夏の夜の魔法




「ねえ、左右田さん――」

 どんな状況でそれを言ったのかは、正直言って覚えていない。だけど、私がそのあと何を言ったのか、それに彼がどう反応したのかははっきり覚えていた。

「――どこか遠いところまで、駆け落ち、しましょ」



 遠いところまでと言ったはいいものの、ついうっかり左右田さんが乗り物に乗れないのを失念していた。学校を出てはや数十分、私も左右田さんもバテバテだ。
「あぢー……」
「……水飲みたい……」
 ジリジリと刺すような日差し、数十メートル先の空気すら揺らいで見える陽炎、けたたましいセミの鳴き声。五感で味わう夏、だなんて少し前に流れたCMであったけど、あんな爽やかな夏は夏じゃない。
「……つーかよ城咲、オメーどこまで歩くつもりなんだよ……」
「うーんと……えっと、誰も知り合いがいなくて、街灯が少なくって、電車のドアがボタンを押さなきゃ開かなくって、夜になると自分たち以外の人の声が聞こえない場所ですかね」
「なんでそんなふんわりしてんだよ! 駆け落ちっつーから行き先決まってるもんだと思ってたわ!!」
「ふっと思いついちゃったんですもん仕方ないじゃないですか」
「そもそもそんなところまで歩いていこうってのがなんかの間違いだろ……」
 それに駆け落ちって言葉自体間違いじゃねーかと溜め息を吐かれて、雰囲気だけで言えばあってるじゃないですかと笑い返した。
「城咲、……電車乗らねぇ?」
「乗り物、乗れないんじゃないんですか?」
「電車ならなんとか乗れるからそこは安心してくれ。それとこのまま歩いて熱中症でぶっ倒れるよりかはマシだ」
「……ふふ、それはよかったです。じゃあ駅に行く前に目的地を決めましょ」
 ちょうど目に入った、こぢんまりとしたカフェを指差す。あそこで日射しが少し弱くなるまで待ちましょう、と微笑んだ。



「下手に歩かないほうが良かったですね……駅が遠い……」
「しかも一回都心の方に戻んなきゃいけねーしな……」
 でも10分キャップで電車があるところで良かった。それにさっきと違って屋根もあるし。
「つーかそんなに暑いなら髪結べばいいんじゃねーか? 見ててこっちも暑くなるぜ」
「あー……それじゃあお言葉に甘えて」
 リボンをしゅるりと解いて、せっせと三つ編みを作る。片方だけだと頭が痛くなることもあるし、両サイドに。……この髪型を人前でするのは久しぶりだ。解いたリボンはカバンにしまう気にはなれなくて、手首に蝶結び。
「……なんっつーか、オメーがいつもの髪型じゃねーの見るの初めてだな」
「前の学校にいたときはずっとこうだったんですよ。ほら、女子校だったので校則で。中学の間だけですが」
 あの頃はそんなに好きじゃなかったので校舎出た瞬間速攻で解いてました、とくるくる毛先を弄りながら言う。
「でも……この髪型、なんだかんだで好きなんですよね。こう……えーっと……自分でいられる、と言いますか……中学生の頃はまだ学内であれこれやってただけでしたし、これが超高校級の照明監督の城咲未明ですってしなくていいから、今に比べて楽だったなーって」
 だから今は、ただの女子高生の城咲未明です。と冗談めかして言えば、彼は眉を落として微笑んだ。さっきから聞こえていたセミの声に、私のものでも彼のものでもない、プログラムされた音声が混じって流れ出す。
『まもなく1番線に、池袋行が参ります。黄色い線の内側でお待ちください』
「あー、やっと電車が来る……冷房ぅ……」
 停車位置の三角の間に移動して、手で顔に風を送りながら冷房車を待ちわびる。
「この時間だし、上り電車はさすがに座れんだろ。ま、座るほどの距離でもねーけどよ」
「やです……座ります……冷房……」
 暑くて思考も溶けて、もはや単語しか口からこぼれない。目の前に滑り込んできた電車の空き座席を見つけて、誰にも渡さないと言わんばかりの速さで身を落ち着けた。……左右田さんには呆れ顔をされた。



