7/21 渋川千夏
『ただいまの曲は『浅草音頭』でした。次の曲は『あゝ大正』、三回続きます――』
祭りのやぐらの周りにできた円から抜け出す。近所のおばちゃんたちに、あら千夏ちゃんもうやめちゃうの? と聞かれて友達と約束してて、と答える。……友達、かな。友達でいっか。
踊っている間見ていなかったスマホには、数分前に送信された我妻くんからのメッセージが入っている。今から家出る! そんな報告、約束の時間に遅れるわけでもなさそうだしいいのに。
大通りに近い方の公園の入り口は私たちと同じように待ち合わせをする人や花壇の縁に座ってご飯を食べる人たちで混雑している。集合場所は公園全体の見取り図の前。後ろから見ても、既にそこにいる人の中に我妻くんはいなさそうだと分かる。比較的人の少ない脇のスロープから集合場所へ向かうと、正面からやってくる見慣れた黄色い頭が見えた。
「我妻くん!」
「ごめん待たせたよね渋川さ……んっ!?」
走ってきたらしく少し息があがっていた我妻くんが、動きどころか息まで止めて直立不動の体勢をとった。……白目剥いてる。顔の前でひらひら手を振ると、びくりと背を震わせてまばたきした。
「そこで立ち止まるといろいろと邪魔になるから、ほらこっち」
「いや、だって……渋川さん浴衣来てくるなんて一言も言ってなかったじゃんか!!!」
「そりゃ今日急に着せられたんだもん……」
「俺にも準備をさせてくれよ! 心の準備ってやつをさあ!!」
……私だって、今日突然浴衣で踊れって言われた側なんだけど。
家族ぐるみで親しくしてくれているおばあちゃん達が風邪を引いてしまったらしく、そのおばあちゃん達が所属している盆踊りグループ抜きでは祭りが盛り上がらないから踊ってくれ、と母親から頼まれてしまった。さっき抜けてきた時には子供やTシャツ姿の大人も踊っていたし、急に言われたんだから一曲だけでも怒られないでしょ。踊ったのなんか三年ぶりで、しかも振り付けも覚えてないから前の人のを真似しただけだし。
「だから、今日急に着ることになったんだってば。……さっきまで踊ってたし」
「えっウソ渋川さんが!?」
その反応はどういう意味だ、とは言わなかった。……そういえば夏前に私の浴衣が見たいって言ってたけど、驚きはすれどそれ以外に特になにか言うことはないのかな。……なくていっか、我妻くんだし。
「とりあえず行こうよ。竈門くんとこの出店、早めにいかないと混みそうだし」
「禰豆子ちゃん浴衣かなぁ、浴衣だといいなあ」
「働きにくいだろうし洋服だと思うけど」
「そういう現実突きつけるのヤメテ」
……はいはい、我妻くんってそういう人だもんね。ええ、知ってましたとも。仮に竈門くんの妹さんが浴衣だったら会った瞬間褒めちぎるだろうし、もっと言えば胡蝶先輩や神崎さん相手でもそうなること間違いなしだろうし。ああもう、わかってるのにちょっとイラつく。女の子と回るから浴衣を見たいなって言っただけで、ほんとのところで求めてるのは浴衣姿の女の子なんでしょ。その証拠にほら、大きめの黒目はきょろきょろ動き回って、きっと眩しい色の浴衣の女の子を探してる。
ちょっと早足で――とはいえ下駄なので程々に――踊っているときに聞こえた竈門くんの声の出所に向かうと、さっきよりも列が長くなっていた。
「ほら、並ぼ」
そもそもの歩幅とそれから服装のせいで、急に早足になっただけじゃ置いていけなかった我妻くんの方へ振り向く。まずは竈門くんのとこのパン、とは予め決めてた話だから。
竈門くんも妹さんも、揃いのシャツにエプロンといった出で立ちで、ちらりと隣の我妻くんの様子をうかがう。
「髪の毛結んでる禰豆子ちゃんもかわいいなぁ……」
「そりゃ衛生的に結ぶよ」
「えっ今の聞いてた!? 嘘でしょ!!?」
「そこで後ずさったら後ろの人に迷惑でしょ。それと普通に丸聞こえ」
前の方に見える看板には屋台で売ってる揚げパンの味が全部載ってるみたいで、やっぱり品数絞ってるんだなぁ、と口に出さず思った。屋台だし、いつものが食べたければお店にいけばいいんだし。今晩と明日の朝のために揚げパン二つ買おう。きな粉シュガーとココアシュガーの。
「渋川さんさ、この後行きたい屋台ある?」
「んー……なんかしょっぱいの食べたいかも。揚げパンだし」
「そしたら焼きそばとか?」
「じゃあそれで。その後どこか食べれるとこ探そう」
店で作った揚げパンはともかく、焼きそばはだいたい温かいのが渡されるだろう。せっかくお祭りなんだから熱いうちに食べちゃいたいし。
そうこうしている内に列の先頭が私たちに回ってきて、竈門くんに挨拶しながら注文をした。二人とも来てくれたのか、と答えてくれて、それから数秒の内に出てきた袋を受け取って列からさっと抜ける。
「大盛況だな」
「ほんとにね……」
レジ係の竈門くんにお疲れ様くらいしか言えなかったし、それ以上する気になれなかった。中身の確認、黄色と焦げ茶の塊が一個ずつあるから問題なし。
「あっちでラムネ売ってるみたいだけど、買わない?」
「ラムネ! 祭りって感じするよね。行こう」
回転が速いのかちょうど空いている時間なのか、一分もしないうちに私たちの手にキンキンに冷えたラムネの瓶がやってきた。これを開けるのは焼きそばを買ってからにしよう、と袋の中に滑り込ませる。
「ラムネ三つくたさい」
後ろの方で聞き覚えのある声がした。誰だろうと振り向くと、栗花落さんがラムネの瓶を袋に入れてもらっているところだった。
――浴衣だ。栗花落さんが浴衣ってことは、もしかしなくても胡蝶先輩や胡蝶先生と一緒に来てて二人とも浴衣を着てるんだろう。多分手分けして買い物に行ってたり場所取りしてるのかな。はあ、我妻くんが知ったらうるさいだろうな。黙ってよう。
「焼きそば、列長くなってきたよ。急ご」
「ちょ、ちょっと待って! 靴紐ほどけちゃって」
さっきからなにをしゃがんでるのかなって思ってたら、そういうことか。混んでて靴紐を結ぶのも一苦労という様子の我妻くんの側に立って、彼が立ち上がるのを待つ。
「慌てなくていいから、ちゃんと結んで。袋持つよ」
右手にかかる重さが二倍になる。二枚のビニール越しに瓶が触れる音が祭りの喧騒に混ざって聞こえた。栗花落さんの姿はその中に消えて、ラムネの屋台の前にはまた静けさが戻る。やけに遠くから靴紐を結びおわった我妻くんの「よしっ」って声が聞こえて辺りを見るけど、もちろん彼が遠くに行っていたなんてことはなく。
「結べた?」
「うん。焼きそばだよね」
我妻くんの袋を渡そうと右手を差し出すと、二つとも我妻くんに持っていかれてしまった。奪うように我妻くんの手に収まった瓶がぶつかる音。頭の中のもやを晴らすような綺麗な音だった。