「鼻どうしたの、山田くん」
「まあちょっと、マグロとか船とか、色々あってさ」
非常に言いにくそうに言葉を零しながら鼻の頭を掻いた山田くんは、一瞬痛そうにぴくりと反応してみせた。何で頬じゃなくて鼻を掻いたんだろう。血は滲んでいないみたいだけど、それなりの怪我だったということか。
「船って歩ちゃんの?」
「いや、俺の」
「山田くんのっ!?」
「そうだけど」
船舶免許って高校生で取れたっけ。確か種類によっては十六歳でいけるって歩ちゃんが言っていたような…それよりも「いや、俺の」ってどういうことだ。山田くん個人が所有してる船ってことかな。お金持ちの息子なのか、山田くんって。
「どうかした?」
「うっ、ううん!そっか、船。山田くんの」
「……」
「…今日は何の帰り?」
「ああ。ユキのお祖母さんが退院したから、そのお祝いで」
「そうなんだ。マグロは」
「お祖母さんの好物らしくてさ、だから釣りに。…まあ、俺は出来なかったんだけど」
「したかったの?」
「そりゃ――…いっ、いや。まあ調べることもあったし、操縦で構わなかったんだが…」
山田くんの口から零れたユキという響きに、少なからず私は驚いた。
そんなに話してる印象なかったし、夕暮れにその姿を見つけたときは離れた場所で一人立っていたから、そんなに仲は良くないのかと。
「そうそう」
「ん?」
「えり香ちゃんが、山田くんが遊びに来たって教えてくれたの」
「遊びに…」
「変な感じって言われたって怒ってた」
「本当に変な感じだったからさ」
「可愛いと思うけどなあ、私は」
「そう?」
「ま、えり香ちゃんは元々可愛いし」
「あのさ、なまえちゃん」
淡々と、それこそこれまでの会話と変わらないトーンで。さも当たり前のように、それしかないのだと言うように、山田くんはなまえちゃんと口にした。
なまえちゃん。なまえって私だっけ。一気に体温が上がったというか、すべての熱が顔に集中したような。思い浮かんだのは沸騰という言葉。そう、まさしく沸騰したんだ、私は。
「え、わた、し?」
「あれ?なまえちゃん、じゃないっけ」
「そっそうだけど!なまえだけど!…私を、呼んだの?」
「何かおかしかった?」
「いやいやっ、何も!」
「まあ、それで」
真っ黒な瞳が私を見詰める。見詰めるというよりは射ると言った方がいいのかもしれない。鋭い何かが私の胸を、貫く。
「…うん」
「アキラ」
「え?」
「アキラでいいよ。えり香ちゃんもそう呼ぶしさ」
「り、了解しました…」
「何それ?」
緩んだ表情が眩しく見える。これはちょっと、歩ちゃんに会いに行かないと。
20120524