「……城咲。ほら、降りるぞ」
「あれ、これ終点までじゃなかったでした?」
「このままだとまた東京の方に戻っちまうぞ」
 あれれ。路線図なんてぱっと覚えられるもんじゃないから、どこで乗り換えとか全然わかってないや。
「んー……乗り換える電車が来るの、向かいのホームでしたっけ」
「おう、ここが始発駅だから急がなくても座れるから安心しろ」
 鞄を引っ掛け直した肩を叩かれて、階段へと一歩を踏み出そうと勢い良く上げた足が、階段を踏み外す。
「うわっ」
「あっぶね……大丈夫か?」
「無事ですけど……今のは左右田さんが急に肩叩いてくるからですよ」
「……ワリィ」
 ぱっと手を離され、後ろを振り向けば彼は帽子をかぶり直していた。なんだか少しだけ申し訳なさそうな顔をしている。
「……それじゃ、慌てず急がず行きましょうか」
 向かいのホームにはぽつぽつと人はいれど、きっと座れないほどでもないだろう。電線がないからだろうか、とても遠いところに来たような気がした。


「……はーい、ありがとうございます。それでは駅でお願いします。はい、はい……はい、わかりましたー。それでは駅前にいますので、はい、ありがとうございます」
 電話を切られる音がして顔を上げた。私も通話終了のボタンを押して、画面の電源を落とす。
「……で、どうだって?」
「空いてたっぽいです。まあこの時期ですしね。30分くらいしたら迎えに来てくれるらしいのでそれまで適当に時間潰しましょう」
「城咲、オメー宿が空いてなかったらどうするつもりだったんだよ……」
「えーっと……野宿?」
「オメーには計画性ってもんがねェのかよ!! テントもなくて買いも出来ねーのになんで野宿ができると思ったんだよ!!」
「あ、あはははは……」
 …………計画性皆無でごめんなさい。
 ひとまず駅を出て(無人駅というものがまず久しぶりだ)、その辺を歩こうと踏み出す感触がいつもと違くて。
 あぁ、久々の非日常。こういうのが楽しいんだ。……だなんてことを思いながら、すでに傾いている日差しに目を細めた。


 着慣れない浴衣と、履きなれない底の薄いスリッパ。ぺたぺたとひとりしかいない廊下をまっすぐ行って、突き当りの部屋。ノックをして、でも返事がなくて、だけど部屋の前にずっといるわけにも行かないし左右田さんどこにも行ってないだろうし、とドアを開けた。
「ただいま戻りましたー」
「おかえり、風呂どうだった?」
「いい感じに冷たくて気持ちよかったです」
 ……とはいえ、部屋の冷房が過剰で必要以上に冷えた気はするんだけど。表面に付いた水滴を拭って、貰ったばかりのフルーツ牛乳を流し込む。
「……お風呂上がりって言ったらやっぱりフルーツ牛乳ですよねえ、私はフルーツ牛乳よりコーヒー牛乳派ですが」
「いやいやいや、どっから出したんだそれ!!」
「あ、お風呂から出たところでルームサービス? ではないですけど、女将さんに渡されまして」
 空になったビンをちゃぶ台の上に置いて、すでに用意された布団の上に転がった。布団なんて使い慣れてないのにどこか懐かしくて、それがおかしくて。
「おい城咲、寝るなら髪乾かしてからにしろって」
「そこはだいじょぶです。ちゃーんと乾かしてきましたよう」
 大の字になって寝転ぶと、目に入るのはいつもと違う天井。ふと見つけたそれを指差して、視線だけ左右田さんの方に向けた。
「あ、見てくださいよ左右田さん、天井の木の模様が髪の長い女の人みたいです」
「いや予めそう前置きされると怖さのかけらもねェからな?」
「怖い話し慣れてないのでわかんないですよそんなの」
「しないでいいだろ別に! むしろすんな!!」
 ……ちぇっ。
「とりあえずオレも風呂入ってくるわ。鍵持ってくぞ、寝落ちされて入れなくなっても困るしな」
「はーい」
「……まああれだ。眠いなら襖締め切って暗くしててくれ」
「特に眠くはないので、多分平気かなーって……それじゃ、行ってらっしゃい」
 扉が閉じて、カシャッと鍵の閉まる音がした。天井を見るのもしばらくしたら飽きて、窓際の椅子に座って外を眺めることにした。家の明かりがぽつぽつと見え、その先に高スピードで走り抜ける物体を見つけた。確かここのあたりの終電だったっけ。


