にも見える嘴平くんじゃないんだから、不審者に怯えなくていいと思うんだけど。
「……まあいいけど、その代わり私が襲われたら助けてくれる?」
「いいの!? さすが渋川さん心の友だぜ!!」
……私、我妻くんと心の友だっけ?
昼過ぎの授業をやり過ごして、部活に向かう友人を見送ってから教室に残っている我妻くんと顔を見合わせた。お互い、部活動はやっていないし今日は雑用を押し付けられもしていない。
「じゃ、行こっか」
「そうだな、早く帰ろう」
よく考えたら我妻くんと二人で帰るのはこれが初めてだ。この前の定食屋のときは竈門くんがいたし、こんな非常事態でなければ男子と二人で帰るのがまずありえないっていうか。そもそも私あんまり人と一緒に帰らないし。雑談は好きだけど、できるだけ早く家に帰りたいし。
我妻くんとの帰り道は、大体彼の話に相づちを打つだけで半分を過ぎた。今日の禰豆子ちゃんもかわいかったとか、今日のしのぶさんは美しかったとか、今日も冨岡先生に怒られたとか、いつも竈門くんに話しているような話だからろくに聞いてない。話半分どころか四分の一だ。
「……ねえ、渋川さん聞いてる?」
「多少は」
「ヒドッ!!」
「普段からその話してるでしょ……」
というか、自分より年下の女の子の素晴らしさを実の兄に説くのはどうなんだろう。竈門くんが妹さんのことを好きなのは私もわかってるし、その兄にストーカーじみた演説を聞かせるのはちょっと意味がわからないというか。
「じゃあ渋川さんはなんの話ならいいのさ」
「なんかこう、もっと生産的な話しようよ」
「生産的ィ? せっかく二人で帰ってるのに!?」
「ならもっといつもしない話しようよ、あ、恋バナ禁止ね」
我妻くんの恋バナ、イコール竈門くんの妹の話だろうし。それじゃ普段と変わらない。そしてこっちから提示できる恋バナのカードもない。空を睨んで百面相してみせた後に、我妻くんが口を開いた。
「渋川さんて彼氏はいないの?」
「いたら我妻くんと一緒に帰ってないでしょ」
「でも確か、一昨年の冬くらいに渋川さんが男の子と帰ってるの見たことあるんだよ」
……よりによって、その時期か。一緒に帰っていた男子とやらに心当たりはある。まあその頃付き合っていた彼氏だけど、ちょうど年始に別れたやつだ。
「元彼だよ。はいこの話終わりね」
終わらせてたまるか、というようにこっちの顔を見てきた頭にデコピンを喰らわせた。威力はないけど爪しばらく切ってないから結構痛いかも。額をさする我妻くんに心の中で謝って、歩くスピードをあげた。
無言でしばらく歩いていたら、大きめの交差点で我妻くんが声をあげた。
「じゃあ俺こっちだから、また明日ね渋川さん」
「じゃあね、また明日」
手を振る我妻くんに、私も手を振り返した。私の家は橋を渡ってすぐのところだ。我妻くんの家は近くなのかな。もしかしたら明日の朝も一緒に行こうとか、メールが来たりしないかな。
学校から見える位置にある橋はふたつの大通りを結んでいて、普段は車の絶えない通りでもある。今日は珍しく車通りがない。こんなこともあるもんなんだなぁ、としみじみしながら橋への階段に足を掛けた。タッタッタッタと駆け上がる。橋の途中にフードを被った男が一人立っていた。動く気配がない。断って横を通り抜けちゃおう。すみません、と口を開きかけた。
「――十六」
「……? あの、すみません、横を」
「十六の娘の匂いだな」
十六の、娘? 確かに誕生日はまだ来てないから、私はまだ十六だけど。なんで年齢を知られてるの? いや、その前にこの男は何者?
男に相対したまま数歩後退する。その速度より早く男に右腕を取られた。
「そこの高校の生徒だろう? 鮮度は成りたてに比べればやや劣るが早く喰ってしまわねばな」
鮮度? 喰う? この男は何を言っている?
腕を掴む力がだんだんと強くなる。逃げなきゃ。急に心拍数が上がるのがわかった。昼に我妻くんと交わした口約束を、ふと思い出した。
「たっ……助けて!」
もう分かれ道は過ぎてしまって、口約束は無効だろうけど。我妻くんじゃなくていいから、先生とか、知らない誰かの助けを求めて叫んだ。意思に反して連れていかれないように、あいている方の手で縦方向に入った橋の装飾に腕を絡ませた。右腕を引かれて、全神経を左腕に注いだ。しかし男と女、それも大の大人の男と女子高生。限界はあっという間に来た。橋の装飾を握っていた手の力が、うまく入らない。かかとより後ろにかけていた体重が引っ張られる腕につられて前に倒れる。スカートとソックスの間の素肌が地面の石で削れるような感覚。きっと指定の白いソックスは黒く汚れているんだろう。呼吸もうまくできなくなって、とてもじゃなけどもう声なんてあげられない。どこに連れていかれるのかわからないけど、せめてそれまでの道のりで、さっきの声を聞いた人がいてくれたら――
祈るように目を閉じた瞬間、左腕が、男の進行方向と逆側に引かれた。
「おい、フード野郎。渋川さんの手を放せよ!」