目が覚めてしまった。
呼吸音でさえ響いてしまいそうな静寂の中、なまえはゆっくり、右へ左へ瞳を動かす。下手をすれば、これすら騒音なのではないか。そんなことを思いながら。
「………小太郎」
恐怖が心を満たしていくのがわかる。呼んでみれば応えるのではなんて、淡い期待を抱いて名を吐き出した。どんなに小さな声であれ小太郎ならば気付くと信じ、祈りながら。しかし空間を満たすのは変わらぬ静寂、氏康からは何も受けていないはずと考え、また何度か左右を確認する。
とは言え、気配を殺すのがあの男の務め。味方であれそう簡単に気取られては仕事にもならないだろう。だが、小太郎が現れぬからと眠る兵を起こすのも。出来ると啖呵を切って道同したのはなまえ、静寂などに怯えていては、城で大人しくしているべきだと大笑いされそうではないか。
それだけは何があっても避けなければ。出来ぬことはないのだと胸を張るためにも。
「……こ、」
もう一度と発しかけて思い出す。そういえば氏康はいつも手を叩いていたような。あれが合図とするならば、真似てみれば今度こそ。名を呼んではいなかった、手を打つ回数は。思い起こしながら、数度。
「…………」
左右、ついでに上下も確認する。しかしあの巨体は見当たらない。考えにくいが聞き逃した、あるいはなまえが間違っていた。後者の可能性が非常に高いため、続けるべきかに迷いが生じる。いっそこのまま見張りに加わってしまおうか。そんな風に考えると、だ。
「赤子は母が恋しくて眠れぬか」
「っ!?」
確認してもいなかったはずの人物。しかしこの声は間違いようもなくその人物にしか出せないものだ。大きく跳ねた肩に覚えた羞恥、望んだ相手は気にもしていない様だが。
「こっ、……こたろう」
「ああ、うぬが捜していた小太郎だ」
「いたなら、」
「我は忠実なだけだ。うぬとは契約をしていない」
「契約?」
なまえが返せば「氏康との約だからな」とだけ告げ、それ以上のことは口にしない。とはいえ、それだけで小太郎の言わんとすることは何となくだが理解出来たような気もする。
「…それって忍の掟なの?」
「どうであろう。だがそうとして、うぬに話す必要があるとも思えぬ」
「まあ確かに」
「なまえはいい子だな。物分かりがいい」
「……誉められたってことにしとく」
何か深い意図があるのか、それとも。小太郎の言葉の意味を考えてみたところで正解に辿り着けるはずもなく。それに、そこまでして風魔小太郎という個を知りたいか、と問われれば否である。人ならざるもの、目には見えぬもの。ありとあらゆる何かと渡り合えるような存在感が小太郎にはあって、なまえはそれに縋ったに過ぎないのだから。
なまえの思考など気にする素振りもなく、ただなんとなしに笑ったような空気だけ纏った小太郎は次にぽつりと、口を開く。
「しかし、我が魔除けとなるかはわからぬぞ」
「え?」
「却って我が呼び寄せるかも知れぬし、我自身がおばけという可能性もある」
「…いやいや、何言ってんの」
「……」
「黙ってこっち見るのやめて」
「我はおばけさん、だからな」
「それもやめてっ、小太郎が言うと冗談に聞こえない!」
「いい子と思えば我が儘か」
「そもそもおばけさんって何…」
「おばけさんはおばけさん、そのままだ」
なまえに恐怖を植え付けたかったのかは定かではないが。言い終えると再び黙った小太郎はただ静かになまえの後方に控える。座らないの、目で訴えると同じく目で返答が。座らない、らしい。
「………朝までいる?」
「なまえが完全に眠るまではいるとしよう」
「…話しかけてもいい?」
「構わぬ」
「えっと、」
「頭でも撫でるか?」
「それは要らないけど」
「くっくっ…」
幽霊であれ人間であれ。
安心出来ているなら、それでいいのだろうか。
end.
20200903