「……い、……おい城咲」
「ふあっ!? はいなんでしょうか!!」
「いや、戻ってきて声掛けたのにオメーが返事しないからちょっと心配になったっつーか……寝てんじゃねェかなって思ってな」
 寝て……はないつもりだったけど、確かにそうかもしれない。お陰で頭はいくぶんかスッキリしたし、左右田さんの顔もなんだかぼやけて見える。目をゴシゴシ擦ってようやくピントが合った。
「ちょっと寝ぼけてる……みたいで……」
「みたいってかどう見ても寝ぼけてんだろ。んで、あれだ。フルーツ牛乳貰ったけど飲むか?」
「……左右田さんはいらないんですか?」
「コーラ買っちまったし、そんなにフルーツ牛乳好きじゃねェんだよな。ま、飲みたくねェなら無理にとは言わないけどよ」
「いえ、ありがたくいただきます」
 受け取った瓶はさっきのよりぬるくて、でも自分の身体も冷えたことだしこれでもいいか、とそっと口をつけた。
「……はー」
 一口飲んで天井を見上げれば、正面でかしゅっと缶を開ける音。
「風呂上がりのコーラは最高だぜ」
 歯を見せて笑う彼は、私と揃いの浴衣を着ている。いつもの帽子もない。
「……左右田さんが帽子被ってないの、初めて見ました」
「さすがに風呂上がりまで被るわけにもいかねェしな」
「はは、それもそうですね」
 牛乳瓶を片手に、また窓の外を見やる。
「……綺麗ですね」
 左右田さんに宛てたわけではない、けれども独り言とは言えない言葉。ただそれだけじゃ少し勘違いされちゃいそうで、慌てて付け加えた。
「……あ、えっと、星が」
「お、おう、星か……確かに綺麗だけどよ」
 左右田さんも、同じように窓越しに空を見る。ごくりとフルーツ牛乳を飲んで、ことりとテーブルに空の瓶を置いた。表面に残った水滴を指の腹で撫でる。
「ねえ、左右田さん。なんだか私……眠くなくなっちゃいました」
 だから一晩中、お話しましょう。
 そう言えば、左右田さんは仕方ないというように肩をすくめた。


「それでそれで、舞園さんが――」
「……オメーはいつまで話し続けんだよ……」
「え? うーん……いつまででしょう?」
 左右田さんのあくびが増えて、私もちょっと眠気が戻ってきた頃。お互いの手の中の飲み物が、コーラとフルーツ牛乳から水に変わった。時計なんて見てない。見たらこの空気が、綻んでしまいそうだから。
「もっと。……もっと、ずーっと。ここに、こうしていたいなぁ……」
 白いコップを、両手で握りしめる。左右田さんの顔が上下している。半分寝てるのかな。なら、喋っちゃってもいいかな。
「……ずっと、こんな夏休みでいてくれれば。私が照明監督な私じゃなくて、1人の女子高生であれる夏休みなら、いいのに……」
 私も呂律が怪しい。きっと明日になればお互い忘れちゃうだろう。だから、こんな自分らしくないことだって、言っちゃったって構わない。
「……この夏が終わるまでは。オメーはただの城咲未明で、オレはただの左右田和一だ。……だから、その……」

 ……その後、彼が何を言ったかは覚えてない。私が寝たのか彼が寝たのか、はたまた私の夢だったのか。それはきっと、誰にもわからない――



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